Thursday 31 October 2013

love letters

Ⅰ:越路吹雪さんが好き

「最初は友達としか思ってなかったんだけどさ、お前の存在が俺の中でどれほど大きくて、大切なものか気づいたんだ」

という話ではなく、越路吹雪さん。
好きです。自分にびっくりです。こんなに好きになるなんて~です。
もちろん、名前はしってましたし「愛の賛歌」とか「ラストダンスは私に」とかも知ってました。

しかしこんなにヘビーローテーションで聴くようになるとは。(有名ドコロ10曲くらいですが)
もともと「Save the Last Dance for Me」とか原曲のポップスが大好きってのもあるとは思うんです。
でもそれだけじゃなく、「人生は過ぎゆく」とかでの女の情念とか哀切をギュワっと凝縮したかのような声を聴いた瞬間もう、やられた~!!なんです。

が~ん!!てくるんです。

で、ここで、妙な方向に発想が

小学校4年生くらいの時って夏のキャンプとか行くと、夜は必ず子供だけで「お前、誰が好きなんだよ。教えろよぉ」みたいな話になりませんでした?「絶対にいわないからさぁ。ここだけだから教えろよぉ」と。
それで押しに負けてしゃべると、次の日にはもう参加した子供全員が知っていると。好きな女の子がいたらその子も。
「絶対にいわないって言ったじゃないかよぉ」と涙声で怒っても後のまつりと。

ただ、あれってわかってんですよね。教えたら絶対しゃべるって。
俺は言ったことも言われたこともあるけど、そりゃねぇ、ンなこと聞いたらね、しゃべりますよ。おもしろいもん。
だから俺も「絶対に言うなよ。俺が好きなのは...」といいつつも、明日には言われるのはわかってんですよね。ちゃんと心の中で。それでもしゃべってしまう。しゃべらざるをえない、おかしな情熱がある。

やっぱり「愛こそ燃える火」だからか?

というオチでした。





Ⅱ:うまかっちゃんが好き

即席ラーメンのうまかっちゃん(とんこつ)が好きです。

最初に貴方に逢ったのは何時の事だったでしょう。
気づいたときには、すでに貴方は私の心の中にいました。

貴方なしでは生きていけない。
貴方と共に人生を歩んでいくのだ。
そのことに、なんの疑問も抱いていませんでした。
あくまでも私達の未来は明るく、真夏の太陽のように光り輝いていると感じていました。

でも...

私にも非はあります。
ある時を境に故郷を離れ、遠い異郷の地で暮らすことを選んだのですから。

しかし,そんなことで私達の関係が終わってしまうとは、とても思えなかったのです。
そう、私は世間知らずの子供でした。

異郷の地での最初の夜は不安なものです。
そんな不安からでしょうか?私は貴方に逢いたい気持ちを抑えがたく、気づけばスーパーへと足を向けていました。

しかし、いないのです。貴方がいないのです。
このスーパーだけかと思い、見知らぬ街を貴方を求めて彷徨い歩きました。
しかし何処にも貴方はいませんでした。
貴方が故郷の地を離れられない身であると知ったのはその時です。

貴方は私の前から消えてしまいました。



しかし、異郷での生活にも慣れ、新しい友人もでき、今までとは違う世界が広がるにつれ、貴方のことを思い出す事もだんだん少なくなっていきました。
もう貴方のことは忘れられる。新しい人生を生きていける。そう感じるようにもなってきていたのです。
そう、あの日がくるまでは。

眩くもせつない記憶の欠片...

ダイエーの特売品コーナーで貴方を見つけたとき、私がどれほどうれしかったか貴方にわかりますか?

もう、はなさない。
そんな思いで私はカートに貴方をいれました。

でも、そんな私を嘲笑うかのように、貴方はたまにしか逢いにきてはくれませんでしたね。
でもそれでもよかったんです。
逢いに来てくれるならそれでよかったんです。

貴方が悦んでくれるなら、いくらお金を使っても、それでよかったんです。

しかし、それももう過去の話
いつからか貴方は完全に私の前から消えてしまった。

人生で一度失ったものを、二度失うのはつらいことです。

それからというもの、私がどれだけ貴方のことを想い、身悶えする夜を過ごしてきたかわかりますか?

涙も枯れた季節をかさねてきたかわかりますか?

もういい。いつ来てくれるかもわからない貴方のことなんか、もう忘れよう。
何度もそう思いました。
貴方を忘れたい...
その一心で、チャルメラとんこつ味やサッポロ一番とんこつ味などに身をゆだねた夜もあります...

私も生身の人間です。
どちらの殿方もそれは素晴らしく、恍惚の中に忘我の時間をすごすことがあったことも否定しません。

でも駄目なんです。
貴方じゃなきゃ駄目なんです。

貴方のまるで、縮れた陰・・・
もとい天女の羽衣を縫うための天の糸のようなキラキラとかがやく麺。
福島出身の友達に「足の裏の匂い」とまでいわれたセクシーで危険なスープの香。
口の中に入れたときの、豊潤で力強くデリシャスでスゥィートな食感。

貴方じゃなきゃだめなんです。

おねがい帰ってきて。


突然ですが、ここでネットで「うまかっちゃん」検索。

はい、普通に通販で買えますね。




Ⅲ:公園が好き

公園が好き。だだっ広い公園が。
もう一面に広がる芝生をみたら、たまらず子犬のように駆け出して走り回りたい。



いいオッサンがそんなことしたら確実に不審者待遇なので我慢×2

だから砧公園とか光が丘公園とか好き。
そういえば戦後の一時期両方とも米軍に接収されていましたっけ?どうでしたか?

石神井公園とか井の頭公園も好き。
石神井公園は特に三宝寺池のほうが好き。
歌川広重の描く浮世絵の中に紛れ込んだような錯覚に一瞬落ちることがあるから好き。

広重は石神井は描いてないのかな?
井の頭公園の井の頭弁天は描いてたと思ったけど。



Ⅳ:が~ん!!

僕がdavid bowieさんのアルバムで一番好きなのは間違いなく「aladdin sane」ですが、一番聴いたのはたぶん「stationtostation」か「young americans」

と思わせて、「stage」だと思います

が、ずっと廃盤になっていた「stage」が再発された時、曲数が増えたのはいいんですが・・・

ま、コンプリートではないにせよ、実際のコンサートのセットリストに沿った曲順でってことでアルバムの曲順が変更になり、"warszawa"で始まりそのまま"heroes"とたたみかけるのもいいんですが・・・

が、初めてこのレコードに針を落として一曲目の"hang onto yourself"のイントロが鳴った瞬間、もうほんとにその瞬間の衝撃が忘れられない僕としては、やっぱりちょっぴり何となく残念です

だって、あの時、あの瞬間の衝撃に匹敵する衝撃は人生そうそうないので


そうなんです、僕は衝撃好きなんです

出会い頭勝負な男なんです


が~ん!!てきたいんです


やられた~!!てきたいんです


いかれた~!!てきたいんです


「最初は友達としか思ってなかったんだけどさ、お前の存在が俺の中でどれほど大きくて、大切なものか気づいたんだ」

もうこれなんのことやら僕にはまったくわからないんです


僕はが~ん!!てくるんです




Ⅴ:creep

忍夜恋曲者(しのびよるこいはくせもの)
平将門さんの娘さん、滝夜叉姫のお話でしたか。

曲者なのは恋ですか?
突然、脈絡なくあらわれる異性(同性でも可)ですか?
心の隙間ですか?

忍夜(しのびよる)曲者。
気づいた時にはもう遅い。


さて

このコーヒーにクリープを入れるべきか?入れざるべきか?


to be or not to be, that is the question.

(注:このcreepはもちろんレディオヘッドの曲名に由来していますが、最初、このcreepとコーヒーに入れるクリームを本気で混同していました・2013/10/30)



Ⅵ:忍夜恋

おや?

ⅣとⅤで思いっきり真逆なコト書いとらんか?と自分でも思いましたが、"突然、脈絡なくあらわれる"つうことで。
が~ん!!とくるということで。

結局言ってることは同じなんだね。
つうことにしようではありませんか。



そうそう、そういえば双子座。
子供のころから何か「ジェミニ」って響きが好きで、ぼんやりとうらやましかった。





Ⅶ:朧月夜

もう春ではないけれど今夜は朧な月夜の感じがいたします。

千年前の人達も、たぶん千年後の人達も、変わることなくみるだろう、朧な月夜な感じでございます。

で、武満徹さんがもう小さすぎてとても聴こえない、聴こえるはずがない音を「いや、聴こえる、絶対に聴こえるはずだ」と仰ってた~みたいなドキュメンタリーをホゲーとみてました。

でも、喋ってないコトが聞こえたり、書いてないコトが読めたりするんだから、聴こえない音が聴こえても別に不思議はないんじゃなかろうか。





Ⅷ:東京物語

ひさかたぶりに引っ越す前に住んでたあたりにいってみたとです
つうてもソコは今住んでるトコから徒歩20分くらいしかはなれとらんとです

しかも、ひさかたぶりっつうても一ヶ月くらいです
そりゃその辺通ることもあるとです

当然何も変わらんとです
気持ち涼しくなったくらいとです


でもちょびっと

ほんとうにちょびっと

なんとなくせつないね





Ⅷ:愛の賛歌

今後、俺の人生がいかなることになろうとも、一生、死ぬまで、死んでも、来世でコケとミジンコになっても、愛し続けます。

the first

The mid-third century BC,a great person was born in China.
 
His name is "Zheng". (政)
Under the strange fate,he became king of the Qin at the age of 13.

Note:At this time, a merchant from other country had the real power of the Qin.
The Qin had been monopoly by him. 
 
Zheng.

But after this,he purge this merchant.
He ordered to commit suicide against this merchant.
And he got the real power of the Qin.


・・・・・・・・・
 
 
The Qin was the most western country in China at that time.
And the Qin had taken the policy of increasing wealth and military power from generations before him with a focus on legalism. 

This policy was successful.
The Qin had an overwhelming force already at the time of his coronation.
And he also had the ability to maximize its power.

"I end the war-torn era.
Yes,I unify China."
He had this intention clearly.

He began the unification war against other countries.
And it became overwhelming of course.
 
He destroyed the other countries one after another.
220 BC, he was finally unified China.
This was the birth of the Qin Dynasty of unified dynasty of China first. 

Note:The Qin had a vast hinterland originally. 
Productivity at there was the underlying strength of the Qin.

And after the fall of the Qin Dynasty,Liu Bang was based in this land.
This had an important meaning for the Han dynasty founding of him.
 

・・・・・・・・・


皇帝.
 
After founded the Qin dynasty,he created this word.
Literal translation of this word is "the emperor" of course.
 
"I was called the king until now. (王) 
But I destroyed the kings of many.
And I became a person who achieved the unification of the first in Chinese history.

In short,I'm existence beyond the king.
Honorific title of me.
Therefore,it must be a new special name." 
 
This was done on the basis of the idea. 
 
"First Emperor." (始皇帝)
After this,he began to call themselves so.
 
So,this unified was the first experience for him and Chinese people. 

Wednesday 30 October 2013

季節が君だけを変える

Ⅰ:Heart to Heart
 
と正式リリース前は呼ばれていたこともありましたねな、メロも歌詞もちょっと違いましたけどねな

BOØWYの”Cloudy Heart”

つくり笑いが歪む 長い月日が終わる 胸にしみるのはヤね こりゃ何?
軽い始まりだけど わりと長くなったし お体だけはどうぞお大事に

てやつですね

そうね終りは当たり前のようにくるものだし 
しかたないぜ はしゃいでたあの日にサラバ

いつも一緒 何をするにでも二人だった
あんな日は もう二度とこないような気がして

てやつ


まあなんだ

情けない話だけど、僕は人のコトどころか自分のコトすらよくわからない
気持ちだろうが何だろうが、本当によくわからない
だから人の気持ちをアレコレかく資格なんてあるはずがない

でもあれだ

なんだって始まりがあれば終りはあるだろうし
終わることは別に悪いコトじゃないかもしれないし

終わってから始まった
終わったからこそ始まった

なんてコトもふつうにたくさんあるだろうし

つうか

夜中にBOØWY愛全開で書くと、BOØWYはもう二十年以上前に終わったバンドなのね
でも何も、BOØWYも、かってBOØWYだった人たちも、何も終わっていないのね

つまり

ほら

よくわからん




だから

あれですよ

三食散歩付、昼寝があればなお結構が見果てぬ野望な僕は「どっこいしょ」と脇に置いといて、かつてBOØWYに胸を熱くした、今では立派なおっさんなかつてのBOY供も、モチっと何かと頑張れよ!て話ですよ、と、書くのは、夜中の、月の時間の勢いとはいえ、いくらなんでもキモいですよ



書いてしまっているけどな



Ⅱ:誤解しないでね!

あんたが私のそばを通りすぎようが、話かけようが、微笑みかけようが、んなこたどうでもいいんだよ。
誰があんたにアワアワしてるって?ボーとしてるって?失礼な!
私はその時、たまたま夜の街を輝かす鮮やかなネオンや空にポツンと幻想的なお月様や暗闇をカラフルに彩る花火に見惚れてただけなの!

いい!絶対に誤解しないでね!だれがあんたなんか!!


でも

It might just be fantastic
Don’t get me wrong


てヤツですね、たぶん

いえねThe Pretendersさんの”Don't get me wrong ”て曲のはなしなんですけどね


そういえばThe Pretendersさんで”I'll stand by you”て曲好きなんですけどね
この曲のカバー、一時期米軍放送でよくかかってました
ん?この曲この人たちがオリジナルですよね

そうそう、ふと思い立ち、ちょいと”I'll stand by you”をグーグルで日本語に翻訳してみると”私はあなたを支持します”と「ま、そうなんでしょうけどね」な結果になりました
あんまりロマンチックじゃないですね

僕は「ずっとあなたのそばにいる」くらいのぼんやりとした感じで聴いとります

(注:東日本大震災当時、この曲がまた米軍放送でよく流れていました、気がします・2013/10/30)




Ⅲ:世界を売った男

David Bowieさんの ”世界を売った男”
好きな曲ですが、Nirvanaさんがカバーしたver.も好きです

んで

David Bowieさんの”It's No Game (Part 1)”

え~

Maxwell's Silver Hammerの歌詞がレノンさん殺害犯チャップマンに多大な悪影響を与えたのではなかろうかみたいな話があったと思います(Come Togetherの例の”Shoot Me”は流石にそうは聴こえないと思うので、影響としてはまったくわかりません)

んで

『オレの頭に弾を撃ち込めば~』

これもしかしたらカートさんに何らかの影響があったんですかね・・・



Ⅳ:UFO

ピンクレディさんの"UFO"
レコードの発売は1977年12月ですか。

この曲ってなにげにdavid bowieさんの"ziggy stardust"への日本人からのアンサーソングだったんじゃないですかね?
この曲に出てくる謎の男って(イメージとして)ziggyさんでは?
直接的な曲の着想は多分a lad insaneな"the jean genie"とかな感じしますけどね

まあ当時としても"rock'n'roll suicide"はもう遥か彼方ですが




Ⅴ:Supercalifragilisticexpialidocious

星に願いを

さて、もし相反する願い事を同時にされたらお星様はどっちの願いを聞くのでしょう?
念が強い方?
それは何か怖いな・・・

正しい生き方をしてる方?
お星様は正義の味方?

そんな時代や場所や見る角度でどうとでも変わる、限りなくあやふやなモノをお星様ともあろうお方が判断のモノサシにするわけないですよね?ね?ね?

おっと何の話だい

ま、とりあえず人間やってりゃなにかと人生上手くいかず、凹む夜もそりゃありますわな
あれだけ念をこめてお願いしたのに、どんだけキャンセル待ちなんだかいまいちお星様も願いごと聞いてくれないし


「も~やだ、人生やってらんない」

思わずそう思ってしまう、そんな夜は、とりあえずこの呪文を唱えときましょう


Super califragilistic expiali docious!!

そう幸せを呼び、夢の扉開けるための言葉


え?寝言は寝て言え、夢は寝て見ろ?
いえいえ、目ぇ醒めてる時に夢を見てもいいんじゃないですかね

夢を見るのは寝てる時だけなんて、そんな味気ない人生はつまんないっスよ

Do you believe?




Ⅵ:季節が君だけを変える

枯葉舞う季節までもうちょいですかね

たんに歳取ったっつうことかもしれないけど、ほんとに好きなんです、そんな季節

まあゆっくり待ちましょ

散歩が楽しい僕の季節




やっぱり、当時から、いろいろ、確執とか、どうとか、話が、噂が、ありますが

人間ですから

僕だって大なり小なり、ありますし

誰だって生きてりゃ



誰とも一切接触しない、真に独りで生きてるって人は別ですが

誰だって生きてりゃ大なり小なり、あるでしょうし




いい歳したオッサンによる

非常に、まじで、余計なお世話な、無責任な、今、いろいろ観て、聴いて、読んで、感じた

正直な、あほうな小学生のような感想は

氷室さんは、本当に布袋さんが好きだったんだなぁ



でも、変わるのが人間ですし

当たり前のことですし

僕だって人間ですから大なり小なりありますし

誰だって生きてりゃあるだろうし

でも、それでも変わらないものもあるだろうし

わからないけど

今、適当に書いてるけど

もしかしたらその時はわからなくても、ずっと、ずっとたってから気づく、何か変わらないものがあるかもしれないし

ほんと

好きなんこの季節




Ⅶ:on the wing with broken heart
 


on the wing with broken heart



on the wing with broken heart



on the wing with we fly one more time

seem

"The foolish man who moved the mountain."
Incidentally,this episode has been recorded in "Liezi". (列子)

Liezi.
I introduced already about this book.

Episode of cremation.
Book that it is recorded.
It is Liezi.

Liezi is the name of the person originally.
He studied under one of Lao Tzu's disciples.

And book that was organized around his words and deeds.
It also called Liezi.
This has been said so.

But this has been questioned for a long time. 
According to one estimate,Lao Tzu was a teacher of Confucius.
But his existence is not clear.
Therefore,existence of Liezi also is not clear.

"Liezi is a fictional character.
This book is apocryphal book of the era of the Han Dynasty and later."
As result,this has become popular perception.

"However,many old tale at that time are housed in this book."
It has also become popular perception.

For example,episode of cremation.
It is also recorded in book called "Mozi". (墨子)
And this "Mozi" has been established in the Warring States period.
It seems no doubt.


・・・・・・・・・
 

Mozi.
 
This is also the name of the person.

He is said to be a person of the era of a little after Confucius.
Yes,he seems to be a real person as with Confucius.
But his career is also not clear as with Liezi.

Why?
Of course there seems to be a reason for this.

"Active pacifism."
When summarize his philosophy it become like this.

The religious community that he founded.
They preached the non-war.

And they had the face of another further.
They were also technician populations with high technology.

When a weak countries was invaded from the powers,they preached the non-war to the powers.
And at the same time,they helped the defense of weak countries by its high technology.

Note:They seem to have done this in gratis.


・・・・・・・・・


"We take the defense this way.
Can you break this?"

When persuade against the powers,they did moral persuasion of course.
And at the same time,they also made ​​things like kriegspiel.
 
"We will win like this." 
 
And they were allowed to understand the disadvantage of the strategy by it. 

During the Warring States period,by these acts,his sect seems to have prospered along with Confucianism.
(Although it seems to have been critical each other.)

Note:Real name of "Mo-zi・墨子" is "Mo-di・墨翟".
Current meaning of 子 is child.
But 子 in this case,this is a honorific title to the teacher.

Tuesday 29 October 2013

2010年12月04日

"内面の発見"は柄谷行人さんの「日本近代文学の起源」からその意味を勝手に剥奪させていただいて無意味な記号としてまんまパクッているのでここでは無関係ということで脇に置いといて、”文字の発明”という言い方ではなく”文字を発見”という言い方、考え方、結局文明の機器も含めてすべては"発明"ではなくもとからそこにそうして在るものを"見えざる手"によりそうすべき時がきたので”発見”という考え方、つまりは"自己完結性"つまりは”進化”つまりは”死に至る病”という考え方、これはちょっとあんまりあんまりですね



いうわけで




Ⅰ:快眠

いやいやいや、だから違うんです!僕には本当にそんな気はなかったんです!!

