Saturday 7 December 2013

9.(注:その文字を書いておきながら、彼はカタカナの存在が頭から抜けているかもしれない


Ⅰ:記憶たよりだけど確か女文字はひらがな・2013/12/02)


というわけでですね、平安朝前期のお人、紀貫之さん。
の「土佐日記」って、"かなまじり"ですよね?
全篇"かな"では無いですよね?そこらへんまったく知らんです。


「をとこもすなる日記といふものを、をむなも」と、わざわざ女性のふりして"かな"まじりの文章書いたんですよね。
ひらがなって、成立当初は女文字とかいって男が使うなんて恥ずかしいって感じだったんでしたっけ?
士大夫たるもの、男はだまって漢文じゃ、みたいな。

少なくとも平安の頃までは、まあそもそも文字をもっているのは一部の支配階級の人たちだけだったのかもしれんけど、漢字・ひらがな・カタカナ、あんまり交じり合うことなく日本語の中で棲み分けしてたんですかね?


ん~でも和歌ってどうなんだろう?
あれは"かな"使いますよね。

万葉集とかはあれでしたっけ?
漢字をそれこそ"かな"のように純粋に表音文字として当て字して使ってましたっけ?
つうか、そういえば、万葉仮名って名称ありましたよね。
そこから、それがめんどくさいってことで"かな"が発明されたんですかね。

ん~でもそうだとすると万葉集は、つうか和歌は"かな"、つまり女性的なもの、たおやめぶり、ですか。
でも男もガンガン詠んでますよね。女文字とかいいつつ実は最初から裏では...だったりするんですかね。

あれ?古事記とかはどうなんだろう?
あれは原文は漢文ですか?どうですかね?

ああ、そういえば、これまた不確か記憶たよりですが、陳舜臣さんの言葉で「古来、中国の詩は、男は志をのべるもので、女は怨みをうたうものだ」みたいな、ん?これはあんまり関係ないか?

つうか、それがすべてではないでしょうが、和歌って男が女に求愛の歌をおくって、んでもって女が男にその返事の歌をかえして、みたいな感じですよね。

で、女性におくるんだから、男も"かな"使いますよね?
で、女性はもちろん"かな"使いますよね?

で、眠い。

というわけで、「西郷南洲遺訓」。
西郷隆盛さんの遺訓ですね。
なぜか我が家にあるんですけどね。漢文。返り点。読めん。なんですね。

で、眠い。

あれですかね、結構時代くだっても、それこそ明治政府によって学校教育が整備されるまでは、眠い、手紙とか日記では当て字とか"かな""カナ"まじりでけっこう自由に書いてますよね。

んで「西郷南洲遺訓」。漢文。返り点。読めん。なんですね。

会津藩の「京都守護職始末」も「新撰組、規律厳粛、志気勇悍、水火と雖も辞せず、後諸浪士来附するもの頗る多く、守護職の用をなせる事、亦甚だ多し」だもんな。
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」だしな。

で、結論は限界。つまり限界がけつろん。

おやすみなさい。





Ⅱ:志


「三国志」は「三国志」じゃないですか、「三国史」ではなく。
「漢書」は「漢書」だけど、その中の「地理志」は「地理志」じゃないですか「地理史」ではなく。

で「三国志」は「魏志」や「魏史」とかではなく、「魏書」「呉書」「蜀書」の総称ですね。
これちゃんと調べたわけじゃないですけど、「漢書」とひっくり返ってますかね?

まあ「史記」は「史記」ですね「志記」ではなく。

で、それはさて置き、"志"です。
ちなみにここで登場するのも、あくまで僕の記憶たよりの「古来、中国の詩は、男は志をのべるもので、女は怨みをうたうものだ」です。

で、それを前提に話をころがしますが、「三国志」や「地理志」。

この"歴史"を"歴志"つうのは、あれですかね、"歴史"は男どもの志の具象化、傷跡、あくまで男のもんじゃ、てなことなんですかね。←もちろん"志"以外にも"紀"だの"伝"だの"表"だのありますよ

it's a man's man's man's worldてなことなんですかね。



つうても、たとえば漢帝国の初代皇帝劉邦さんの奥さんの呂后さんみたいに、劉邦さんの死後"女の身でありながら"帝国の実権を握った人もいるんですね。
事実上の皇帝として中国の政治をつかさどった人もいるんですね。

で、結果、現在、なんでも呂后さんは唐の則天武后さんや清の西太后さんらとともに中国三大悪女とよばれているらしいんですね。
まったく悪い女がいたもんだと。

ま、たしかに劉邦さんの本妻の呂后さん。
晩年の劉邦さんが愛した女性を、劉邦さんの死後異様に残忍な方法でなぶり殺しにしたり(無茶苦茶です)。
呂一族で権力を握るために、夫の一族である劉氏の人間や反抗する邪魔な人間を殺しまくったり。
もう、かなりエグイことをやりたおしています。
ひどいもんです。そりゃ悪女とよばれます。

が、↑の話はあくまでも王宮内での話で、どうも呂后さんの時代は戦争もなく平和で、刑罰も厳しくなく、庶民には暮らしよい時代だったらしいんです。

庶民には悪い時代ではなかった、悪い権力者ではなかった、みたいなんです。
呂后さんの死後、そっこう呂一族は誅殺され劉氏に実権がもどり、んでもって漢帝国栄光の武帝の時代がやってくるわけですが、その栄光も平和で穏やかな呂后さんの時代の国力の蓄えがあったからこそともいわれているらしいんです。

と、昔、陳舜臣さんの「中国の歴史(二)」で読んだ気がします。
はい"気"です。

もちろん、呂后さんの時代は王宮側の人間である官吏のみなさんが「いらんことしたら殺されるかも」とビクビクしてて、なんもできず実質無為自然、庶民まかせ、そしたら思いのほかうまくいった、結果オーライってこともあるかも。

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