それをあの睡魔の奴が、何処からか我が家に忍び込んで、違います!決して自分で呼び込んでなんかいません、僕はそんな安っぽい男じゃないです、本当です、いつの間にか、そういつの間にか、今、僕は「いつの間にか」を二回言いましたね、いつの間にか僕の背後にはあの怖ろしい悪魔が12月14日午前0時18分21秒の路地裏の暗闇のようにいたんです、今度の部屋は一階だから戸締りには充分気をつけていたのに!それなのに!ええ、もちろん抵抗しましたとも、1月3日午後4時56分46秒の暮れゆく太陽のように抵抗しましたとも、今、僕は「抵抗しました」を二回言いましたね、でも駄目なんです、無理なんです、わが身の非力さをこんなに怨んだことはありません、そう、アイツは必死に抗う僕を布団に押し倒し、え?何?ベッド?ベッドは引っ越す時に処分したの、それで死んで5時間32分14秒は経過した熊本沿岸産の鯖のような目をギョロッとさせながら「ウヒヒヒヒヒヒ」と下卑た笑いを浮かべて、ああ、その時、アイツはDの音で「ヒ」を六回言いましたね、もしかしたら最後の二回は#していたかもしれません、さらに「ウヒヒヒヒヒヒ、いいではないか、いいではないか」と淫靡な舌なめずりをして、そうだ、アイツは10対0で勝っている草野球チームの監督のようにとび出た腹をさすりながら「いいではないか」を二回言いましたね、もしかしたらその一回目は12対0で勝っている草野球チームの監督、しかもさほど腹もとび出てない、のようだったかもしれません、尚且つ「ウヒヒヒヒヒヒ、いいではないか、いいではないか、ちょちょちょ、ちょっとだけ、ちょっとだけ」と・・・え?もういいですか?

ま、そういうわけで、僕にはそんなとっとと寝ようなんて考えはまったく、そうまったく、今、僕は己の審美眼に対する海原雄山さんなみの確信を持って「まったく」を二回言いましたね、まったくなかったんです。みんな睡魔が悪いんです。いいことは全部僕のおかげ、わるいことは全部誰かのせい、なんです。

けっして暴食に疲れ、傲慢にも暁に嫉妬をし、怠惰に心地よい色欲まみれな春眠を強欲に貪っていたわけではないんです。アナタが憤怒を向けるべきは僕じゃないんです。


は、すべて置いといて、いや~昨夜はよう寝ました。
でも、なんですな。これはあくまで僕限定の話ですが、食事量を減らすと睡眠時間が延びますな。
もちろん”疲れ”も重要なファクターなんでしょうが、食事量を減らすと睡眠時間が延びちゃう気がしますな。

いえね、最近(無理をしない)ダイエットをしてるんですけどね。
まあ運動もしつつ、一応食事量もちょっぴり減らしますわよね。そうすると、どうにも腹が減りますわね、やっぱり。
んで、前からそうなんですけどね、そうすると僕は異常に眠くなるんです。腹が減って眠れないとか絶対にないんです。ただただ眠くなり、ひとたび寝ちゃうと中々起きないんです。可能なら延々寝ちゃうんです。

「もしかして”冬眠”てこんな感じ?」てな勢いで寝ちゃうんです。
「俺は野生動物か~」てな感じで寝ちゃうんです。



ん?


話終わりましたよ。




Ⅱ:アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

最近はないんですけどね。昔は寝相が悪うて悪うてよく寝たままベッドから転がり落ちたもんなんですよ。
んでね、結構そんな時は夢の中でも崖だのビルだのから大滑落してたりするんですよね。
で、「うわ~」てな感じで目が覚めると。
あれってどうなんでしょうね。さすがに夢なんで詳細を憶えてるってわけにはいかないけど、あれは身体がベッドから落っこちた瞬間にそれまで見てた夢を中断して落下する夢に切り替わるんですかね。でもベッドから転げ落ちる時間なんて一秒もないでしょ?王侯貴族の寝台ってわけじゃないし(それでもそこまで高くはないですね)。落っこちる夢を見てる時間は前フリも含めてもっと長い気がするんですよね。
まあ「杜子春」ってことなのかなぁ。

でもあれかな。もしかしたら、身体がベッドのヘリに近づいていくと、なにげに脳が"warning!"としてそういう夢をみさせるのかな。いきなり落っこちたら心も身体もビックリして危ないから、そういう夢を前もって見させて心と身体に落ちる心構えをさせると。
脳ってそんくらいやるんじゃないのかなぁ。

僕は夜「明日は五時に起きる」と自分に強く言い聞かせて寝れば、別に目覚ましとか使わなくても結構五時ぴったりに起きるからね。これってちゃんと脳が時間の推移を把握してるってことな気がするし。
目が覚めてる間はすぐに「今、何時だ?」ってなるのに。

あっ、でも体内時計では一日は24時間ではなくてもうちょっと長いって話ありましたよね。だから窓が無い部屋で何日間か過ごしていると、普通に寝起きを繰り返していても日にちの感覚がズレていってしまうみたいな。

やっぱり自分の意思で脳に命令を出すってことが重要なのかな?





Ⅲ:Y字路

横尾忠則さんのY字路。

で、僕の(寝たのは今日になってからだから)今日みた夢の話です。

僕はY字路の入り口に立っているんです。それは何の変哲もないY字路です。ただどちらの道の行き着く先も僕にはわかりません。だってまったく知らない(記憶に無い)場所なんです。僕はまた散歩していて道に迷っちゃったのだろうか?まあどっちに行っても大して変わりはなさそうです。本当にありふれた昼下がりの風景です。ありふれたY字路です。でも左側の道に僕は凄く惹かれます。左側の道を行きたいと強く思います。

なのに身体が動きません。足を踏み出せません。
何故ならその道に強く惹かれるのとは別に「そっちにいったら危険だ!」「絶対に行っちゃ駄目だ!」と僕の中の何かがずっと叫んでいるからです。

この頃にはボンヤリと自分でもこれは夢だなと気づいています。でも身体が動きません。僕が自分でこれは夢だなと気づくのは大概その中で困った状況に陥った時です。そして夢だとわかると途端に(夢の中での)心の緊張がきれます。そこで目が覚めることも多いです。でも身体が動きません。動かせません。そっちに行きたくてたまらないのに。その想いはどんどん強くなっているのに。でも身体は動きません。


だって、その道の先に何かヤバイのがいるんです。




Ⅳ:月の時間

は、あくまで夢ですからそんだけのこととは思います。

で、夢の話なんですよ、引き続き。

・・・でも、その話って何だったっけかな?
いえね、夜まどろんでる時に思ったことだから、いまいち記憶が・・・それからまた寝ちゃったし・・・

う~んとね、あれじゃないよな?これは思春期とかに皆経験があることだと思うけど。

夜、学校の宿題の文章(読書感想文とか)を嫌々書いてみたら思いもかけず会心の文章が書けて、思わず何度も読み返し、その凄まじいまでに情熱的な内容に「俺凄ぇ、天才!」と満足のウチに眠りにつくことってありませんでした?

で、朝起きたら、その凄まじいまでにお馬鹿でこっ恥ずかしい内容に「俺は何を考えていたんだ?恥ずかしい」と赤面の中にその原稿用紙をグシャっとつぶしたことが。

あれって何なんでしょうね?昼間は別にそんな文章にはなりませんもんね。やっぱり月の仕業ですかね?月が人間の内面の何かおかしな血をたぎらせてしまうんですかね?目覚めさせてしまうんですかね?

と、おそらく自己の内部に起因するであろうコトを安易に外部からの作用によるものだとすり替えて、その問題解決を図ろうとするのは僕の甘えも甚だしいですわね、ここに極まりましたわね、僕の知性の敗北ですわね。

が、今現在、夜だから別にいいですわね。今現在、僕の中の何かがたぎっちゃってるからいいですわね。何かが目覚めてしまってるからいいですわね。「月の時間」だからいいですわね。「僕の時間」だからいいですわね。

でもラブレターとか書くのは夜のほうがいいんでしょうね。
今はそんな奴いても手紙じゃなくてメールだろうけど。


お!

そうこうしているウチに思い出した。
あれですわ、「杜子春」ではないですが・・・

例えば熟睡中に目覚まし時計で叩き起され、「なんだ、もう朝かよ?あっという間だな」と、取りあえず目を覚ますもちゃんと起きることができず、ぼんやりとまどろんでる内にまた眠ってしまうことってありますよね。
で、夢か現かってトコをさんざん彷徨ったあげく「やばい!寝坊だ!」と慌てて起きてみたらそれから10分くらいしか経っていなかったってことが。
自分的にはかなり長いコト夢をみていたつもり。はっきりと覚えてはいないけどかなりのストーリーをこなした気がする。でも現実に経過した時間は10分間。

夢ってあれですかね、いらないトコを編集してみてるんですかね。
本当は一ヶ月間の話を90分の映画に編集するみたいに。
だから自分では随分長いコト夢をみたつもりでも、現実は大して時間がたっていないんですかね。

で、夢をみている時間は脳的にはスタンバイ。その経過感覚に現実とかなりの誤差があるものの時間の認識はある。僕的に時間が存在する世界。夢をみていない時間は脳的には完全シャットダウン。だからその間は僕の認識として存在しない世界。僕が未来へのタイムトラベルをしている他者の時間。あっという間。0。

まあ、このへんはちょっと調べればある程度科学的にわかってるんだろうけど、それをはっきりさせるのも"夢"がないので。


この「"夢"がない」の99.9998%は「面倒くさい」で構成されております。




Ⅴ:sweet dreams (are made of this)

夢ってのは、いらないトコを編集してみてるとしてですよ。

と、いきなりそれ前提で話を始めましたが、別に(たしか)ゲッベルスさんが言ったという「嘘も百回言えば真実になる」を実践しようという企みではありません。たんなる与太話でございます。

で、寝てる時にみてる夢は、映画のように、テレビドラマのように、いらないトコを編集してみてるとしてですよ・・・

もしかしてこれ逆じゃないですかね?
映画っつうか、テレビドラマっつうか、小説つうか、漫画つうか、演劇つうか・・・まあ早い話が物語。
ずっとずっと昔、人が人になった頃、その時最初に人が創った物語は"夢"なんじゃないですかね。"夢"こそがすべての物語の原点なんじゃないですかね。

つまり、あくまで個々人のパーソナルな「物」であった"夢"を他者に「語」ることでそれは自己の殻を破り、自と他の境界線を融解させ、互いの自我を共振させ、そこから大小さまざまな集団がそれぞれの条件にあった幻想を共有する「物語」は始まったんじゃないですかね。

だから映画やテレビドラマの"ように"カット編集して僕達は夢をみているわけではなく、もともと夢とはそういう具合に自分のその段階での無意識下のイマジネーションが創りだした世界から脳が冗長と判断した部分をカットしてみせるもので、夢の"ように"映画やテレビドラマは冗長な部分をカット編集して作品を製作しているというのが正しい認識なのではないでしょうかね。

何故なら人が最初に話を編集したのは夢の中なのだから。


よく言われることですが、19世紀ですか?欧羅巴では合理主義の名の下に「神は死んだ」と言い、忘れ去ろうとし、しかし無意識からは消えず、二度の大戦という荒ぶる神としてその無意識は具現化し。





砂糖がない




Ⅵ:体内回帰

ということは結局、人間は破滅を志向する生き物なのだろうか?
かたちを変えた再生の象徴としての死や終りではなく、根源的な破滅や終末。
人間はそれを畏れつつも、忌つつも、無意識のうちにそれを渇望してしまう生き物なのだろうか?

母なる"無"への回帰。

と、いきなりそれ前提で話を始めましたが、別に(たしか)ゲッ(略)


で、ですね、現在僕の目の前にはうどんの玉があるんです。
もちろんそれは出来合い?のモンで、ちょっとお鍋で茹でて、ザルに入れて、サッと水ですすげばOK!!ての。

でで、ですね、現在、悩んでいるんです。
このうどんの玉、味噌汁に入れたい。凄く入れたい。味噌汁に入れて食べてみたい。入れたくて入れたくてたまらない。

あれ?どうだ?駄目か?味を想像しろ。

味噌とうどんってあうんじゃないんか?
味噌と蕎麦は微妙な気もするけど、味噌とうどんはいいんじゃないんか?
そういえば世の中には味噌煮込みうどんってあるんじゃないんか?
つうか、たまに僕も食べてるんじゃないんか?
やっぱり味噌とうどんはいけるよな?大丈夫だよな?
まあ別にあれは味噌汁にうどんが入ってるわけじゃないだろうけどさ。

と、言うわけで、別に作っておいた味噌汁の中にうどんを入れて食べてみました。
はい、うどんと薄い味噌汁でした。


え~つうかあれですわ。
今回の敗因はうどんをすすいだ後の水切り不足ですわ。
だってうどんを味噌汁に入れた瞬間にあきらかに"水分”が増えたもん。
味噌汁味薄すぎだもん。
雅なのにも程があるもん。
よし、今度はしっかりと水を切ろう。そうすればちゃんと"うどんと味噌汁"になるだろう。

いや、まてよ。

逆に最初に非常に味が濃い塩分過多な味噌汁を作っておいて、そこに今回みたいに適当に水切りをしたうどんを「せいや!」と入れれば調度いい濃さの味噌汁が完成するんじゃないか?

いやいや、まてまて、そうするとせっかく温めた味噌汁がぬるくなってしまうではないか。
愚かしい。

う~ん、本当に料理は奥が深い。




Ⅶ:今先、焼きそば食ってもうた

さすが七つの大罪の一つ「暴食」。

あなどれん。

cited

The foolish man.
Mountain gods feared his actions.
And they appealed to the God of heaven.
Mountain was moved by this.
I wrote so yesterday.

But this is not accurate.

God of heaven received the appeal from the mountain gods.
So God saw from heaven his actions.
 
There was a man carrying the soil there without uttering any complaints.
God was impressed to see it.
And God has decided to move a mountain.

This is a storyline like that. 

"The foolish man who moved the mountain."

By the way,June 1945.
"Mao Zedong" wrote a thesis with cited this old tale. (毛沢東)

Note:I have not read this thesis of Mao Zedong.
The following is a quotation within quotation.


・・・・・・・・・ 


"The foolish man.
He kept digging the mountain in accordance with his belief.
And he moved the heart of God in its belief.
God moved the mountain at last.

Currently, we are fighting against imperialism and feudalism.
We also must continue fighting in accordance with our beliefs.
By doing so, we also can move the heart of God surely.

Well,our God Who?
It's people of China.

Our belief.
 
It will reach to them surely.
And they will stand up with us for this fight surely.
And that time, the mountain will move surely."

He seems to have wrote like this in its thesis
 
This is four years before the People's Republic of China established.

Monday 28 October 2013

誰ぞ彼

Ⅰ:air on the G string

寒い。

ゴミ出しに外出ると、シンとした朝の冷え込みに身体がブルブル震えてしまいます。

ついこないだまで「あちぃ」と汗だくで言ってたのに、ちょっと気温が下がっただけでこの体たらく、まったく人間とは不便で不完全な生き物でございます。(僕の個人的根性無さを普遍的問題にすり替えてみました)

が、この人間の身体の不便さ不完全さが、それを克服しようという人類文明の発達をよんだんでしょうかね。(すり替えをこじ付けで卍固めしてみました)


で、昨日(2009/11/15)のNHKスペシャル「リーマン予想・天才たちの150年の闘い」おもろうございました。

本当はもっと深い話なんでしょうけど、だから専門的な人には物足りないかもしれないけど。
でもまったくの素人にも解りやすく、面白く作ってくれた番組制作者の方達には敬意を表します。

そういえばまだ十代の頃、僕はそのうち「神様理論」という数式が見つかるさ!とかヘラヘラ言ってました。

やっぱり数式の中に万物創造者の謎は潜んでいるんでしょうかね?(↑とは一切無関係な話だけど)


「ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にあるはずだ」
はたして一筋の線上の上に「神」は確かに存在しているのか?

つうても番組の内容、全部ちゃんとわかったかはゴニョゴニョです。
前も書いた気がするけど、僕の頭は算数レベルなんで。

99×99=9900-100+1=9801
99×98=9900-200+2=9702

後ろの数から1マイナスして、100倍し、さらに後ろの数が100になるために足りない数を足せばいいのだな。

つうことは99×94=9306か?
99×64=6336か?

98×98はどうだ?9604か?

つまり、後ろの数から2マイナスして、100倍し、さらに後ろの数が100になるために足りない数×2を足せばいいのだな。

つうことは98×32=3000+136=3136か?

つうことは・・・と、いまどき延々と考えたりしてますからね。



はたしてアカシックレコードの謎も解ける時がくるのか!?

と、ついでに言っとこう。




Ⅱ:アマチュアアワー

素人考え休むに似たりとは言うけれど、考えること自体が楽しいんでまあいいじゃないか。

止まってる電車のドアの外からフワフワと風船(羽虫でも可)が流れ込んできて、そのまま乗客も含めた電車の何処にも接触することなく車内の空中に留まった場合。(停車している時なら人が車内の空中に固定してもいいのかな?)

そして発車ベルがジリリンとなり、ドアがプシューとしまり、ガタン、ゴトン、と、電車がゆっくり動き出した場合、乗ってる乗客の人には自分達ではなく、車内の空中に留まってる風船の方がスーとゆっくり移動していくように見えるのかな?どうなのかな?

僕は電車に乗ってるとき、電車が駅に止まる度に「何か虫でも飛び込んでこんかな(でも蜂はやだよ)」と思ってたことがありました。

が、たまに飛び込んできても彼等は動きが忙しなくてよくわからないんですよねぇ。
電車が動き出したらすぐに何処かに止まっちゃったりするし。

やっぱりわかりやすいのは風船か?
風船の下に重しをつければ、空中の一定での固定は可能なのではないか?

が、本当に実行したら速攻駅員室に連れて行かれそうですな。





89×88=8800-88×11=7832
89×23=2300-23×11=2047

したがって

79×41=4100-41×21=3239

かける数が小さいほうを100倍し、そこから数が大きい方が100に足りない分の数を小さい方にかけた数をひけばいいと。

これはあんまり美しくないですな。
ま、規則性はあるわけだから"key"となる式を何個か暗記してれば、そこから微調整で他の数もわかるけど。

暗記はなんか違うな~




Ⅲ:初めから始める数学Ⅰ・A

いや~何度も書いていますが、朝は寒いっス。
が、所詮東京。本当に寒い地域にお住まいの人には「その程度でガタガタ言うな!」と怒られてしまうくらいのレベルの寒さなんだろうとは思うけど寒いっス。過去、「朝寒い」と書いていた自分を「その程度でガタガタ言うな!」と怒鳴ってやりたいくらい寒いっス。

で、話は変わりまして、買いました。
「初めから始める数学Ⅰ・A」って参考書。

いえね。高校時代、授業中は居眠りばかり。
気づけばもう何がなにやら・・・

まあ現実に暮らしてて、三角比を使ってあの建物の正確な高さを求めよ!とか言われることなかったし。

反政府ゲリラにでもなって、迫撃砲の着弾地点を計算でわりだすようなスリリングな人生とも無縁だったし。

とりあえず数学できなくても生きてはこれたと。

というほどのことではなく、今なら「趣味」として楽しく数学できるかなぁ~なんて。

ちょこちょこ、のんびりやります。


あったな~~2次関数。




Ⅳ:あれはツララなのかな?なんだろ。

三ツ峠(1785m)山頂付近にそえられている富士山ライブカメラ。

24時間、10分置きに最新の画像に更新されるんですが、ここ何日かカメラを上から鷹の爪でつかまれたかのように三本の鋭い氷(たぶん)が画面を覆うように垂れ下がっています。そしてそれは日増しに大きくなっていきました。
今見てみると山頂は雨が降っていて、氷も少しとけてきている感じですが。

この冬はちょくちょくココをのぞいていたけど、カメラのかなりの部分を氷が覆うなんてことは今まで無かったし、やっぱり最近の気温の冷え込みは厳しかったのかな?
ん~今年2010年の旧暦の元旦は昨日。
旧暦での年末から年始にかけての冷え込み。そう考えるとそんなもんかな?どうかな?

そこで全国平年値(1971~2000年)・月別最低気温てのをネットでみてみました。

やっぱり何気に縦横長々日本列島、最低値は全国それぞれですが、二月が年間を通して気温最低だっつうとこも多いですね。

しかし富士山の-20度台は置いといても、北海道帯広の‐13.9!(一月)はもとより、長野-4.3(一月)とか軽井沢-9.0(一、二月)、秩父でも-4.8(一月)だし、甲府では-1.6(二月)。

単純比較はあまりにも無意味と思いつつも、僕が寒い!と思っている今日の東京の最低気温はネットでは+7度。

そういえばいきなり僕の頭に浮びましたが、日露戦前、八甲田山で陸軍の人が雪中行軍訓練中に遭難して大部隊が全滅に近い被害を出した時、数少ない生き残りの人はもともと雪山に慣れ親しんだ人だったんじゃなかったでしたっけ。
足もまず油紙(たしか)でくるんで、それから靴を履き、冷たい水気の浸入から足を守る対策を個人的に取っていたり。




Ⅴ:逢魔が刻

「失敗は発明の母」という言葉を最初に発したのは誰でしたか?

エジソンさんでしたか?どうでしたか?
まあエジソンさんな訳ないですわな。だって如何な天才エジソンといえども日本語喋れたとも思えんし。

というよくある展開は置いておいて、「失敗は発明の母」ですよ。
ま、別に「魔がさした」でもいいんですけどね。

一昨日ですな、僕はここに八甲田山事件の生存者の方の話で「足もまず油紙(たしか)でくるんで、それから靴を履き、冷たい水気の浸入から足を守る対策を個人的に取っていたり」と書いたんですな。
で、ちょうどその日は結構強く冷たい雨が降っていたんです。
で、そう書いた時、思わず僕は閃いてしまったんです。

えっとですね、あのですね、まず足をコンビニの袋でくるんで、それから靴を履けば靴がビチョビチョになっても足自体は濡れないではないか!!と。

ええ、泣くよかひっ翔べですよ。思いついたらまず実行ですよ。両足を小さめのコンビニ袋にいれて、くるぶしの上あたりできつく〆、履きつぶし気味の靴を履き、横殴りの雨の中に飛び出していきましたよ。(もちろん傘はさしましたよ)

おおっ!靴は完全に濡れているのに、足は全然大丈夫だ!つうか足先なんてちょっとポカポカ温かいじゃないか!!もしかしたらコレはビニールでくるまれて"蒸れてる"ということかもしれんがまあ気にしない、ポカポカ温かいじゃないか!!


で、ですね、あのですね、僕は自分の靴のサイズを高校生くらいからずっと26.5だと思ってたんですね。
んでですね、二年くらい前に「ちょっと大きいなぁ」と思いながらサイズが27の靴を履く機会があったんですね。
そしたらビックリ!ちょっと余裕があるのが無茶いい感じ。この感覚を味わったあとにサイズ26.5の靴を履くと足の指がギュ!と押しつぶされる感じがして窮屈で窮屈でたまらない。
そりゃそうだよな、高校時代からなら足のサイズだって大きくなっているよな、俺は本当に阿呆だな~とそれからはサイズ27の靴を履いているんです。

んでですね、あのですね、これが滑りまくるんですね。
まるで氷上を歩いてるかのように滑りまくるんですね。

靴の中で。

そうなんす、靴と足の間に微妙な隙間があり、そこで歩くたびにビニールが"ズルッ"と滑るんです。もちろん靴と地面の間は濡れているとはいえ別に何等問題はないんです。ただ靴の中で毎回滑るんです。
これもう大変。一歩ごとフン!と気合を入れて歩かなければいけない。そうしないと滑って転びそう。ただし靴はちゃんと地面を踏みしめて捉えている、それなのに何か滑りそう、この感覚だけでかなり気持ち悪い。
そうこうしているうちに、ビニールでくるまれ踏ん張り続けた足も完璧に"蒸れて"グッチョリに。


実験結果:これにしとけ
http://www.rakuten.co.jp/e-naga/
 
あ!でも、エジソンさんの助手の方には日本人もいたんでしたっけ?
もしかしたらエジソンさん、ちょっとは日本語分かったかも!?




Ⅵ:横流し

矢野健太郎さん(明治45年-平成5年)という数学者の方がいらっしゃってですね。

この方の著作に数学の世界への入門書として努めて平易に書かれている「数学物語」てのがあるんです。

んで、この本の導入部が「動物と数」。
鳥、犬、馬、さるなどの動物に数のことがわかるのか?って話なんです。

んでで、心理学の先生がいろんな実験をした結果、鳥類は2と1、3と1、3と2、4と1、4と2、4と3くらいまでの数が区別できる。←鳥に関しては、これは数えてるわけではなく見て両者が違うのがわかるという意味だそうです

ネズミ、犬、馬などは1~3まで、まれに4までの数がわかるといわれているそうですし、猿は1~3まで、チンパンジーは1~5までの数が判断できたといわれてるそうです。

ま、動物なんて所詮そんなもんさ!と思いきや、現在の文明世界の範疇外の世界で暮らす方たちの中には一つ、二つ、沢山で済ませてしまう人達もいて、オーストラリアとニューギニアの間の海峡の島々に住む人達の中には、1は1、2は2、3は2と1、4は2と2、5は2と2と1、6は2と2と2・・・と数えていく人達もいるそうです。
そして4までの数がわかる人は非常に少なく、7がわかる人はほとんどいないそうです。

まあ私達の祖先もそんな感じだったのだろう、で、ここから人がどのようにより大きい数を認識できるようになったのか?と矢野さんの話は展開していくんです。

が、そこもさておき、多分この人達の地頭つうか、もともとの脳は僕等とあんま変わりませんよね。
逆に言えば、僕と全く同じ能力の僕が、この人達の部族に生まれ育てば、やっぱり4以上の数字はゴニョゴニョってなりますよね。←最初「狼(に育てられた)少年のように」と書こうと思いましたが、これは失礼すぎですね。僕等とはその文化の体系が違うだけなのに←う~ん、これ狼(に育てられた)少年に失礼ですかね

やっぱり文明とは蓄積ですかね。経験も含めた知識の蓄積ですかね。
それはやっぱり文字だよな。今、僕が書いて、アナタが読んでいるこの文字だよな。数字だって文字だし。

といきなり話を放り投げるのが、だから僕のいいところですよ。





Ⅶ:あれは表出基準がわからん

よもや「ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にあるはずだ」か?

はたして一筋の線上の上に「神」は確かに存在しているのか?

か?

こうしたどうしたで

G線上の”Air ”か?

つまり

お前が「神」か?

「神」は19世紀に殺されたのではないのか?

死んだはずではないのか?

死にそこなったか?

かわいそうに



いうわけで

はいリーマン予想
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%88%E6%83%B3
 
たぶん

たっかい、たっかい、壺買うよりも

掛け軸買うよりも

御札買うよりも

「アナタの前世は~」とかやるよりも

ドラッグでケミカルに神経いじって「神秘体験だ~」と足りない頭でゆるいコト考えるよりも

たぶん

コレのほうが神様に近づけますよ

程度問題でしょうがね

ま、算数でアップアップと溺れかけた僕には何が書いてあるのかまったくわからないんですけどね


んで

今日が終わると永遠に過ぎ去り二度と帰ってこない今日という日

いい日にしましょう

そうしましょう


fool on the top

"Foolish man." (愚公)

Once upon a time in China,the man who called like that was present.
 
He lived in inland China with his family.
And his house had been sandwiched between two big mountains.
their life had been forced to very inconvenience by it.
 
"If these mountains disappear,our lives is going to be easier."
 
One day,he decided to leveled these mountains.
And he and his children began packed the soil of mountains in the bag. 

"But we must not give trouble to others.
Place that does not give the trouble to others.
We must discard the soil there."

Eventually, they decided to throw it away into the sea.
But the sea was very far.
They took half a year to the round trip.
 

・・・・・・・・・


"You are a fool.
You carry a small bag on shoulder.
And half a year at one round trip.
If you are to do that,these mountains will disappear when?"

He was ridiculed of course from people who saw it.

"Fool is you guys."
 
But he replied with a smile against it.
 
"Yes,it may be impossible in my lifetime for sure. 
But I have children. 
And future, they will have a child.
 
They will continue carry the soil.
But mountain does not increase any more.
Nevertheless these mountains does not disappear.
Although this would be too obvious,such a thing is impossible."
 
He said so in a cheerful mood. 
 

・・・・・・・・・


"He is a fool.
Human eliminate these mountains.
Such a thing is impossible."

Persons who was laughing like that against him.
It was also present in the other.
However they were not human.
They were these mountains gods.
 
"This is dangerous.
This man may accomplish this."
 
But they heard his words and became anxious.

"If mountain disappears, we must also disappear.
For the time of what-if,we want to move to a different place."
 
And they appealed like that to the God of heaven. (天帝 of course God of China)
God listened to this appeal and moved these mountains.
 
After this,big mountain no longer exists in its periphery.
 
And they lived happily ever after.

Sunday 27 October 2013

fly us to the moon

Ⅰ:トロッコ

いやいや。

朝早くから、川沿いの桜のトンネルを「春だね~」と自転車でチンタラ走ってたら、どえらいトコまで来てしまった。

いえね、最初はね、単純にこう桜を見つつ、歩行者&対向車に注意しつつ、たまに立ち止まって写メでも撮りつつ、ほんとうに「桜綺麗だね~」とチンタラ走っていたんです。

が、段々、「この桜のトンネルをどこまで行こうかな~」な考えを「どこまで行けっかな~」な想いが侵食しはじめ、気づいたら「こんなトコで引き返せるか!」になり、「限界とは自分の心の中にあるのだ~」「俺は負けん!」と独りで謎のチキンレースを開始してしまったんです。

そんでこの体たらくですよ。どえらいトコまで来てしまった。
まあ、あくまで僕的にはですけどね。人によってはたいしたコトない距離かもしれません。

んが、僕はどこまで行っても僕なんで、そう、ココまで来ちゃっても僕なんで、したがって僕的にそうなら、やっぱり僕的にはそうなんだから、どうにもどえらいトコまで来てしまった。

つうても、このたどり着いた場所に旗でも立てて「本日、本時間をもってここを我が領土とする!」と宣言し、狩猟でもしながら土着できるんなら別にいいけれど、そういう訳には残念ながらいかない。
僕がこの天の下、真に独りきりなら開き直ってやってもいいかもしれんが、さすがに親兄弟親類縁者&先祖にその手の恥をかかせられないので、やるわけにはいかない。
したがって「僕にはまだ帰れるトコがあるんだ」つうことで、来たからには戻らねばならない。

借りたモノは返さねばならない。生あるものは滅せねばならない。来た道は帰らねばならない。
これがどうにもまからない。

いやいやいやいや、休みなしに自転車こいでの帰り道、己のアホウさにマジで泣くかと思いましたよ。

そういえば似たような話昔読んだな~
あれだ、芥川龍之介さんの「トロッコ」だ。あれは主人公子供だけど・・・

(たしか)遊びの延長で線路工事の人夫さん達と一緒にトロッコを押し、それに乗りを繰り返し、自分の村からいくつも山を越えて、もう日も暮れようかというトコで、人夫さんに「自分たちはトロッコでもっと先へ行く、坊主はもうお帰り」と言われ、このトロッコは自分の村へ引き返すものだとばかり思ってた主人公の子供が、あわてて暗い夜道を孤独と恐怖に耐えながら走って自分の家に帰るお話でしたか。

そんで、この子は大人になって東京に出て家族を持ち、仕事は文章を校正する人になったんだったかな?
ほいで、深夜に都会の片隅での今の苦しい生活を思うと、ふと今でもあの外灯もない暗い夜道を孤独と恐怖に耐えながら走っているような気がする、みたいな〆ではありませんでしたっけ?

いやいやいやいやいや、わかるぞ坊主!ミーツーだ、ミーツー。さぞや怖かったろう。寂しかったろう。
よく孤独に耐えて走りぬいた!感動した!


ま、こっちはいい大人やけどね。


しかしなんだね。遠い将来、僕が深夜にふと思い出すとしても、灯り一つ無い暗い夜道ではなく、覆いかぶさらんばかりの咲き誇る桜のトンネルになるんやね。そう考えると悪くもないわね。


ま、こっちはすでに分別あるはずのいい大人やけどね。




Ⅱ:僕は散歩が好きなんですね

たぶん散歩をするためにこの世に生まれてきたんですね。
散歩と漫画さえあれば生きていけるんですね。だって、文章は、オハナシは、自分で書けばいいし、頭ン中で考えればいい。音楽は自分で楽器弾けばいいし、唄えばいい、でも漫画は描けんし、散歩にいたっては言わずもがなでしょう。

が、そんな僕ではありますが、最近、自転車なるものに乗る機会が増えてきたんですね。いえね、とうとう文明開化の大波が僕のトコまで押し寄せてきてですね、廃刀令もかくやという勢いで徒歩による散歩から自転車によるサイクリングに移行してしまったんですね。いや、僕はあくまでも散歩ラヴの男なんですけどね。そこンとこ、小栗上野介もかくやという信念の男なんですね。でも時代のうねりの中、歴史が大きく舵をきる時、個人の信念なんて無力なもんなんですね。どうしようもないんですね。「堕落してゆく僕を許しておくれ」と、断髪令もかくやな無念の思いで、今日も僕はサドルにドスコイと座るんですね。で、維新後、一命を許され静岡に移った徳川慶喜さんのように軽やかにペダルをこぐんですね。「風になるのだ~」みたいな。「文明のリキ最高~」みたいな。

んまあ、そんな感じで、ここ何日か時間を見つけてはアッチやコッチと30~40キロ自転車で徘徊してるんです。その反動がドン!ときましたな。
つうても、前も時間を見つけては10~20キロは徒歩でアッチやコッチと徘徊していた訳だから疲れ的には大して変わらんはずだけど、やっぱり使う筋肉が違うとアレなんでしょうな。それに長い上り坂を見つけると、どうしても挑戦したくなっちゃうし。

そういう訳で、しばらくこの勢いで自転車乗り倒してたら、そのうち自然と身体が慣れるでしょう、たぶん。
現状、痛み最高潮。身体をひねるのも一苦労ですが。





Ⅲ:「知れば迷い 知らねば迷わぬ 恋の道」©土方歳三

風になるのだ~

と、自転車を軽快にこいでたらすっ転びました。
道の真ん中でかなり豪快にずっこけました。

そこは車道や歩道の区別もたいしてないとこで、普通に車もBUI!BUI!通っとります。あやうく、本当に風になるとこでした。

いやいやいやいや、やばいやばいやばいやばい、気ぃつけないといけまへんな。
まだまだ僕は死ねまへん。歩き足りません。だって僕の散歩圏内だけでも、まだ歩いていない路地は沢山あります。ありすぎます。
歩きたい、ああ歩きたい、歩きたい。知らない路地から知らない路地へと歩きたい。そして迷ひたゐ。
「知れば迷い 知らねば迷わぬ 恋の道」©土方歳三に迷ひたゐ。

は、さて置き、やっぱりまだまだ全然歩き足りません。腹一分目にも到達していません。できれば世界中の路地を歩き倒したいくらいです。ちょっとそこんとこ時間軸的に「人間」として無理があるっつうんだったら、なに徐福さんを呼んできて牛丼でもおごって三神山に行ってもらい、不老不死の薬を手に入れ僕も兜率天の皆さんの仲間入りをして、それを目指せばいいことです。シンプルな話ではないですか。

も、さて置き、やっぱりまだまだまだ僕は見知らぬ路地をうろちょろしたいです。単純に僕の望みはそれだけです。これからは気ぃつけないと。

いや~本当に危なかったんですよね。こけたのはもうちょっとで家っつうとこで気が緩んだ、つうより足の筋肉の疲労に自分で気づかなかったのが敗因でしょうな。坂道の上り下りを意図的に繰り返したせいか、立ち上がろうとしたら膝笑っちゃってたし。しかも、こけて初めてそのことに気づいたし。
考えたら僕は自転車に関してまだ若葉マークだもんな。結果として怪我もせずに良い経験になりました。

が、そこなんですよね。ちょっとずれてたら普通に飛ばしてる自動車に轢かれても全然おかしくない状況だったんです。
つうかこれで轢かれてたら、もう自動車の運転手の人に悪すぎです。だって146%僕が悪いですもん。いきなり何もないとこでバランス崩して倒れこみましたからね。それでも悪いのは自動車だ、みたいになるでしょ。特にもし僕が死んじゃったりしたら(物騒な例えですが)、「いえ、悪いのは全部僕なんです。あの方は不運にも巻き込まれただけで」と言ってあげたいけど、それこそ「死人にくちなし」だし。何か使い方まちがっとるような気もするけど、実際そうなると僕はもう何も言えんし。


とりあえず、今回はよかった。ちゃんと気をつけよう。




Ⅳ:涙

三月の雨は六朝の涙に似たり、らしいですが、もちろん今は三月ではなく、「また来年」とそろそろ四月をたたんで箪笥にしまい込もうかという季節。なんも関係ない。

でも、この三月ってのはたぶん陰暦だろうから、そう考えると関係なくもないかもしれない。よくわかんないけど。

ま、そもそも僕には雨霧に霞んで、六朝はおぼろげにしかみえない。魂のまほろばなのかもしれないそこは、まるでまぼろしのよう。

つ~か、ちょいこの頃お天気さん泣き虫すぎませんかね。
君は僕か?
なにかかなしいことでもあったのかい?

親近感はわくけどさ。




Ⅴ:告白

駄目なんです。どうしても僕は”徒歩”のことが忘れられません。
今の僕には”自転車”さんという素敵なLoverがいるというのに、心から満ち足りて、充足した生活を送っているはずなのに、それなのに。

そう、それは最初は僕の心についた小さな小さなシミみたいな点でしかなかったんです。
馬鹿らしい。どうせ日日を、日常を積み重ねているうちに、それはどんどん薄くなり、自分でも気づかないうちにそんなシミのことは忘れちゃうさ。消えてしまうさ。そう思っていたんです。

でも、駄目なんです。それは逆に僕の心を知らないうちに侵食してどんどんおおきくなり、今では何か心にぽっかりとおおきなおおきな穴があいちゃったみたいなんです。

どうしても”徒歩”のことが忘れられないんです。

違います。けっして”自転車”さんのことを愛していないわけではありません。
本当なんです。こんな便利で快適でエコな乗りもんを愛さない理由は何処にもありません。

でも、駄目なんです。


は、置いときまくりで、僕はやっぱり”徒歩”が一番好きみたいです。
”徒歩”での、のんびりと流れる風景、それを見る僕の目の高さ、が、やっぱり僕には一番しっくりくるみたいです。


まあ、僕はチャカチャカ歩いちゃいますけどね。




Ⅵ:心にお月様

どっちも素晴らしすぎの、いうこたない曲だけど、ベートーベンさんの”月光”よりドビュッシーさんの”月の光”のほうが僕は好きです。

天上の暗闇にただひとり輝く月光の孤高もステキだけど、暗闇を切り裂いて地上を優しくてらす月の光の信頼も悪くない。

藤田嗣治さんは奥様君代さんと二人だけの永遠の旅の途中、月を眺められては、やっぱりベートーベンさんの”月光”ではなくドビュッシーさんの”月の光”を聴かれているような気が僕は勝手にします。


プカプカです。

objection

"Càiyuánpéi is anti-Confucianism.
There is such opinion. 
Do not say a stupid."
 
"Confucius said.
Current,it's troubled times indeed.
The right way has died already. 
But future, it may have been made ​​into the world.

I want to look to it.
So I want to keep looking for it."

"Confucius also did not stick to the opinion of his own,never.
When he was pointed out the error of his opinions,he admitted it obediently.
And he thanked in person pointed out it.
 
Better way.
Yes,he kept looking for it.
His eyes were always facing the future.
 
The apotheosis of the past unconditionally.
He did not do this,never."
 
 
・・・・・・・・・
 

"Càiyuánpéi said.
I will respect the teachings of Confucius.
However,it and deification of Confucius by people of future generations.
We should think these as another things.
Because Confucius did not want it,never."

"And the important thing more than anything else.
Loyalty.
Respect for Confucius.
Càiyuánpéi has not denied this.

Formalism which borrowed the name of Confucius.
Authoritarianism which borrowed the name of Confucius.
 
New government put it at the center of education.
He expressed doubts against it.
It's no more and no less.
 
Make an effort to create a better society.
This is in accordance properly to the teachings of Confucius. 
 
In other words,his thought,that's what should be called true Confucianism.
He is a true Confucian.
 
If you consider his thought, you can found it surely." 

"Zhōu Zuòrén" of younger brother of Lu Xun. (周作人 1885-1967)
At that time,he published in magazines such objection.
 
But this seems to have no effected on the general situation. 
 
Weight of two thousand years.
It was weigh heavily over them still.


Note:There is this fact of Zhōu Zuòrén surely.
But this his statement is my fiction.
Not be accurate.

Saturday 26 October 2013

え~現在(2013/10/25)、このドラマに関しては結局暴かれない巨悪「原種臣」の名とともに少々違う感想をもっております。細野晴臣さんを連想したわけではない、ということは明記しておこう

Ⅰ:点と線

昨日(2009/10/10)、放送されたビートたけしさん主演の「点と線」。
二年前に二夜連続で放送されたものを原作者の松本清張さん生誕百年にあわせて今回一本の作品に再編集のうえ再放送と。
僕は前回の本放送をみてないので昨日は新鮮な気持ちでみれました。

で、ビートたけしさんは番組開始そうそう福岡の古参中年刑事、鳥飼重太郎として登場。
「あれ、たけしさんその役なの?」とちょっと思います。

だって原作では物語の導入部となる心中事件(実は殺人)は確かに福岡で起こりますけど、途中から話の重心は東京近辺に移りますからね。死亡した男性を別件でマークしていた、東京の警視庁から福岡に心中事件の調査に派遣されてきた刑事三原紀一と共に。

でもたけしさんがやるのはやっぱり鳥飼しかないよな、とも思います。
だって警視庁から派遣された三原は年齢三十そこそこだし(原作)。
福岡の中年刑事がビートたけしさん、警視庁から派遣されてきた若い刑事が高橋克典さん。ちょうどいい感じな気がします。

でもどうするのかな?原作では途中で三原が東京に帰ってからは鳥飼の出番は手紙くらいでほとんどないからな。
かといって主役のたけしさんを福岡の中年刑事に配役したからには後半出番なしとはいかんでしょう。
無理やり話しの力点を福岡にするのかな?どうするんだろう?興味津々。

・・・おっと、そうきましたか!

なるほどね。鳥飼さん無理やり東京に行っちゃうのね。で、三原さんとコンビを組んで事件の捜査をするわけね。
原作では三原さんが気づく「四分間の空白」も鳥飼さんが気づくように改変されるわけね。

よくよく考えたら、「そんなアホな!?」と思わんでもないですが、テレビドラマの脚色としては僕的にはこの改変は許容範囲でした。




これは脚本家の方ご自身のメッセージなのか、ドラマの企画会議で決まったメッセージなのか、はたまた別のなんなのかは僕にはわかりません。
原作にはない鳥飼と犯人安田の対面(精神的対決)シーン。あそこで鳥飼が語っているコトはまことに正しくその通りだと思います。
「この事件の犯人は、軍隊で人の命の大切さがわからなくなった可哀相な、ある種戦争の被害者だ」的な(ドラマの中の時代は戦後十年経過くらいです)。

でも、僕はそれを聞くとドラマに引き込まれていた心が途端に醒めてしまいました。
訥々としたたけしさんの台詞まわし僕は好きですが、その時は何かたけしさんが腹話術の人形にでもなっちゃったような気さえしました。

人によってはそこに感動したって人もいるでしょうから、あくまで僕の個人的な感想ですけど。

せめて原作にはないメッセージ(ある種イデオロギー)は役者の台詞としてストレートにメッセージとして語らせるのではなく、違う表現方法で視聴者に悟らせるって無理なんですかね。

「点と線」の原作の中にはなくても、これはそもそも松本清張さんの思想だ。
もしくは違う松本さんの小説の台詞を使っただけだということかもしれませんが、僕はやっぱり嫌いです。
ドラマが薄っぺらくなる元凶だと思うから。





Ⅱ:空気

僕が昔の日本映画を観るのを楽しみにしているのは、そのフィルムの中に昔の「空気」が真空パックされてるからってこともあります。
どんな種類の映画でも、その映画を作った時代の「空気」は基調低音として流れており、逆にそこから逃れるのはなかなか難しいことだと思います。これは別に映画にかぎらないコトかもしれません。

これはテレビドラマですけど、僕がこないだ書いた、ビートたけしさん主演の「点と線」への違和感。
これは松本清張さんが原作を書かれた昭和三十年代前半と、このテレビドラマが製作された平成二十年前後の時代の「空気」の違いに対してかもしれません。

というのはさておき、単純に映像に残る昔の風景を見るのが楽しいってのもあります。
昔の東京の道路の頭上はほんとに路面電車の架線で埋め尽くされているなとか。

あとはやっぱり、当時の風俗、ファッションとかビルや車や生活用品などのデザインや色彩がみててすごく楽しいですね。

特に車。
昭和三十年代前後の消防車や救急車(たぶん)、すんごくカッコいいんですけど。
一番機能性を大切にしないといけない車両だから無理な話だけど。是非このデザインの復活を(アレンジはOK)!と思ってしまいます。

これは「空気」の中に入るだろうけど、当時の人の日本語のボキャブラリーや発声のアクセントも聴いてておもしろいです。




Ⅲ:センス

いえね、Musicではね、若いころからそのケはあったんですよ。わりとシンプル好きというか。
つうても僕は遅れてきたNew Wave少年でしたからね、ギミックやキッチュは大好きなんで、結局のところは例によって個人の「センス」ってトコに落ち着いちゃうんですけどね。

まあそこも踏まえた上で僕はわりとシンプル好きなんですよ。
ギミックやキッチュを含んだシンプル。随分無茶を言ってますが、たぶん100人中3人くらいは僕と似たような「センス」の人もいるのではなかろうかと。

もちろん同じとは言いません、あたりまえですが。

いろんなデザインとかでもシンプルなモノにひかれる傾向があります。


で、話は変わって銀閣。(通称ね)

まあ、当たり前にお会いしたことはないので、関する本を読んで、見て、での感想になりますが、銀閣を建てた足利義政つう人は政治家・為政者としてはとんでもないダメダメ君だったみたいだけど、その「センス」には正直ちょびっとひかれてしまいます。

「馬鹿。銀閣を建てたのは足利義政ではない。当時の大工達だ!」つうまことにごもっともなご意見もありますが、やっぱり足利義政さんの「センス」あっての銀閣だと僕は思うので、銀閣を建てた足利義政と言っちゃいます。(造営といえばいいのかな?)

まあ当然「センス」の中には義政さんの周囲にいた人たちの「センス」も混じっているでしょう。組織のトップの人間は精神的に孤独だろうけど、だからといって人間は独りで存在できるものじゃないですしね。

足利義政さん、今生きてたらどんな"Art"をみせてくれたかな?
いろんな縛りから放たれてさ。
ひとりの人間として。

もちろん今の世にも抑圧はあるよ。それもかなり強力な抑圧が。でも"Art"に抑圧は悪くない気もするんだよね。それで潰れるんならそれまでだしさ。




Ⅳ:差異と反復

点と線。

我ながらしつこいんですが、こないだ確認のために録画しといた奴を観直しちゃったんで。

松本清張さんの原作では、総ての発端の心中事件が起こった福岡から、真犯人が蠢く東京に小説の中盤で舞台が移るために、福岡の古参中年刑事鳥飼重太郎はほぼ前半部だけの登場となります。
その後は福岡に心中事件の調査に派遣されてきた警視庁の若き刑事三原紀一が活躍し事件を解決に導きます。主役は三原、鳥飼はあくまで脇役です。

しかし今回のドラマでは鳥飼刑事をビートたけしさんが演じたために、原作と違いこの鳥飼刑事は独断で東京に行き、高橋克典さん演じる三原刑事とともに事件を捜査します。そして時刻表の問題など、原作では三原刑事が解くトリックも鳥飼刑事が解くことになります。

が、前も書きましたが、僕は現実離れしていてもテレビドラマ化の脚色としてはこの変更は全然アリだと思います。


それよりもラスト。逮捕状が出るも一足遅く自殺してしまう犯人夫婦。妻を愛する夫。夫を愛する妻。しかし健康を害し、自分の身体が弱いために、夫が愛人を持つことを認める妻。そのお金は妻のもとからも出ている。これは一緒。


原作では(あくまですべてが終わった後の三原刑事の想像ですが)、この愛人の女性を夫の道具と割り切り、最終的に「情死」にみせかけ殺し利用した妻。もちろんそこには自分も"公認"の夫の愛人に対する歪んだ嫉妬もあるだろう。最後の夫婦心中もおそらく自分の死期が近いことを悟った妻が夫をだましておこなったもの。恐るべき女。血も冷たい女。
そして三原刑事は夫婦が心中してくれてホッとした。状況証拠ばかりで物的証拠がなにもない。逮捕状自体よくとれた。公判になるとどうなるかわからなかった。


ドラマでは、現在政界の大物として君臨する戦争中の上官のために暗躍する夫。手を取り合って死んでいく夫婦。そして福岡に帰る夜汽車の中での鳥飼刑事の「女ちゅうのは弱いけん、男に惚れて惚れて死んでいくとです」の台詞。夫婦が死んだ事により結局巨悪は暴かれずに終わる。

まあ小説のドラマ化ではこれもよくある話だろうし、どちらも夫に惚れてるからこそ、結局同じコトを言っていると言おうと思えば言えるかもしれません。「私達はそう解釈した」ってな感じで。





原作には無い、犯人夫婦の夫に対する鳥飼刑事の「事件の犯人は戦争で人の命の大切さがわからなくなった哀れな人間だ」みたいな台詞、やっぱり僕には違和感ありまくり。
ま、現実に松本清張さんが原作を発表された昭和32年にはそんな人達も現実にいたんでしょう。何せ戦後まだ12年。当たり前のこととしてそこら辺にいたんでしょう。当たり前すぎて、そんな台詞は出しようがなかったでしょう。

これも前書きましたが、せっかく"昭和30年代"だと気持ちよく騙されて観ていたら、いきなり平成の看板を持った人間が画面の中に出てきて「ドッキリカメラで~す」とにこやかに宣言されたみたいな感じがしちゃいます。


結論としては、作品の質が良い悪いとは全く別の所で、松本清張さんの原作とこないだのテレビドラマは同名異曲、結局違う話なんじゃないか?と個人的には思っちゃいました。根本的に事件の質自体が別モンになっちゃってる気がします。それにまつわる人間模様も。

もしかしたら時刻表のトリックとか、最初の福岡の香椎の浜での情死事件のトリックなど、作品に出てくるトリックの内容さえ改変しなきゃ「点と線」だろう。それ以外、話の筋や犯人の内面とかは、どう料理しても別にいいんじゃね?つうコトですかね。

テレビではいちいち登場人物の細かい内面を言葉で説明できないし、わかりやすくしなきゃいけないんだ、みたいな。
そうそう、具体的な"人"として巨悪も出しとけ、政治家を出しとけ、みたいな。
ちゃんと「本当に悪いのはこの人ですよ」と視聴者の人に噛み砕いて教えてあげないと、みたいな。
「結局は暴かれない巨悪、”悪いやつほどよく眠る”をやっときゃ松本清張なんだよ」、みたいな。


ドラマでは柳葉敏郎さん演じる、官庁方面への商いをしている犯人夫婦の旦那さん。
いえね、あくまで僕としては原作はこの人のピカレスクロマンとして読めんこともないんです。かなり無理やりですが。小粒な男の意思を持った野望物語ではあるんです。
そしてそこに絡んでくる奥さん。

シェークスピアの舞台劇みたいな感じもあるんです。

でもドラマの方は。






Ⅴ:内面の発見

次回の東宝特撮映画DVDコレクションは「ガス人間第一号」(昭和35年12月11日公開)です。
この作品は東宝特撮映画変身人間路線の第3弾らしく、続発する銀行強盗、翻弄される警察、そこには謎のガス人間の影が!!と、同じ特撮映画でも怪獣映画とは一味違う魅力があり今からもうワクワクドキドキです。

で、例によって作品内容の事前情報はなるべく仕入れないようにしていますが、前号の付属データファイル次号予告を見ると八千草薫さんが今作のヒロインみたいです。
今もお美しい八千草さん。その八千草さんの半世紀前の可憐なヒロインっぷりもまた楽しみです。
つうてもヒロインは(多分)主役の連続銀行強盗犯でもあるガス人間第一号さんの関係者で、警察に目をつけられた最初の重要参考人ぽいし、よくあるお供え物の可憐なヒロインとは一線を画した存在かもしれません。

昭和29年11月公開の「ゴジラ」とほぼ同時期に製作され・誕生した同年12月公開の「透明人間」。
その東宝特撮映画変身人間路線の第三弾こそが昭和35年12月公開のこの「ガス人間第一号」。
どうしても当時の最新特撮技術を駆使したワクワクドキドキにピカレスクなロマンを期待してしまいます。

どうせ発売はスグだし、内容は何も調べてないので全く違うかもしれませんが、是非(多分)主役のガス人間第一号さんは惚れ惚れするような悪漢であって欲しいです。
内面は別にいりません。反省も別にいりません。僕は別にいりません。ただ、できれば、かなう事ならば、第一号さんはもう己の欲望のみに生きてて欲しいです。
特定の誰かとか国家への復讐が私の動機です、てのも僕は別にいりません。が、これはしょうがないので、そうであっても別に僕はかまいません。

もちろん観てみたら主役は刑事で、実は第一号さんはただの脇役・敵役でした!つうオチもありえますが、それはそれと言う事で。




Ⅵ:千のプラトー

さて東宝特撮映画変身人間路線第三弾「ガス人間第一号」です。
ちなみに当時のポスターには"空想科学映画第三弾!"と書かれています。

まず、変身人間路線の第一作を昭和29年12月公開の「透明人間」だと昨日書きましたが、どうも昭和33年6月公開の「美女と液体人間」が数え方として第一作みたいです。
もちろん「透明人間」という作品は確かにあるんですが、「美女と~」が好評だったから、この路線をもうちょい掘り下げてみるか?つう感じだったんですかね。そこから割と立て続けにこの路線の作品が製作されています。

まあ考えてみたら「ガス人間~」が公開されたのは「モスラ」公開の前年。
実際にすべての作品を観たわけではなく、付属ファイルのシリーズラインナップの作品名を見ただけですが、当時はまだ"東宝特撮映画=怪獣"という図式が固まる前で、いろんな可能性が試されている気がします。冒険・実験がなされている気がします。もちろん特撮技術についてだけではなく、それを生かした空想映画としての可能性を。

しかし変身人間路線もこの「ガス人間~」が最後っぽいです。(三年近く後に「マタンゴ」つう作品が製作されていますが)
そして、正義の味方ゴジラさんと愉快な仲間達vs悪徳怪獣つう図式に”基本的に”収束していきます。もちろんそれも悪くないんですが。

いえね、マジで面白いんですよ「ガス人間~」。
やっぱり主役は三橋達也さん演じる刑事さん。土屋善男さん演じるガス人間は脇ではありましたが、当たり前に充分すぎる存在感。
大学進学の望みも叶わず、ジェットパイロットになるという夢も自身の体格で絶たれ、将来に何の希望も持てずに虚無的に為っていたトコをマッドサイエンティストにつけ込まれて哀れガス人間へと改造された若者水野。
身体を思い通りにガス化させることができるという望まずして手に入れた無敵な能力を、愛する女性の為に使う水野。それこそガスのように捉え所の無い"空虚"に対する怒り・憤り・嘆き・嘲りをそこに昇華させ、それを自身の存在理由とする水野。そのためには人を殺すこともいとわない。もしかしたら八千草薫さん演じる落剥した日本舞踊の家元藤千代を愛することで崩壊しそうな自身の精神をつなぎ止めている水野。「君のため」と言いながら自身の虚無感に藤千代を引きずり込む水野。
そんな水野を人間社会に紛れ込んだ異物、あってはならない危険な存在として処刑抹殺しようとする警察。
そしてすべてを理性で悟った上で「情鬼」となる藤千代。

無茶はありますがええ話です。ちょっと雨月物語な感じもします。もちろんこないだのシェークスピアに引き続き適当です。


でも映画の冒頭、車で逃走中の銀行強盗犯を警察が追跡。すると犯人の車は山中で道を踏み外し崖下へ転落。しかし死んでいるか大怪我をしているはずの犯人の姿はどこにもない。困惑する警察。そのとき何処からか聴こえてくる鼓を打つ音。その音を辿って草深い路を行くと屋敷が在り、そこでは夜叉の面を付け舞い踊る女性の姿が・・・

なんて今の話としてやっちゃったら、まんまオバケ話になっちゃいますかね。

でも空想科学と日本舞踊。この感じ、いいなぁ。
当時はまだ当たり前にこの組み合わせにリアリティあったのかな?





Ⅶ:神々の黄昏

ということはあれですな、「ガス人間~」、考えてみたらこの変身人間路線が映画で続かなかったのは、テレビの大衆への本格的な普及の影響かもしれませんな。
怪獣が画面狭しと大暴れする作品と違い、日常の隙間・怪奇を描いた作品はテレビの小さい画面にぴったりだったから、そっちにコンテンツが流れていったとか。

え~と、テレビドラマ「怪奇大作戦」は昭和43年ですか?「ガス人間~」公開から8年後か?
ん~ダイレクトに結びつけるのは無理ありすぎるかな?「マタンゴ」からでも5年後くらいか?
それに考えてみたら怪獣だって昭和41年の「ウルトラQ」から(かな?)テレビ進出果たしてるもんなぁ。

うん、よくわからんな。
単純に不入りだったのかな?大衆の一番身近なエンターテイメントとして栄華をきわめた映画産業も、テレビにその座を奪われてだんだん斜陽に向かっていく時期だろうし、もう金が稼げる映画をつくらなあかん、首がまわらん、特撮映画部門ならそれはやっぱり子供達のヒーローゴジラだろう、だいたい気を抜くと空飛ぶ亀にその栄光の座をひっくり返される、それに子供が映画館に来るっつうことは自動的に大人もついて来るっつうことだもん、てな感じだったのかな?

それともただ単純に特撮技術の進歩にともない、特撮ありきの怪獣映画ではなく、「ガス人間~」のようにドラマの一部としての特撮は、もう当たり前すぎて特撮映画と認識されなくなっていったのかな?

うん、それはないな。
あれかな?何となく日本が世界を先行していた怪獣映画と違い、日常の怪奇みたいなのは「トワイライト・ゾーン」とかアメリカの怪奇番組の焼き直しみたいなイメージを与えちゃったのかな?当時「トワイライト・ゾーン」とか日本でも普通にテレビ放送してたんだろうし。
もっと時代が下がっても「奥様は魔女」とかやってたし。

でも、ルーツをたどれば・・・みたいなのは別にこのジャンルに限らんし、それが駄目なら「怪奇大作戦」みたいなテレビ作品が製作されるわけないな。

うん、やっぱりよくわからんな。
今回はよくわからんつうことがよくわかったな。


ただ一言、「ガス人間第一号」はおもろいです。
科学と幽玄。理性と情念。製作した人達、演じている人達にもそれはまだ現実感をともなったものだったのでしょう。違和感無く交じり合っております。絶妙です。
もしかしたら、高度経済成長と共に豊葦原端穂国に暮らしてきた人達が代々つちかって来た魔法がとける、その最後の時期ですかね?

まあ何にしろ「ガス人間第一号」はおもろいです。




Ⅷ:ピカレスク

で「だんだん斜陽に向かっていく」と昨日何気に書きましたが、この没落な感じで"斜陽"と言う言葉を日常的に使うようになったのは、太宰治さんが敗戦後の社会変動の渦の中に没落していく上流階級の人々を描いた小説「斜陽」を書かれて以降ですかね。
"斜陽"が落ちぶれていくみたいな意味を持ったのは。

まあ、夕暮れな日差しとしての"斜陽"という言葉自体は、まったりとのりたまな感じでそれまでも在ったんですよね。変わらぬ日々に飽き飽きしつつ、たまには欠伸の一つもし、夢見るような夢を見て。

太宰さんはそんな"斜陽"さんが自分でも気づかなかった"落ちぶれる"という妖しく抗しがたい真の姿、真の魅力をその類まれな感性で見出したのだろうか?
それとも太宰さん、甘ったれた田舎のお大尽のお坊ちゃんらしく、ある時は高貴な"斜陽"さんの頬をその類まれな自尊心により引っ叩き、ある時は無垢な"斜陽"さんにその類まれな詐欺師的能力で甘言を弄し、そして"落ちぶれる"という自分色に無理やり染め上げたのだろうか?
"斜陽"さんに消える事の無い永遠の傷跡を残したのだろうか?


まあ何のことやらわからない。書いてる僕にもわからない。

cabinet for crisis relief

October 10, 1911,Military uprising broke out in "Wuchang" of China. (武昌)
This was the beginning of "the Xinhai Revolution".(辛亥革命)

The Qing dynasty collapsed by this.

Following year, January 1, 1912.
Provisional Government of Republic of China was established in "Nanjing". (南京)

Note:"Sun Wen" was extraordinary president. (孫文)


・・・・・・・・・


"Loyalty.
Respect for Confucius.
 
These were pillars of education in China until now.
However,China was reborn as a republic.

Emperor does not exist in China anymore.
Yes, all people are free and equal.

Therefore,these traditional pillars of education.
In short,the education by Confucianism.
This is a little inappropriate as an educational policy of the republic.
 
We should put up a pillar of the new education an alternative to Confucianism.

Faith, creed・・・.

And it should be the one that has a base of freedom."

"Càiyuánpéi" of education chairman of this provisional government. (蔡元培)

April 1912,immediately after the provisional government launched.
He published an opinion on the educational policy like this.
 
"We will make a new China."
He also would have been one of the people that idealistic.

 
・・・・・・・・・
 
 
And he was Minister of Education virtually of the first Cabinet of the Republic of China.
It would also be one of the big reasons why.

"Does he destroy the ethics of China?"
"Westoxication."
"He was the vanguard of anti-Confucianism in the first place."

Big backlash against this opinion arose.
(The previously he was studying in Germany.)

It was done in conservative newspaper mainly.
In addition, this backlash was also arise from internal government.
 
As result it became a big swell. 
And around July,he was forced to resign eventually.


・・・・・・・・・
 
 
By the way,around the same time,one issue had been discussed at the education conference of government.

"Confucius statue had been enshrined in the school of China until then.
We should stop this habit?"
 
It was like this.
And this agenda was very entangled.
 
"This issue is left up to the discretion of each region."
 
After all, it seems to have become such a conclusion. 


Friday 25 October 2013

さて、どうしましょうかね

Ⅰ:イメージ先行逃げ切りタイプ

例によってフワフワした話ですが。

犬好きな人は「つくされたい」
猫好きな人は「つくしたい」

この分類の真実やいかに?
また、そうであるならば両方好きな人、両方とも駄目な人、この人達はどうなるのか?

謎は深まるばかりです。


さて、ちょっと昭和の匂いがする商店街のはずれ、いつも何気なく行き来してた狭い道。
そこが昔の某重大事件の現場となった場所だとわかってびっくり。
60年という過ぎ去った過去を考慮にいれても、ここで凄惨な事件があったとはとても思えない。

ありふれた風景。
永遠に続きそうな、あたりまえに流れる時間。

でも、当時だってそうなんですよね。

よっぽど天候不順でもない限り、事件発生当時、暗雲なんてたちこめてなかっただろうし、オドロオドロシイBGMが流れてたわけもない。

今日と同じような、当時のありふれた、永遠に続きそうないつもとかわらぬいつもの午後にその事件はおこったんですよね。

ありふれた風景、ありふれた時間の隙間に忍び込むモノはなんでしょう?

...と、ここまで書いたら足を蚊にさされました。かゆいです。蚊はいつごろいなくなってくれるのでしょう。
非常に迷惑です。


で、話を戻して

じつは戻りません。また話が飛びます。


よく、自分が認識している世界と他人が認識している世界は実は違っているつう話ありますよね。
それこそ同じネコを見ても、僕が認識しているネコと他人が認識しているネコはまったく違う。
同じ青色でも、僕が認識している青と他人が認識している青は違う。

まあこれは、頭の遊びの与太話でしょうね。


でも考えてみたら、何でもそうか?
他人と全く重なり合うことなんて何がある?

文章だって、同じ文章を読んだところで自分と違う解釈をする人なんて山ほどいる。
行動だって、自分とは違う受け止め方をする人なんて山ほどいる。

世界は誤解をする。

お前らに何がわかる?

俺に何がわかる?


なんてな。




Ⅱ:コスモス

コスモス(秋桜)

花言葉は「少女の純真」「真心」(だそうです)。
さて、ちょうど今頃、そんな花言葉を人が奉げたくなるような可憐な花を咲かせている頃でしょうかね、もう散ってしまいましたかね、どうですかね。

ところでコスモスというと、僕は花以外にもう一つ連想するものがあります。

それはコスモス(宇宙)

無限にひろがる大宇宙ってやつです。
カール・セーガンさんて人が宇宙の神秘についてお書きになった「コスモス」って本が連想もとなんですけど。

あの小さく可愛らしい花と果てしのない宇宙を繋ぐ言葉「コスモス」
そこにはどんな”世界の真理”が隠されているのであろうか!!

いやぁ思索の秋だなぁ~


しかしひさしぶりに熟睡して、空を見上げると雲ひとつない空。
空気もほどよくひんやりとして気持ちがいい朝です。

と、どこでしょう?遠くの方でサイレンの音。
事件?事故?大した事ないといいんですが。

「天上の青」という言葉が頭に浮かびます。

曽野綾子さんの小説に出てくる朝顔の名でしたか。




Ⅲ:ピピピピピ パパパパパ ヒョワワワワ 

そりゃね。やっぱりね。買いますよね。怪獣LOVEな僕ならね。

東宝特撮映画DVDコレクション第3号「三大怪獣 地球最大の決戦」
宇宙怪獣(キングギドラ)地球を大襲撃!ゴジラ・ラドン・モスラと世紀の怪獣戦争!

ん~プリントちょっと痛みすぎじゃないかい?まあ、画像ひど過ぎて観てられないってほどじゃないけど。あと随分ざっくりした編集が行われていますな。

え~と、「モスラ対ゴジラ」の公開が昭和39年の4月29日、宇宙大怪獣「ドゴラ」が同8月11日、で「三大怪獣 地球最大の決戦」が同12月20日公開と。
GW、夏休み、お正月。撮影スケジュールきつかったのかな?

おっと、今回はちょっとネガティブ感想先行ですな。
ま、つうても、何は無くてもひとたびピピピピピ、パパパパパと怪奇音と共に飛来するキングギドラさんを見てしまうと胸もトキメクってもんですけどね。
今回は正義の味方気味な役割のせいか、クリッとして可愛らしい目をしたゴジラさんとラドンさんはちょっとアレですが。

そうそう、怪奇音といえばこの頃の特撮やアニメって結構テルミン(だよね)のヒョワワワワ~って音、頻繁に使われてますよね。



もひとつそうそう、とあるエピソードの確認のために本棚から黒澤さん関連の本をひっぱり出してたら、初期ゴジラの監督(もちろん今回も)として名高い本多猪四郎さんの名前を発見。

黒澤さん、映画「羅生門」のシナリオ(第一稿?)を橋本忍さんと一緒に書いて、で「こういうのは通用するかな?」と本多猪四郎さんに見せたところ「おもしろいじゃないか、やれよやれよ」と言われたので「羅生門」を撮ったそうです。




Ⅳ:20世紀の神話

まあ異論は多々あるでしょうが、ロックでは結構、~年代な区分けで話をすることも多いんです。
50年代のロック、60年代のロック、70年代のロック、みたいな。

プレスリー、ビートルズ、ツェッペリンてなイメージでしょうか。

つうてももちろん現実がそんなはっきりくっきり10年ごとに様変わりするわけもなく、実際はアングラ・オバグラ、それは混沌の中に複雑にからまってて、こんな区分けはあくまで話をわかりやすくするための方便だとも思います。


が、今日、東宝特撮映画DVDコレクション第13号「怪獣大戦争」(昭和40年12月19日公開)を観て、「東宝特撮映画、魔法の昭和30年代は終わった」と強く思ってしまいました。

いえ、面白いんです。面白いんですが、前年昭和39年12月公開の「三大怪獣 地球最大の決戦」で地球を滅ぼさんと突如襲来した宇宙怪獣キングギドラ氏の圧倒的な暴力・破壊に対抗するため、長いこと血みどろの闘争を繰りひろげてきた人類とゴジラさんたち地球怪獣が歴史的和解。地球の生物が種を越えて分かり合ったというラストで昭和29年の「ゴジラ」以来の人と怪獣たちの怨讐の円環は閉じた気もします。

当時の世界情勢、イデオロギーの違い、キューバ危機もついこないだ、学生運動、革命、樺美智子さんが不幸な亡くなり方をされたのもついこないだ。

なんとなく、ぼんやりと、イデオロギーや立場を超え「人は分かり合える」というメッセージを伝えたかったのかなぁという気もします。

分かり合うためにはキングギドラという”地球の敵”を必要としましたが。

もちろん今作「怪獣大戦争」もおもしろいんです。ただ、ここから新たなスタートだと思ったほうがいいというか。





Ⅴ:漱石の思ひ出

夏目は狂った。

司馬遼太郎さんのご本で読んだんだと思うんですが、文部省の命により"英文学研究ノタメ"英国に留学中の夏目漱石さんについて、日本の文部省内でそう囁かれていたつう話がありませんでしたか。

時代は日露戦争へと、様々な人々の意思のベクトルがその一点を目指し集約していってる時期。
まだまだ黄色人種への偏見が強かった頃、そしてそれに対して反抗するにしろ屈服するにしろ自らがそれを強く意識せざる得なかった頃、西洋に国の命を受け留学していた人達それぞれの「日本」の重さはいかばかりだったのでしょう?


それはやっぱり感受性は人それぞれ、重さも人それぞれだったのでしょうな。


おう、話が終わってもうた。


え~漱石さんの奥さんの鏡子さんが書いた(口述でしたか)「漱石の思ひ出」という本があります。
漱石さんとの出会いからその死までを妻の視点で回想されたもので、非常に面白い本です。

ところで鏡子さん、一部では凄い"悪妻"との評価を確立しています。
つうか確立しているらしいです。僕はよくしりません。
だって僕は人生で「夏目の妻の鏡子は悪妻だ!!」と悪態をついている人に会ったことも見かけたこともないので。

で、いろいろソノアタリを読んで知識を仕入れたトコによると、鏡子さんの生来の勝気な性格にもその原因の一端があるらしいですが、それよりも、というかなによりも、この「漱石の思ひ出」の中にあまりにもあからさまに漱石さんの日常を書いてしまっていることがその一番の原因みたいです。

漱石さん、自宅の隣の家の二階にすんでいた学生さんが自分を監視していると思い込み「おい!お前が俺を監視しているのはわかってるんだぞ!」「見え見えだ!」みたいなことを大声で怒鳴っていたみたいな話もあったと思います。
あと、自分や子供達への理不尽な暴力とか。

「あの女は事実を自分に都合がいいように解釈し、漱石だけを悪者にしている」
「女の言うことだ、そもそも事実無根なんじゃないのか」

でも僕はこの物凄いエピソード満載の「漱石の思ひ出」をどう読んでも、鏡子さんに夫を貶めようとする意図があったとは思えません。
意図がなくても結果として貶めてるんだ、つう見方もあるでしょうが、僕の感性でははその見方はとれません。

鏡子さんの漱石さんへの愛は感じましたが。

それに「漱石の思ひ出」に書かれた「事実」が、その「事実」としてすべて正しいとしても、夏目漱石の永遠は何もかわりません。





Ⅵ:おや?

いえね、昨日ね、ジャガイモを茹でて食べたらね、まだ芯?が残ってたわけさ。だからね、今日はね、そうはさせじと昨日より長めに強火で茹でたわけさ、そしてね「もういいべ」とフタを開けたらね。

いないんすわ。

ジャガイモさんが何処にもいないんすわ。
皮だけを残して忽然と姿を消してしまったんすわ。

もう『料理サスペンス。湯けむりに消えたジャガイモ。残された皮に浮かぶ北海道・九州・東京を結ぶ謎のルート!剥いては消える玉葱の呪い?追跡の果てに見た、悲しき恋の結末とは!?』みたいな感じなんすわ。

そういえばあったねぇ「煮崩れ」つう言葉が世の中には。つうか、いつも僕が作るカレーの末路がそうじゃないか。いや~まいった×2。そうですか。崩れちゃいましたか。でも、もうちょっと頑張れなかったかな?いや、別に君を責めてるわけじゃないさ。でも、もうちょっと頑張れなかったのかな?やっぱり今時の子は少々根性が足りないのかな?いや、別に君を責めてるわけじゃないさ。←と、このように責任転嫁をしながら人は生きていくわけだね


「ジャガイモを茹ですぎると崩れて消えてなくなる」

なるほどね、人間は失敗を糧に成長していくものだからね、また一つ賢くなってしまったね。
この調子でいくと、この生を終えるころにはどれだけ賢くなっているんだろうね。
ほんと楽しみですな。あの世に行ったら、この世で身に着けた知識でブイブイいわせようかね。
「雨で中まで濡れた靴の中には新聞紙を詰めとけば、水分吸ってくれていいんだぞ」とかね。


ちなみに皮だけ残して失踪したジャガイモは三個茹でたうちで一番小さい奴です。
残りの二つは美味しくいただきました。




Ⅶ:はらいそ

月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なのか?
はたまた、行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらずなのか?
僕にはまったくわかりません。
そこらへんは、とりあえずこの生を終えたらゆっくり検証しましょ。はい。


さて、いきなりですが島原の乱。
この時期、とりあえず何の関係もないとは思うんですが、ある曲を聴いてたら急に頭に浮かんだんで・・・

ま、僕はイメージ先行逃げ切りタイプだし。

この乱は、島原領主松倉勝家の領民に対するあまりにも品性下劣すぎる対応で起こった切支丹一揆ですね。

でも

そこには西方の異文明の侵略に対する警戒としての切支丹禁教という国是があったのも事実です。
西方による世界侵略があったのも事実です。
当時の日本人の支配層視点でね。


それに、もちろんこの乱は切支丹一揆という側面が強いですが、そう単純化できるものでもなく、もともとこの地を支配していて今は野に下った旧支配層(殿様は切支丹大名ですけどね)によるこの騒乱を利用しての、あわよくば失地回復という面もあるみたいです。
どうも結構な人数の切支丹でもなんでもない農民の人達が無理やりこの乱に参加させられてるみたいでもあります。
参加を断わると殺されちゃったり。


んで、ここでいろいろはしょりまして


そんなこんなで四万人近い老若男女が、旧領主の居城だった島原、原城址にあつまり立て篭もりました。
基本、みんな現領主の苛斂誅求に追い詰められてあつまりました。

内心、天上の楽園"はらいそ"を夢見て、失地回復の野望に燃えて、いやいやながら脅され絶望の中で、あつまりました。

最初は虐げられたまりにたまったエネルギーと、練った計画、体制側の不備などにより連戦連勝。
「これはいけるかも!!」と夢や希望を持った人も結構いたかもしれません。

しかし、そうそう上手くいくものではありません。

最初は後手にまわっていた幕府側でしたが、九州各地の大名に檄を飛ばし体勢を整え反撃開始。
結局、この原城は13万人近い幕府軍に包囲されてしまいます。あげくに幕府から依頼を受けた、自分達に加勢してくれるかもしれないと淡い期待もしてたオランダ船からも原城は砲撃を受ける始末。
現実はあくまで冷酷ですね。しだいに追い詰められていきます。

そんな絶望の日々の中、みんな毎日神様に祈ってたと思います。
祈る神様はそれぞれでしょうけど・・・


でも当然、僕たちの現実がそうであるように、一切、なんの奇跡も起こらず、四ヶ月ほどで立て篭もった原城は陥落。
もちろん運良く逃れることができた人たちも中にはいるのでしょうが、見せしめの為もあってか基本皆殺し、立て篭もった四万人近い人達の中で生き残ったのは幕府側に内通した一人だけだとも言われています。


ま、わかんないんですけどね。
過ぎてしまえばこの人たちの夢も希望も野望も絶望も全ては夢幻ですよね。
それこそ、月日は百代の過客にして~ですか。
行く川の流れは絶えずして~ですか。


でも、みなさんつらかったですよね。きつかったですよね。こわかったですよね。いたかったですよね。

おつかれさまです。

ゆっくり休んでくださいね。





Ⅷ:天使 

久しぶりに気持ちのいい朝日をあびて、ぼんやりと目を覚ますと沢山の白い羽が舞っている。
眩しい朝日をあびてキラキラと舞っている。
俺、寝ぼけてる?とも思ったけど、やっぱり舞っている。

おお!ついに我が家に天使が舞い降りたのか!?

と、思ったら、あれですわ、昨夜Gジャン着たまま寝ちゃったら(ズボラですいません)、多分それのポッケの何かが羽毛布団を破いちゃって、中の羽毛がなかなかどうしての規模で部屋中舞っちゃってますわ。

つうかとりあえず僕が羽毛まみれですわ。どえらい天使の祝福をうけちゃってますわ。

さて、どうしましょうかね。

adverse effects

Imperial examination.
This test had been carried out in accordance with taught of Confucianism.

The Qin dynasty that is a first unified dynasty of China. (221BC-206BC)
This era Confucianism received a large crackdown and faded.

However,reign of "Liu Bang" of the founder of the Han dynasty. (劉邦 Reign 202BC-195BC)

"Confucianism is valid to restore order in the society.
I will adopt confucianism to ritual of the dynasty."
 
Confucianism was revived gradually by this decision of his.
And reign of "Emperor Wu" of seventh emperor of the Han dynasty. (武帝 Reign 141BC-87BC) 
Confucianism has established itself as the state religion finally.

Even if dynasties were changed,position of Confucianism did not change.
(It was enhanced in reverse.)
And this position became decisive by the practice of the imperial examination.


・・・・・・・・・
 

"Mysterious events.
Confucius did not talk about it."
(For example,about strangeness,superhuman strength,chaos and God.)

There is a description like this in Analects of Confucius.

"Attitudes like this.
This is the attitude to be taken by the wise man."

In response to this,Confucian scholar seems to have taught that way.

"Yes,attitudes like this.
In short,adverse effects of Confucianism.
Development of fiction literature of China may have been inhibited by this."

Lu Xun who is father of modern Chinese literature. (魯迅 1881-1936)
Early 20th century,he said so.

Note:There is this fact of Lu Xun surely.
But this his statement is my fiction.
Not be accurate.


・・・・・・・・・
 

Well,inaccuracy of my writing about Lu Xun.
It aside,you must have one caution.

This era,China was suffering Between with modernization and past.
 
The Qing dynasty vanished in 1912.
And Imperial examination is abolished in 1905.
 
"Confucian thinking."
 
But Confucianism was present at the center of China two thousand years.
It was left as a common sense of Chinese of course.

"Courtesy and loyalty.
Confucianism is present to bind the Chinese by its old-fashioned order."

There was a face that can be recognized like that certainly in Confucianism.
 
"People are free and equal.
First,we need to change this consciousness."

People who aim the modernization of China.
Therefore,they had need that must be hostile daringly against Confucianism.

Thursday 24 October 2013

ま、いいじゃないか

Ⅰ:絶対と超越のエロティシズム

澁澤龍彦さんのエッセイ集『エロス的人間』に収録されている「絶対と超越のエロティシズム」を読んだ。
内容は、澁澤さんご自身が翻訳されたフランスのシュルレアリスムの詩人ロベール・デスノス(1900-1945)の論文『近代精神の見地から文学作品を通じて考察されたエロティシズムについて』の紹介ならびに論評だ。

非常におもしろく、かつ興味深く読めた。
ただ残念なこともある。この論文においてデスノスは非常に厳密に言葉の定義付けをしている。あやふやさを許してはくれない。
しかし私には根源的な意味においても、副次的な意味においてもその厳密さを確かめる能力を持っていない。意思を持ち得ないといってもいいだろう。

俗に流れるが、宿命として仏語を日本語に翻訳した時点で翻訳者である澁澤龍彦という人物による言葉の意味性の取捨選択がおこなわれ、バイアスがかかってしまっている。そういうことはない、というのは神ではなく、神の子である人間としては、少し傲慢に過ぎるだろう。

ここで、デスノスの言葉の定義を少し上げてみよう

「エロティシズム」とは、愛欲を喚起したり誘発したり表現したり満足させたりするための、愛欲に関係のある一切のものの謂である。

「エロティック」とは、(本質的には)愛欲に関する学である。(プラトニックとか、脳髄的とか、神秘的とか、肉体的とかいった形式上の差別のない性的衝動の意味に解される。)

「肉欲」とは、感覚作用である

などである。非常に明確だ。
しかしである。明確さの中にこそ罠が潜んでいるのではないだろうか?

例えば「肉欲」も「感覚」も「作用」もなんら分かりづらい言葉ではない。
だが正確な資料が手元にないので不正確な書き方になってしまうが、第二次大戦前であろうフランス人ロベール・デスノスの言う「肉欲」と70年代の日本人澁澤の「肉欲」とのあいだの「感覚」や「作用」に思考のズレは存在しなかったのだろうか?
さらにいうなら70年代の日本人澁澤の「肉欲」と21世紀を生きる私達の「肉欲」はまったく重なりあうものだろうか?
それは「感覚」も「作用」も他の言葉達も同じことだ。

私達はロゴスにより空間や時間を超える度に、少しづつ互いへの罪のない誤解を積み重ねているのかもしれない。
そして、それは結果として世界を憎しみの連鎖と悲しみの渦に沈めてるのかもしれない。

そう、人間にとって自分を守る最大の武器であり、世界を焼き尽くす一番の凶器になりうるのは「言葉」なのだから。


さてミッキーローク主演の映画エンゼルハート観ながら寝ます。
ロークさん、この映画ではくたびれた感じが非常にいい感じ。
ブラピさんのくたびれ感も好きだけど、この当時のロークさんのくたびれ感は最高(ほめてます)。


共演のデニーロさんの存在感も含め、映画では50年代のアメリカ南部の妖しさ抜群。
においたつようなブードゥー
土と血と契約
まさにハニーマン・ブルース。(注:未だにこの言葉の意味をしりません・2013/10/23)
好きな映画です。


寝れなくなるかも。


追記:サクっと寝ました。





Ⅱ:変容

さて東宝特撮映画DVDコレクション第11号「フランケンシュタインの怪獣・サンダ対ガイラ」(昭和41年7月31日公開)ですよ。

この作品は頭に"フランケンシュタインの怪獣"とついてるように、フランケンシュタインの細胞から生まれた二体の兄弟怪獣が日本を舞台に闘争を繰り広げる異色の怪獣映画です。
もちろんフランケンシュタインの細胞から生まれたといっても"怪獣"つうくらいですからね、人間サイズな訳も無く、ちゃんと50メートルくらいに巨大化しております。

が、ですな、なんつうかですな、まあ"良心を持つ山の怪獣"サンダさんも"荒くれ者の海の怪獣"ガイラさんも全身をウロコっつうかコケっつうかなんつうかで覆われてはいるんですが、何せモトがフランケンシュタイン。
したがって、やっぱり何となくお二方ともに人間ぽく、市街地での二大怪獣の迫力ある闘争も何か酔っ払いの喧嘩を見せられているような気にならんこともないですね。

もしくは(ガリバー旅行記の小人の国)リリパット国に流れ着いてしまったガラが悪い水夫二人の仲たがいのような...

とは言うものの、サンダさんもガイラさんも怪獣とはいえ、今まで僕が観てきた昭和30年代の"異形"の怪獣たちとは一線を画す不思議な人間臭さがあります。(まあ"異形"は"異形"なんですが程度問題で)

人類とは完全に別のモノから、人造人間の細胞から生まれたモノへと徐々に人類に接近してきています。立ち位置が変化してきています。そこで一体何があったのか?

そうなんです「サンダ対ガイラ」が公開されたのとちょうど同じ昭和41年7月17日にテレビではある革命が起こっていたんです。
「ウルトラ作戦第一号」、光の国から宇宙怪獣ベムラーを追ってあの巨人が地球へ飛来していたんです。今後、この巨人とその兄弟達は"怪獣物”の定義を根本から覆していきます。そしてその影響は映画にも。

正直「サンダ対ガイラ」は一般にはあまり顧られる事のない作品ですが、昭和29年の「ゴジラ」から続いてきた"怪獣"映画と昭和41年の空想科学テレビ番組「ウルトラマン」をつなぐ、または分水嶺たる重要な作品なのかもしれません。
決定的な変容の瞬間を記録した"エポックメイキング"な作品なのかもしれません。




書いてはみましたが

実は「サンダ対ガイラ」のDVD、まだ発売されておりません。
したがって観ておりません。人生で観た事ありません。前回のDVDに収録されていた映画の予告編と七行くらいの次回予告を読んで書きました。

いえね、全く作品を観ないでも如何にも観たように書けるかな?と思ってね。


そういえばフランケンシュタインってのは人造人間を作った科学者の名前で人造人間の名前ではないらしいですね、と書いてみたら東宝特撮映画コレクションのファイルの作品ラインナップのトコで昭和40年公開「フランケンシュタイン対地底怪獣」つうのを発見。
フランケンシュタインの細胞ってなんのこっちゃ?と思っていたら、どうやらアッチ(本家?)は無関係でコッチのフランケンシュタインさんから細胞拝借したんでしょうな。

もちろん詳細は調べません。だって事前情報は楽しくないもん。




Ⅲ:サンダ対ガイラ

何時も斬新なクライマックスで楽しませてくれる東宝特撮映画、それは「サンダ対ガイラ」も例外ではありません。

東京市街地で終わりなき兄弟喧嘩を繰り広げるサンダさんとガイラさん。

実はガイラさんはサンダさんの千切れた細胞が増殖・成長して誕生したもの。
つまり下手に両者に攻撃を加え体を粉々に粉砕すると、その細胞すべてがサンダさん(は良い人だけど)やガイラさんみたいな身長25~30メートル(でした)の悪質な酔っ払いに成長する可能性があるのです。

したがって撃退するためにはその体すべてを確実に焼き払わなければならず、市街地では殺獣光線などの秘密兵器を駆使した自衛隊の攻撃も鈍りがちです。
そうこうしている内にお二人はもつれ合いながら東京湾へとなだれ込み、戦い続けながら外洋へと消えていきます。

はたして賢兄愚弟な兄弟喧嘩の行方は!?
人間を食いもんだと認識してしまった愚弟ガイラさんに餌場と狙われた関東人民の運命は!?





その時


それまでの話とは一切無関係に


何の脈絡もなく


突如、海底火山の大噴火が発生!!


サンダさんもガイラさんも仲良く巻き込まれましたとさ。これにて一件落着。



ん~これはどんな感じですかね~

例えば時は戦国、処はパラレル日本。
天下統一の野望に燃える駿河の太守今川義元さんは四万の兵を率い京師に己の旗を立てんと駿府を出立。
まずは邪魔な尾張の小大名織田家を一息に粉砕しようとします。

滅亡の危機に瀕した織田家の若き当主信長さんは乾坤一擲の大勝負、義元さんの本陣への奇襲を敢行することを決意します。
しかし、この世界の義元さんには隙がありません、天候も崩れません。
そうこうしている内に織田の軍勢は各地で敗北。
信長さんも清洲城に篭城することに。

はたして天下の行方は!?
信長さんの運命は!?





その時


それまでの話とは一切無関係に


何の脈絡もなく


突如小隕石が義元さんの本陣に落下!!


義元さん共々その軍勢の主力は隕石の爆発に巻き込まれましたとさ。これにて一件落着。


みたいな。


・・・おい、そこの君、そうだよ、君だよ。

こう書くと「バカバカしい、どんだけご都合主義だよ!!」と思うかもしれないがちょっと待つのだ。
"事実は小説よりも奇なり"とも言うけれど、歴史は人間の想像力を凌駕した事実で溢れているではないか。

誰が「そこで絶対に海底火山の爆発はない・隕石の落下はない」と言えるのだ。
そんなこと絶対に在り得ないと言えるのだ。

そうなのだ、この「サンダ対ガイラ」のあまりにも唐突なラストシーンは小説よりも奇な事実への人間の想像力の挑戦なのだ。
現実世界への、神への挑戦なのだ。

事実を人間の想像力で凌駕しようという試みなのだ。志なのだ。ああそうに違いないともさ。
もちろん、当たり前に適当だけど。




Ⅳ:シーン

なんでンなこと思ったのかはわかりませんが、ある日本映画を自分ちで観てて、ふとそのシーンごとの時間を計ったんです。(注:映画ケイゾクです・2013/10/23)
カットごとではなくシーンごとの。

そしたら3分だったか4分だったか、正確な時間は定かでないですし、ある程度の時点で飽きて止めましたが、けっこうずっと同じ使用時間でした。
これって普通なんですかね、3分、3分、3分、3分・・・みたいな感じでずっとシーンをつなげていくのは。

それで、ある時点で、いきなりその間隔を2分とか1分半とかにして、感覚としてのスピーディー感を際立たせたりするんですかね。




Ⅴ:アドルフに告ぐ

手塚治虫さんの「アドルフに告ぐ」。

アドルフ・ヒトラーの出生の秘密を軸に、三人のアドルフが織りなす数奇な運命を描いた歴史大河漫画です。

が、僕はあまり好きな作品じゃないです。
なんつうか話のスジの都合があまりに良すぎる気がして。

もちろん、アドルフ・ヒトラー等実在の人物も出てきますが、ほとんどの主要登場人物は手塚さんが創作した人物です。
その人物達をどう動かそうが、創作者の手塚さんの勝手でしょう。
が、それでも何か、僕は読んでてひっかかります。なんつうか、必要な時に必要な人物が登場し、その人物が物語的に不必要・邪魔になったら即退場(死亡とか)つう感が否めないからです。

まるで均整がとれた美しい化学式をみているようです。
手塚さんの"天才"が「完全なる世界」を志向してしまうのだろうか、と、思ってもしまいます。

人の世から混沌を消す、これは人の傲慢でしょう。




Ⅵ:no religion

僕は誰か他人を「尊敬」することはありますが、「崇拝」することは決してありません。

僕が生まれる前に亡くなった祖父は僧侶でしたが、おそらく僕個人の密かな考えですが、この祖父と亡くなるまで市井の一社会主義者だった祖父、両方の”思想”ではなく”性質”をその子孫の中で一番強く受け継いだのは僕だと思います。

で、僕は人生の中で何も「信仰」は持てませんでした。今後も持つことはないでしょう。

持たないと不幸になるぞ!こうしなきゃ幸せになれないぞ!というありがたいご助言には、僕はそれを自分の意思で選び取るという範囲において、人には不幸になる自由もあるでしょ?と答えます。
たいしたことじゃない。気にするな。それよりも僕がこの世で一番醜いと思っている、他人の精神への強力な支配欲をもちっと君は隠したほうがよくないかい?だだ漏れだよ。と、思います。

もちろん、短い言葉で、短くなくても、僕が持っている”言葉”で、誤解なくソレを語る自信はありませんが、僕は「信仰」を否定しません。
だって「何で日本は変な事件ばっかり起こるんだ」と聞かれて、思わず「No Religion」と答えてしまった人間です。

まあ僕は人間は死ねばそこまで、一切は"無"という考えが強い人間かもしれません。

でも、あくまで僕の中だけでは、何の矛盾もなく、ご先祖さん、つうても具体的には祖父母ですが、祖父母の魂の安息を願いますし、祖父母の魂に「護ってください」とお願いをすることもあります。

何の矛盾もありません。




Ⅶ:人には不幸になる自由もある

たしかに僕は自分の意思で自分が不幸になる自由を持っているとは思うけど、誰のことも僕が僕の意思で不幸にする自由を持っているわけがない。




Ⅷ:親愛なるキティへ

もともとね読んだことなかった気もするんです。

でも確か僕が子供の頃、母親が作品を朗読したのをテープに吹き込んで、それを聴かされていた気はするんです。
だから”親愛なるキティへ”とかのフレーズは母の若い声で今でもぼんやりと覚えているし、何となくのその作品の雰囲気は僕の中に残っているんですね。

「アンネの日記」の話なんですけどね。

で、今回その”完全版”つうのを読みまして、あれ?と。
こんなんだったっけ?と。

これだったらうちの母も朗読してテープに吹き込んで、幼い子供に聴かせようとはさすがに思わなかったでしょう。

もちろんこの”完全版”だってアンネさんがお書きになったオリジナル(ご本人による推敲とかテキストは何種類かあるみたいですね)そのものではなく、現代の読者が読みやすいようにある程度の編集はなされているようです。
それに、僕がわりとしつこくいっている”翻訳”も当たり前に僕の前に横たわっています。

んで、この”完全版”は、アンネさんがお書きになった性についてのくだりが話題になることが多い気もします。
僕もそこに興味がないといったら大嘘になりますが、でも、それはたんに、今より少し前の時代にアンネ・フランクという名前の女の子がこの世界に本当にいたというだけの話だとも思います。

お話の中の作り物の女の子じゃなく、1929年6月12日にフランクフルトで生まれ、1945年の3月初頭頃にベルゲン・ベルゼン強制収容所で殺された、一人の聡明で勝気な女の子がいたというだけの話だとも思います。


その死因は病死かもしれません。
でも僕は医者でも役所の役人でもないですからね。
そりゃ「殺された」って言いますよ。


でも僕は、アンネさんがアンネさんであり、僕が僕であるのは”たまたま”で、僕がアンネさんであり、アンネさんが僕であっても、殺す側が殺される側で、殺される側が殺す側であっても何もおかしくはないともちょびっと思ってしまいます。

が、これは神を持たない僕のたわごとですかね。

我が我であり、彼が彼であり、我が殺す側であり、彼が殺される側であるのは、我の神は正しく、彼の神は偽者だからだ、永遠に入れ替わる事はない、という想いが結構世界中に充満している気もします。



Ⅸ:one world

地球人が人種・宗教・文化の壁を越え、「地球人」という一つの視点に立てるのは何時の日のことになるのでしょう?

やっぱり対立軸が出来たとき?
そのためには相手が必要だね。

あれかな?それこそ外宇宙の異性人との接触に成功した時や、地球から火星とかに大量移民し、そこで火星人として地球から独立した時に、はじめて「地球人」という視点を人類は手にする事ができるのかな?


でもそうして手に入れた「地球人」なんて、今の「日本」や「アメリカ」となんもかわらんね。

the popular literature

There was a system called the imperial examination. (科挙)
It starts in the era of the Sui dynasty and lasted until late of the Qing Dynasty.

Every man were able to exam this test.
And if they pass its test,they were able to become the government officials of the dynasty.

"I want to render great service for the people.
If I pass this test,its dream come true."

All persons who aspire to politics.
They aimed to pass this test.

Note:The Sui dynasty. (581AD-619AD)
Imperial examination. (until 1905AD)

Therefore this system does not exist in the era of the Han dynasty.


・・・・・・・・・

 
But there is a period in which this imperial examination was abolished. 
It's early in the Yuan Dynasty. (1271AD-1368AD)

The Yuan Dynasty is a dynasty by the Mongols.
In short,it was part of the Mongol Empire originally.

First emperor Kublai of the Yuan Dynasty.
At the same time,he was fifth emperor of the Mongol Empire originally.
Mongol Empire was divided officially into his reign.

By the way,before the conquer China,they did the western expedition of the Eurasian continent already.

Islam and Christ.

So they had touching excellent culture and system different from China already.
With it,at the time of the conquered China,Bureaucratic organization with a focus on people in the west seems to have existed.

As a result,slighted of political system of China by the Yuan Dynasty.
It seems to have existed.
(Especially its initial.)

Note:Although write by memory.
Empress of Kublai might have been Christians.


・・・・・・・・・


Piece of entertainment for the masses.
This period was also a time when many its works were produced.

The popular literature.

It seems there was a little neglected until then.

Because persons who have literary genius.
All of them aimed to passing the examinations imperial examination.
Talent of a writer.
It was a key element of this test.

"My talent should be used for politics of the dynasty."
Such recognition seems to was strong.

But its way was cut off.

Therefore,their talent.
It began towards the popular literature.

There seems to be a situation like this.

Wednesday 23 October 2013

怪獣、ロボット、オバケ、が好きです

Ⅰ:rock'n'roll suicide (you're not alone)

みなさんも、たまに人にこう聞かれる事ないですか?
「何かおすすめない?」と
映画であったり、テレビ番組であったり、小説であったり...色々で。

まあそれが古くからの友人の場合はいいのです。どうとでも答えられます。

問題は、まだ友達ともいえない、知り合って間もない人の場合です。

そんな人と何かのはずみで二人きりになり、無言が続き、ちょっと気まずい雰囲気になった時、とりあえず場をなごませる為にも映画の話とかしたら思いのほかウマがあい、話も盛り上がりめでたしめでたし・・・なんて割とある話だと思います。

そう、ここまではいいのです。

問題はその後。

必殺の一言。

「ねえ、何かおすすめの映画ってない?」

はいきた!光ったよ!今、君の目の奥がキラッと光ったよ!
実は光ってなくても脳内補正で光ったことにしちゃうよ!

この野郎、俺がそれにどう答えるかで俺という人間を測るつもりだな?

ちゅくしょう、なめられてたまるか!

さてどう答えるか?素直に「花より団子」が面白かったと答えるか?いやいやそれはない。

菩提樹の下で悟りを啓いたお釈迦さまから那由他の320京乗くらい離れた俺には、そう答えた時に相手の口元に浮かぶであろう微苦笑にはとても耐えられない。
だいたい微苦笑浮かべてなくても脳内補正で浮かべたことにしちゃうしな!

こんな屈辱、却下じゃ。

では、どうする?

「戦艦ポチョムキン」とかどうだ?
おいおい、俺も随分前に見たきり内容なんか覚えてないぞ。第一、相手引かないか?いや、それよりも、もし相手がこの映画を見てたらどうする?日本の映画好きは怖いぞ。「お前そんなん観んなよ!」てのまで平気で観まくってるぞ。話にのってきたらどうする?内容知らんことばれたらどうする?

「いやぁ~この映画はブルジョアとプロレタリアの真の対決の世紀となるであろう21世紀にこそ評価されるべき映画だね。」

とか

わけのわからんことを呪文のように言って煙に巻くか?
それで巻けるか?あれ?相手の口元に微苦笑が・・・

こんな屈辱、却下じゃ。

では、どうする?

こまった時の「ブレードランナー」か?
いや、これはミーハーだと思われるだけだろ?
却下じゃ。

では、どうする、どうする、どうする・・・・・・・


「別におすすめってないよね。だって好みは人それぞれだしさ」




Ⅱ:AKIRA

大友克洋さんの漫画「アキラ」。
え~これは「アキラ」を読んだことない人には何がなにやらな話です。
で、一応、念のため、以下の話は僕が勝手に思っていることです。


この漫画は1986年、東京の中心で謎の巨大な爆発が起こるトコから始まります。
その爆発は非常に巨大で関東平野の地形を変えてしまうほど。
そして、その爆発を引き金として起こった第三次世界大戦を経過した三十数年後の世界、東京湾に新しく建設された人工都市ネオ東京から物語はスタートします。

そうなんです。
いろいろなオハナシの中でナイーヴに回避されていたことをこの漫画は最初にやっているんです。
この漫画の世界は「天皇」がいない世界なんです。
当たり前ですが、話の中で何の明言もなされていませんけど。

ではこの漫画は、そんな「天皇」がいない世界をシミュレートしたオハナシなのか?
いえいえ、「天皇」はちゃんといます。
僕は超個人的にこの漫画の裏テーマは「天皇・制」だと思っていました。
「天皇・制」とあやふやにしたのは、僕の中でこの言葉の定義を消化しきれていないためです。


ところで

しつこいですが、これはあくまでフィクションの中の架空の世界。
を、僕が勝手に解釈したもの。現実の現憲法下での象徴天皇と結び付けないでください。

三島由紀夫さんが言うところの「天皇」と「昭和天皇」はまったくの「イコール」ではない!と同じ感じです、たぶん。

で、話を戻しまして

そうなんです。この漫画の中には「天皇・制」はちゃんと居(在)るんです。

アキラ・大覚アキラ様として。

僕は確実にアキラとは「天皇・制」のメタファーだと思います。


アキラ。1986年の謎の巨大爆発を引き起こした者。超絶的な破壊能力をもった超能力者。
コールドスリープから目覚めた後、その絶対的な能力により、またそれを利用しようという扇動者により、民衆に神格化された存在。

しかし実際のアキラは喋りもせず、無表情で、いっさい自分の感情を表に出さない子供。
ただ周りの人間のいいように扱われる存在。かつがれる者。

その内面に世界を破滅させる強大な感情と力を秘めたまま・・・


で、消化しきれていない部分


僕は自分で「天皇・制」のメタファーだとはいうもののいつのかね?
大政奉還以降80年、大日本帝国崩壊までかね?帝国憲法下でのことかね?現憲法下での「天皇・制」のもつ内なる可能性かね?(漫画連載時期は昭和)、万葉な古代はどうかね?各幕府の時期も忘れずにの

そもそも「天皇」の意味性に歴史の経過による変容はあるのかね?ないのかね?変容があるとして、それは簡単にくぎれるものなのかね?もっと、言葉は悪いけどヌエ的なもんじゃないのかね?

そもそも「天皇」に「制」をつけて「天皇制」。これで万事解決。なんか語った気になっちゃうのは思考停止も甚だしくないかね?

"語った気になっちゃうのは思考停止も甚だしくないかね?"

と書いてなんか語った気になっちゃうのこそ思考停止も甚だしくないかね?


とまあ、ここまで長々と書いてきましたが、アキラ様、最終的にはその力を利用しようつう連中によってでっち上げられた、"大東京帝国"の「元首」に祭り上げられたわけだから、考えりゃ「まんま」なんですよね。

みんなわざわざ言わないだけで、そう思っている人も多いんでしょうね。

あと僕はこの文章を書くにあたって「アキラ」を読み返したりはしてないので、漫画の中のどこかに「天皇」の現在に関する記述があったら、これまでの話は全部"無し"ってことで。

といっても、例えば、これも記憶たよりであやふやに書いちゃうけど、村上龍さんの小説「五分後の世界」の”世界”みたいに、日本は治安の確保が難しくなってしまったので、皇室の方々はスイス(だったかな?)で暮らしている、みたいな設定でも無理なく成り立つ話だとは思うけど。
つまり大覚アキラを「天皇・制」のメタファーにするためには、その東京という名のつく"場"が"空白"であればいいだけなので。


ちなみに、このお話には「アキラ」に匹敵する超能力の持ち主として「鉄雄」という少年もでてきます。
「アキラ」をかつぎ大東京帝国をつくった男です。

この鉄雄君、僕の主観全開でセックスピストルズというバンドのジョニーロットンというボーカルに(髪型、でこっぱちメインで)似てます。

このバンドの代表曲は「Anarchy in the UK」

この漫画が週刊誌に連載開始されたのは1982年。まだまだ日本のアンダーグラウンド音楽シーンはパンク・ニューウエーヴが席巻していたと思います。


だから凄い昔、「この漫画って、もしもアナーキスト、もしくはパンクスが国家を作ったら?みたいなトコもあったのかなぁ」と、へらへら考えたこともありました。



おお!天皇制の話をしてたらパンクにたどり着いた。



Ⅲ:今がある種旬ですか?

宇宙戦艦ヤマト(アニメ)の無敵さの真の秘密は、波動砲などの強力な武器や、乗務員の能力の高さ、搭載機の性能などにあるわけではない、その脅威的な自己復元能力にあるのだ!
「ヤマト」を観た事ある人ならもうご存知でしょう、ガミラスとの戦闘でどれだけの致命的な被害を受けても場面が変われば何事もなかったかのようにすべて修復されている。ガミラス将兵が「せめて一矢報いよう」と自分の命をかけて与えた損害も何事もなかったかのようにすべて修復されている。戦闘中に破壊されたはずの砲塔が、同じ戦闘中に何事もなかったかのように修復され火を吹いていたりする気もする。
ガミラス星での最終決戦で、ヤマトは勝利するももうボロボロ。ありとあらゆる部位が徹底的に破壊され、ヤマトの艦低にぶら下がるようについている第三艦橋は、溶けてもげ落ちてたりもする。
しかし、ほんの数十分の話ではないのだろうか、ガミラス星を離れ、お隣のイスカンダル星に着水するころには、ガミラス人民の存亡をかけた攻撃を嘲笑うかのように、やっぱり何事もなかったかのようにすべて修復されている。艦低の第三艦橋もちゃんと生えてきている。

そう「宇宙戦艦ヤマト」とは実は当時の技術の粋を集めた単なる兵器ではなく、トカゲも真っ青な脅威の自己復元能力をもった高位生命体だったのだ!

みたいな話を書こうかな~と思ってたんですよ。(書いとるけど)

でも録画しといた「立花隆・思索ドキュメント・がん・生と死の謎に挑む」を観たわけさ。
立花隆さんは三年前に自身の身体にガンが発見されて以来、徹底的にガンの取材をされています。
この番組はその立花さんの取材を追ったドキュメントです。

その中に京都大学の山中伸弥教授のお話がありました。さまざまな臓器を再生するといわれているiPS細胞を世界で初めてつくりだされた方です。
このiPS細胞はイモリなどに備わっている再生能力と近いものだとか。
しかしiPS細胞は正常な遺伝子に四つの遺伝子を組み込んでつくられたもので、そのうちの二つはガン遺伝子、そしてこのiPS細胞は身体で育つうちにガン化するものが多数存在すると。
人間に生を与えるiPS細胞と死を与えるガン細胞は非常によく似ているもので、山中さんは「人間にイモリのような再生能力が備わっていないのはガンを避けるための進化の過程での選択の結果ではないか」と考えられています。

「再生というのはガンになるのと紙一重」
「高い再生能力を持っているということは同時にガンができやすいということなんじゃないかな」と。


あれ?再生能力の獲得は退化か?退化という進化もあるのか?
iPS細胞。個体自身の能力として再生能力を持つのではなくてもそれは「種」としての時間経過の中では進化の内なのか?それともアカシックレコードはずれちゃうのか?神さま拗ねちゃわないか?

でも石だか木だか火だか水だか知りませんが、人類が初めて道具をつかうようになったことと、iPS細胞は意味的には何も変わらないのかな?


え~「宇宙戦艦ヤマト」のラストシーンで、ヤマトの総乗組員数114名。生存者67名。戦没者47名。というテロップが出ますがそんなんですむか?もっと戦死しとるような・・・

そう「宇宙戦艦ヤマト」の乗務員のほとんどは実は人間ではなく、当時の技術の粋を集めたレプリカントだったのだ!

と、言い始めるか。




Ⅳ:あのう

これまたよく言われてることなんでしょうけど、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を観てたんです。
で、映画の中にコンビニで主人公達が買い物をしている横で「主人が私と子供だけでも疎開しろっていうんです」みたいな話を女性達がしているシーンがあるんです。
これって「ゴジラ」とかあのへん(昭和30年前後)の怪獣映画へのオマージュですかね。



Ⅴ:前世

まじめに、ふまじめに、頼んでもないのに勝手に、皆さんも人生で一度は「うらない」をする(した)ことがあると思います。

そういう「うらない」の中に、あなたの前世は~みたいのがありますね。

さて、ここからフワフワTIMEです。

ちょこっとネットで世界の人口の推移を調べました。

紀元前7000~600年 500万~1000万人
西暦元年 2億人~4億人
西暦1800年    8億人~11億人
西暦1900年    15.5億人~17.6億人
西暦1960年    30億人
西暦2000年    60億人    
西暦2050年    93億人(推定)

だそうです。

ま、生まれ変わりがあるとしてですよ
僕は数字弱いんですが、こんなに急激に人口増えて、生まれ変わる魂足ります?

「リトルブッダ」って映画では一人の魂が三人の子供たちに生まれ変わってましたが。

それこそ西暦二千年代も後半戦に入ると、アナタの前世は・・・

「ひかりごけです」とか
「ゾウリムシです」とか
「ジャポニカ学習帳です」とか
「野に咲く蓮華草です」など(僕これ希望)

そうならないと魂足りなくないですかね?


ましてや「人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって半世紀がすぎる」くらい人口爆発しちゃうと、もう生まれ変わりを司るだろう神様も怒っちゃって、スペースコロニーや遊星爆弾を地球に落として無理やり人口調整したり

死海文書つうフリーソフトを使って、人類補完計画なんて起こさせて、人類を一なる物に変換して、人類の運命を司る仕事放棄しちゃったり...




Ⅵ:transnationalspirit

もう40年も前に亡くなられた方なんですけどね、三島由紀夫さんという小説家の方がいたんです。

これまでも、これからも、夏目漱石さんや芥川龍之介さん、それに樋口一葉さんらと共に、普通に国語の授業とかで名前が出てくる方だと思います。

ただ、三島由紀夫さんはその小説家としてのたぐいまれな文章技術とは別に、世の中に対する考え方にもかなり独自なものがある方だったんですね。
だから三島由紀夫さんは、ほんとうにあらゆる意味で素晴らしい才能をもった小説家なんですが、そこのトコを”臭い”と感じて、お書きになった小説の内容以前の段階で毛嫌いする人も結構いるんです。全否定する人も結構います。

ん~

これはどんな感じかな~

あっ!そうそう「レバニラ炒め」ってありますよね。
非常に美味しい上に栄養も豊富な、ほんと言う事ない料理です。
でも僕はあんまり食べることないんです。実は僕はレバーが苦手で、正直嫌いで、「レバニラ炒め」がほんとうに素晴らしい、みんなに愛されている、栄養満点の料理だってことは頭ではわかっているんですが、どうしても手が伸びないんです。さすがに料理を全否定はしませんけど・・・

ん~こんな感じかな?

ちょっと違うかな?

え?三島由紀夫氏とレバニラ炒めを一緒にするな?
馬鹿言っちゃいけないな。今後、遠い未来”日本”という国がどうなってるかは一切の予断を許さないけど、”日本”という文化体系が翻訳や誤解であっても残っているかぎり、それは永遠の命を持つだろうという意味において、三島由紀夫氏とレバニラ炒めは僕の中で等価です。

ちなみに僕的には、三島由紀夫さんは”世の中に対する考え方”つうトコはひとまず横に置いといて、単純に作り話、本当に素敵な嘘をついてくれるってトコで好きです。

ま、つうても、僕は三島さんのお作をそんなにたくさん読んだわけではありません。
それに三島さんは作品のモティーフを現実社会に求めるコトも多く、実際にプライバシーの侵害で(たしか)訴えられたコトもあるはず。

が、そうであっても、やっぱり僕はその作品は現実とはまったく無関係の、あくまで三島さんが何とか己の中にある「美」を完璧に表現して、そしてそれをこの現実世界に表出させようとして格闘したモノだと思います。「醜」を書くことも、結局は「美」を書くことでしょう?輪郭をはっきりさせることでしょう?
もちろんモティーフにされた方はたまったもんじゃないでしょうが・・・


ありゃりゃ?前口上が長くなっちゃった。しょうがない本題は駆け足で。
その三島さんがお書きになった「文章読本」つうのがあるんですね。

んで、その中で

「皆さんに、文学作品のなかをゆっくり歩いてほしいと申します」

「もちろん駆ければ十冊の本が読めるところが、歩けば一冊の本しか読めないかもしれません。しかし歩くことによって、十冊の本で得られないものが、一冊の本から得られるのであります」

「小説はそのなかで自動車でドライブをするとき、テーマの展開と筋の展開の軌跡にすぎません。しかし歩いていくときに、これらは言葉の織物であることを露呈します」

・・・・う~ん、ですね。

いやいや、僕は基本的に読書だけは「サーキットの狼」ですからね。BUI!BUI!すっ飛ばしますからね。
つうか、このご本を読んだのは結構前なんですが、その時もこの「ゆっくり歩いてほしい」という文章を法定速度200キロオーバーくらいで読んじゃいましたからね。そりゃ、後には何にも残りませんよ。

この三島さんの言葉は本当にその通りだと思います。実は僕の内心の引け目にもなっています。

ま、ただですよ、僕は一応一回読めばかなり不正確ではありますが、わりとその内容が頭に残るんですね。んで、こうしてそれが必要になったとき、あらためてそれをひっぱりだしてくることはできるんですね。大概「あれ?どこ行った?」となりますけどね。


そうそう、谷崎潤一郎さんの「文章読本」とかも最近ひっぱりだして読んだんです。
もちろん、ちっとは文章上手くなるかな?と、おもいっきりスケベ心で読んだんです。

でも当たり前に何も変わりませんね。あんまり関係ない。
まあ、それは感受するこちらの能力不足が原因なんでしょうけど。


どちらにしろやっぱり僕は僕だし、僕が僕であるかぎり、僕は僕の文章しか書けないし。
もし僕が死んで、身体を無くして魂だけになって、んで「ちょっとあっちの魂足りないから悪いけど生まれ変わってくれない?」と言われて現世に再登板となっても、魂が僕であるかぎり記憶をリセットしてもそれは僕だし、魂に国境は無いし、時間は無いし、何もかわらないし。


で、急転直下、やっぱり、どんなに拙くても、自分の言葉で書いたほうがいいよね。相手に届くよね。これ不思議。



Ⅶ:めぐりあい

「おかえり」

と言ってくれる人がいるから人は生きていける。

か、どうかは定かではないですが、人はそれぞれですし、ま、悪いもんではないと重い升。なんじゃこりゃ。思います。

そういえば昔「僕にはまだ帰れるところがあるんだ。こんなにうれしいことはない」とのたまわって、人はわかりあえるという希望とともに、日本全国のちびっ子どもの胸を熱くさせた無敵の大量殺戮者がいました。僕も熱くしました(機動戦士ガンダムの話ね)。

あ、ちなみにロボット・怪獣・おばけ好きは僕の一生モンの病気です。

で、ただちょっと、子供心にも「主人公達に殺された沢山の人達にも帰る場所はあったんじゃないのかな?」と思っちゃうことはありました。
「おかえり」と言ってくれる人がいたのではなかろうかと。
もちろん他のアニメでも。

でも「ロボットアニメで人が死んではいけない」みたいに、やみくもな規制はやめようね。
すべてのちびっ子は、か、どうかは定かではないですが、人はそれぞれですし、まあほとんどのちびっ子は現実と空想の区別はついてますよね。

逆に奇麗事のみで構成された、ほんとに素晴らしすぎる内容のアニメばかりをちびっ子にみせたところで、すべてのちびっ子は、か、どうかは定かではないですが、人はそれぞれですし、まあほとんどのちびっ子は現実と空想の区別はついてますよね。



おかえり

a fictional character

Taoism.
It is one of the typical Chinese philosophy which "Lao Tzu(老子)" is a founder.

Taoism and Confucianism.
These two would be typical Chinese philosophy.

According to a legend,Lao Tzu is said to have been senior of Confucius.
But he unlike Confucius, his career is not clear at all.

"Lao Tzu is a fictional character."

Such a theory is also a general.


・・・・・・・・・


By the way,person who is called the founder of Taoism is exist in addition to the Lao Tzu.

His name is "the Yellow Emperor (黄帝)".

Kings and nobles of ancient China.
The Yellow Emperor is said to be the ancestor of them all.

Yes,he is a legendary completely.

Folk beliefs in a variety of ancient China.
Prototype of Taoism is a collection of it.
It is also said to be so. 


・・・・・・・・・
  

There is a book called "Lao Tzu".
It is book which is said to be Lao Tzu wrote.

However,as mentioned above, real Lao Tzu is not clear.
 
"The peace by virtue(or courtesy).
Confucianism aims to it. 
 
But human is powerless against laws of the universe. 
Yes,there is a limit to human intellect after all.

Cheeky ambition of such human. 
It is disturbing the world after all.

Be surrender to the law of the universe.
Pious attitude toward law of the universe. 
That's the only way to world peace." 

Such thought was present widely at that time together with Confucianism.

Book which did culmination of it.
It's Lao Tzu.

It seems that is said to be so.

Lao Tzu published as a book after of era of Mencius.
It seems that is also said to be so.

Note:Mencius (372BC‐289BC)
Confucius (551BC‐479BC)

Tuesday 22 October 2013

重力シンパシー

Ⅰ:美人薄命

美人薄命。
佳人薄命。

実際の言葉の意味はおいといて、僕がこの言葉を聞いて、文字を読んで、ぱっと連想するのは中国の歴史上の女性ですね。
項羽に愛された虞美人とか、玄宗皇帝をその魅力の虜にし、結果傾国の美女となった楊貴妃とか。
その数奇な運命に翻弄された女性の人生の悲劇性は強く心を打ちます。

もちろん民衆的視点という見方をすれば歴史は違った風景を見せ、違った感慨も浮かぶだろうけど、ここはロマンチックにいこうじゃないですか。大丈夫です。ロマンチストは非常に異常に鬱陶しくはありますが、それ自体、別に犯罪ではありません。

そうそう、世界史を広く見渡せばクレオパトラさんやマリーアントワネットさんもいますね。

ただクレオパトラさんやアントワネットさんの人生の結末は確かに悲劇的かもしれんけど、僕的にはわりとこのお二人は"人生やったった感”があるんですね。
あんまり薄命な感じがしないんです。

「我が人生に一点の曇りなし!」というか
「女子の本懐」というか

自分の意思で生き抜いた。
よく生き、よく死んだ感じが僕の中にはあります。
たとえ嘲笑や怒声の中、ギロチンの露と消えたとしてもです。


なら「香炉峰の雪いかならむ」の中宮定子さまはどう?

中宮定子さん。

藤原定子さん。

清少納言さんの宮仕え元の一条天皇の皇后さま。

う~ん。

儚げな感じは凄くする女性だけど。
心が清らかな優しい女性みたいだし。
あくまで枕草子を(教科書とかで)読んだ感じでは、だけどね。
ただ美人かどうかまでは・・・


がだ!!


まあなんのかんの言っても美人かどうかなんて最後は個人の"好み"ですよ。
僕には僕の"ツボ"がありますよ。
どんなに他人に「!?」と言われても"ビビッ!"ときたもんはどうしようもありませんよ!!

最後は思い込みだ!!
だから人生は素晴らしいのだ!!

という無茶なまとめで今回もスタート。



Ⅱ:貴人に情なし

「馬鹿ね!パンが無か?そいならケーキば食べればよかたい!!」

と言ったといわれるのはマリーアントワネットさんでしたか。

それを遡ること何年でしょう。
中国は晋の時代。凶作で穀物が不作になり、貧しい人達が食べる物がなく苦しんでいるという話を聞いた帝国二代皇帝・孝恵帝が「え~そんならさぁ、貧乏人は肉を食えばいいじゃん」と言ったとか。

どうなんでしょ?

古来「貴人に情なし」とはいわれていますが、生まれてこの方まわりにかしずかれた生活しかしていなかったら、まあそうなっちゃうのも当然かもしれませんし。お大名(旗本?)レベルでも「目黒のさんま」てのがありますし、落語の噺ではありますが。

本当にそういったのかな?

アイツならそういってもおかしくはないとイメージで未来永劫いいがかりをつけられてんのなら、ちょっとかわいそう。



Ⅲ:王妃マリー・アントワネット

内容はすっかり忘れてしまいましたが、ずいぶん前に一度読んではいるんですけどね。
遠藤周作さんで「王妃マリー・アントワネット」上巻を読み始めました。

これもご縁ですかね?何かここんとこ妙に本棚のこの本と目?が合いまして。
どうも「私を読め!」と言ってるみたいだと...

ま、「フランス革命史」みたいな学術書をいきなり読むより、そこらへんがスンナリ、表情豊かに頭に入ってくる気もするので、いいのではなかろうかと。

では、そういうわけで、少々、(事実上の)オーストリア女帝マリア・テレジアさんの娘としてこの世に生をうけ、現在、「万歳、我々のプランセス!」という民衆の祝福と歓喜のなか、フランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュストさんの皇太子妃として迎え入れられた、マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌさん14歳の数奇な運命の物語の中へ行ってまいります

はい、まだ全然序盤です。



Ⅳ:佳人薄命

でも考えてみれば、数奇な運命の物語の中にしか佳人薄命は存在し得ないですよね。

そうそう、アントワネットさんが結婚前にお母さんのマリア・テレジアさんにいつも繰り返し言われていたという

「いいですか。仏蘭西に行ったら、皇太子妃として次のことだけはお守りなさい。」

「政治に干渉しないこと」
「他人に余計な世話をやかないこと」

「この二つさえ守っていれば、あなたは誰からも憎まれません」

ての。

もちろんこれはあくまでも長いこと相争い続けてきたかつての敵国オーストリアからフランスへ、両国の末永い友好の象徴としてやって来たプランセス(て小説上の表記、ちなみに)の心構えっつうことでしょうが。

この言葉は作者である遠藤さんの創作ですかね、やっぱり。


ただマリア・テレジアさんはその生涯で16人のお子さんをお産みになったのかな?
で女子としては末っ子になるアントワネットさんのことは、アントワネットさんがフランス皇太子妃となってからも本当に心配で、度々その日頃の行いを諌める母親としての手紙をフランスに送ってたみたいですね(現存してます)。

もちろんそこには母親としての娘への愛情以外にも、というかそれ以上に、両国の(政治的)友好の確保という政略的意味合いがあったのでしょうが。

遠藤さんの創作かもしれないけど、上の言葉も早い話が「お前の人格ではなく、お前の存在、ただそれだけがオーストリアとフランスの友好には必要なのだ。お前はフランスに行ったら人形としてただただニコニコしていればいいのだ。それ以外の行動は一切するな」てな感じですし...


う~ん、でもそれこそが母親の愛情かなぁ。
何と言っても女帝マリア・テレジアですからね、政治や宮廷の化け物のことは誰よりもわかっていたでしょうし。

選ばれた者の不幸。

それでも何とか幸せになって欲しいと。
そのためにも人形でいろと。



Ⅴ:臨界点

世の矛盾が臨界点を越えようとするとき、どこまでも善良な絶対権力者は、それ自体が罪なのでしょうか?

つうか、当時のフランスの財政の破綻はアメリカ独立戦争に肩入れしたとこから?
それとも根源的にもういろいろシステムとして無理がきてたの?

適当に書くけど、当時欧州で一番文化的に爛熟していたフランスだからこそ、その矛盾が一番早く表面化してきたの?耐えられなくなったの?

で”人道的な処刑方法”ということでギロチンの開発を最終的に裁可したのは、後にそれで自身が処刑されることになるアントワネットさんの旦那さんルイ16世さんつうのは史実?

そもそも統治システムはどんなんなん?
政治家はいたの?官僚のみ?全部貴族?
政府と王の関係は?軍と王の関係は?貴族と王の関係は?民と王の関係は?「朕は国家なり」って方もいたけど王によってそのパワーバランスは違うの?それともあくまで法遵守?そのあげく身動きとれず、これといった改革もできず、矛盾は臨界点を越え、おびただしい血を流す事になる革命へとなだれ込んでいったの?

んで、それはよかったの?


というわけで、遠藤周作さん「王妃マリー・アントワネット」下巻へ。

マリー・アントワネット・ド・フランスさん。ん?現在彼女はお幾つだ?の数奇な運命の物語もいよいよ革命の渦の中へと!

かな?



Ⅵ:わたくしたちは最後まで、心をちゃんといたしましょう

革命後、狂気と殺戮と暴力の紆余曲折を経て、国民議会により一市民として”タンプルの塔”に幽閉された、ルイ16世国王御一家。

「わたくしたちは最後まで、心をちゃんといたしましょう」

「これはもう運命だと考えるようになりました」

「わたくしたちが国王であり王妃なら、立派に、潔く、この運命を引き受けようと、美しさと優雅とを・・・守り・・・」

と、心に秘めたプラトニックな恋の相手、スエーデン貴族フェルセン伯爵による、これが最後の機会になるだろう救出計画を自ら断わったアントワネットさん。

いよいよ物語りも佳境に入ってまいりました。

はたしてその行き着く先、罵声と嘲笑の断頭台に僕は「人生やったった感」をみることができるのか!?

ご期待は、請いません



Ⅶ:Tutto a te me guida(なべては我をおん身にみちびく)

死が続いております。

あくまでパリの一市民、ルイ・カペーさん。

「人は罪なきものとしては王たりえない」と言うのなら、ルイ・カペーとしてではなく、フランス国王ルイ16世として処刑すればいいのに。

この善良すぎた小太りの男を。

もちろん、それはどちらにしろ形式的なものだし、そもそも僕の知る情報は現在この小説のみだけど。


1792年8月10日 革命広場にてルイ・カペー処刑。



Ⅷ:革命

『レボリユシオン(革命)とはラ・ゲール(戦争)なんだよ』

『戦争である以上、相手を情け容赦なく倒さねばならん』

『あれは反革命の象徴なのだ。元国王のルイ・カペーが処刑されたあとも、仏蘭西の国内には依然として反動派、王党派の連中が蠢動している。それはカペーの家族がまだ生きているからだ』

『正義遂行のために殺すのだ』

『私は昔、医者だった。だから体全体のためには腐った足を切らねばならぬことをよく知っている。そう、腐った足はギロチンにかける必要がある。』

『医者は血を怖れていては手術はできんよ』



Ⅸ:永遠の愛

ルイ・カペーさんの処刑後「どんな事態になりましょうとも、わたしはあなたの妻であり仏蘭西の王妃だった気品を失いませぬから」と呟くカペー未亡人とその家族を嘲笑うかのように、彼女達のもとには次々と過酷な現実が襲いかかります。

"元王子ルイに自分の血すじという観念を失わしめるため、その家族から遠ざける"という巴里公安委員会の命令が発令。

この時九歳の、残された家族が幽閉されているタンプル塔からのカペー未亡人単独での脱走計画も、彼女が「息子なしでは」と拒否するほど彼女の心の最後のよりどころとなっていた最愛の息子は、永遠に彼女の元から引き離され、タンプル塔の別の場所でシモンという靴屋の夫婦に預けられます。

「みんな平等なんだ。王さまも百姓もありはしない。仕事はちがっても、人間は平等さ」
「お前の父親や母親はみんなに悪いことをした。だからお前の本当の父親は俺たちだ」

それからしばらくして、この子と一緒に遊んでいたドージョンという役人は「あの淫売、まだギロチンにかけられないのかな」と、この子がカペー未亡人が幽閉されている塔を見上げ、いまいましげにそう言うのを聞くことになります。

のだ。



Ⅹ:カペー未亡人

彼女は死なねばならない

憐れで可憐な大衆に時代は変わったということをはっきりと示すため、長きにわたりフランス人民を苦しめてきた悪の象徴として、古き時代の汚物として、すべての矛盾を独り抱えこんで、彼女は死なねばならない。

そう、それは最初から決まっていたことなのだ。
奇跡など何も起こらない。
彼女は死なねばならない。

彼女を処刑するためだけの裁判。
彼女を辱めるためだけの裁判。

これは作者である遠藤周作さんの創作ではなく事実らしいですが、その裁判の中で、彼女は(永遠に引き裂かれた)我が子に対して性的虐待を加えていたという嫌疑をかけられています。
そう自分の子(九歳)が巴里市長や検事に告白したと、革命裁判所の大法廷に詰めかけた大勢の傍聴人の前で聞かされます。

それを聞き激昂する傍聴人に対し、彼女はただ毅然と「私は・・・ここにおられますすべての母親に訴えるでしょう」「母なるものに加えられたこのような疑いは自然がそれを拒むからです」

この気高い声を聞くと、それまで罵詈雑言を彼女にあびせかけていた女性達はそこに自分たちと同じ一人の母親の姿を見、磁気にうたれたように黙り込んだそうです。


が、彼女は死なねばならない。


「刑法第二部第一項第一条に即し国家反逆罪により死刑に処す」
裁判が開かれる前から出ていた判決により、彼女は彼女の夫が処刑された同じ場所でギロチンにかけられることになります。

1793年10月16日。

数えきれないほど大勢の見物人、それらに菓子や水を売る者、これが真実だとカペー未亡人がいかに淫らな女だったのかを書き綴ったパンフレットを売る者。
そう、まるで祭りのような一日。祝祭空間。


両手を後手に縛られ、ギロチンの刃の邪魔になると髪を無造作に短く切られ、古き時代の汚物に相応しく肥桶用の荷車に家畜のように乗せられ、「淫売」「裏切り者」「もうすぐお前の首はなくなるぞ」、かつて彼女に「万歳、我々のプランセス!」と叫んだ同じ人々からの罵声、嘲笑、好奇で残酷な目を一身に受けながら、彼女は処刑場所である革命広場へとゆっくりと進んでいきます。


12時15分。
拍手と喚声が渦巻く中、処刑人の助手が彼女の首を高く掲げて断頭台の周りをまわり、すべてが終わりました。


んで「人生やったった感」。

最後の瞬間に彼女の胸に果たしてそれがあったのかどうか?ということに関しては「僕にはわかりません」と言うことで。
そんなんね、わかりませんよ。本人でもないのにわかるわけないじゃないっすか。

え~結論は「知らんがな」ということで。


あ、そうそう、アレはさすがに遠藤さんの創作ですかね。
彼女の魂を辱め、この世から抹殺するためだけの裁判の予審時、名前を聞かれた彼女は「わたくしはカペー・・・」と言いかけて止め。



「わたくしの名はマリー・アントワネット・ド・ロレーヌ・ドートリッシュでした」





XI:ラストダンスは私に

男性小説家が書かれた小説を読むと、風采が上がらない(金もない)男の主人公が、何故かヒロイン(絶世の美女!)に一方的に惚れられて、最終的に熱烈な恋に落ちたりします。
ま、現実にこういったことはない話ではないけれど、随分男に都合がいい話だなぁ、女性から見たら大笑いなんじゃないのかなぁと思ったりもしてました。

が、女性小説家が書かれた小説を読むと、「けっして美人ではないが個性的」「けっして美人ではないが人目をひく」女の主人公が、格好よく、(本当は)性格もいい男に惚れられ、最終的には熱烈な恋に落ちたりしてます。


どっちもどっちですな。


ところで「けっして美人ではないが」
これ、女性が女性主人公の小説を読むときの重要なポイントでは!!


ごめんなさい、僕小心なんであやまっときます


でも容姿に関しては、小説がもっとも適したジャンルかもしれませんね。
だって「格好よくない」「美人じゃない」って言っても、映画やドラマではたいてい演じてるのは美男美女だし、アニメや漫画でも男の方は本当に格好よくないこともたまにはあるけど・・・女性は・・・ねぇ・・・


ごめんなさい、僕小心なんであやまっときます


が!


がが!!


なんのかんの言っても美人・美男なんて最後は個人の"好み"ですよ!!
僕には僕の"ツボ"がありますよ!
どんなに他人に「!?」と言われても"ビビッ!"ときたもんはどうしようもありませんよ!!


最後は思い込みだ!!!
だから人生は素晴らしいのだ!!!

という無茶なまとめで今回もフェイド・アウト。

debt

"Sell ​​positions."

After the second disasters of partisan prohibitions,such proclamation has been issued by the government of the Han dynasty.

"It would be apocryphal."

Nobody did not believe it at first.
But this was the fact.

Positions in the government of the Han dynasty.
It was the subject of buying and selling.


・・・・・・・・・
 
 
And a system change were made accordingly.
For increasing the rotation rate of the revenue,term of the positions was shortened.

Why people buy such positions?
There was a reason of course.

For example, in the case of a provincial governor.
After pay tax of a fixed amount to the government,remainder became his revenue.

Tax revenue, bribe.
Therefore,They were able to expect a lot of money.
Along with this,price of local officials was higher than the center officials of the same status.
 
 
・・・・・・・・・ 
 
 
Positions of the center have been bought as honorary position.
Such cases there were many.

By contrast,reason for buy the local official positions.
Its purpose was make money completely.
 
"There is no money?
All right!We will loan the funds." 

Person who does not have money for buy the positions.
Financing system of state-owned to them also seems to have been complete.

Debt
It must return of course.
(Lender of debt was a dynasty.)
The interest is also generated naturally.

However,their term of office is short.
As a corollary, severe exploitation was to be done.

State of society is not deteriorated in situation like this.
It's impossible.

Monday 21 October 2013

ゴッホさんが腹を拳銃で撃って自殺をはかった、それは日本の切腹ではなかろうか?

Ⅰ:パスカル・ボフナーさん著、嘉門安雄さん監修の「ゴッホ」を読みました

ゴッホさんの生涯、とても面白く(って言い方は何となく失礼だけど)、一気に読んじゃいました。

つうても、今回僕が読んだ、触れた「ゴッホの生涯」は、著者であるパスカル・ボフナーさんが残された資料や証言をもとに再構築された、パスカルさんが思考する「ゴッホの生涯」であり、それを日本語に訳した「ゴッホの生涯」であり、また本の分量の関係上、ある程度監修要約された「ゴッホの生涯」であり、真の意味でのゴッホさんの「ゴッホの生涯」に僕が触れたわけではまったくないんでしょうが。

まあ、これ言い出したら全部そうなっちゃいますよね。

ほんとうはゴッホさんが残した作品をみるだけで、その真の意味での「ゴッホの生涯」を感じることが、触れることができる感性が僕にあればいいんですけどね。

つうても、そんなこといっても、どこまでいっても、ゴッホさんでなくても、誰であっても、その相手のことを真に正確に理解することは結局は無理で、人と人との間には何かしらの誤解は常に存在するものなのかもしれませんが。


でも、ちょっと強引だけど、何から何まで相手のことが正確に理解できる、完全に重なる、誤解も何も無いという関係を人が人との間に作れるのなら、そうであるのなら、別に何十億も人が別人格に別れている必要はないわけで、独りでいいわけで、相手のことがわからないからこそ、その相手のことをもっとわかりたいと思うわけで、僕はわかりたいと思うわけで、その先に”the beautiful one”があるのならみてみたいと思うわけで



今は先に進みましょう。



Ⅱ:要約ではある(みたいだ)けれど

この本に付録?としてついている、ゴッホさんについてジョルジュ・バタイユさんが論じてる文章「ファン・ゴッホ、プロメテウス」を読むと、遠藤周作さんが"人生の同伴者"とお書きになっているナザレのイエス、後のキリストさんのイメージと重なる感じが、僕にはちょっとありました。

え~と、ニーチェさんが「神は死んだ」つうたのは科学文明勃興いよいよ著しい19世紀後半でしたかね?
んで、ジョルジュ・バタイユさんのこれ「ファン・ゴッホ、プロメテウス」はだいたい1940年、20世紀中頃くらい?

人はやっぱり、個人でも、集団でも、自分の心の欠落感を埋めるために、それが何であれ、神なき世界にも神を求めるものなのでしょうかね。

ユングさんが神は19世紀に本当に殺されたわけではなく、人々(と言っても、それこそ意識としては"西洋に属する人々"でしょうか?東洋はユングさんの視界に入っていたんですかね?)の深層心理の奥深くに共同幻想として眠っていて、きっかけがあると復讐や破壊や暴虐の荒ぶる神として目覚めるのだ!みたいなこと言ったのも「ハイル、ヒットラー!」なこの頃でしたでしょうか?もう少し前でしたでしょうか?



 
Ⅲ:「からすのいる麦畑」(1890年7月)

と、いいますか、ゴッホさんの時代はまだ神は生きていましたか?

と、いいますか、黄金に沈む麦畑の彼方に永遠に去った彼が殺したのでしょうか?

彼が人々を堕落させ、一枚の絵に日本円で58億円という値をつけさせたのでしょうか?

とびかうカラスたちと彼は契約を交わしたのでしょうか?


と、勢いで書いてみる。




Ⅳ:小林秀雄さんの「ゴッホの手紙」を読む

「書けない感動などというものは、皆嘘である」
「ただ逆上したにすぎない」

ん?例えば「突如、言葉にならない感動に襲われ・・・」
これ、「感動」が「言葉にならない」と、ちゃんと書いてますよね。

は、さておき、ところで「書く」と「描く」。

現在の標準日本語(その他はよくわかりません)で、読みが同じ「かく」なのは、「かく」という行為が同じだから?それとも、何も無いトコに「か」いて何かを表すという結果が同じだから?

で、どちらにしろ、なぜそれが「かく」なのだ?



「愛情のない批判者ほど間違う者はない」
「(近代の日本文化が)翻訳文化などという脆弱な言葉は、凡庸な文明批評家の脆弱な精神のなかに、うまく納まっていればそれでよいとさえ思われてくる」



Ⅴ:描く

ゴッホさんの手紙の中に

『くどいようだが、ただ動作だけを狙って動作を描きたいと希った画家は少ないのだ』
『繰り返して言うが、動作中の農夫を描くこと、これが、本質的に現代的な人物画だ』

てのがありました。

つうてもオランダ生まれのゴッホさん、当たり前に日本語でこの手紙を書いたわけはなく、原文を日本語に翻訳するときにその言葉に対応するものとして「描く」という言葉を、文字を、そこにあてたわけではありますが。

あちらの言葉(フランス語を使われたんですかね?)での「書く」と「描く」は別に同じ「かく」ではないでしょうしね。
それに、これだって、"動作"それ自体が「描く」なのか、"動作"のみを「描く」ことによって表現されたものが「描く」なのかっつうことは、僕にはもう何がなにやら・・・

(注:現在2013/10/21、この文章何が言いたいのか、読み返してみて自分でもわかりません)



Ⅵ:書く

『ねえ、君はどう思う。僕ぐらい変人(エキセントリック)から遠い男はないのだよ。ギリシアの彫像、ミレーの百姓、オランダの大家たちの肖像、クールベやドガの女の裸体、そういうものの静かな正しい完璧性となると、まるで話は違ってくるのだ。そういうものに比べれば、日本人のような原始人の絵は、まるでペンで書いた文字のように見える。それは面白いと言えばじつに面白い、が完全なもの、完璧なものは、面白いどころではなく、無限性を感知させる』

だそうです。
でも、そうであっても、この人はすでにある完全なもの、完璧なものには背をむけられましたかね?



Ⅶ:小林秀雄さん自身がお書きになった、そこらへんのゴッホさんに対するお考えを、身勝手に前後の脈絡なく本から抜き出すと

「彼は、原始人の率直と単純さとで、錯綜した現代を乗り切ろうとする。」
「彼の生活態度の裡(うち)には、流行のさまざまな意匠を透過して働く、本質的な時代感覚があった。」
「絵画の命の新しい変化を、感じ取った。」
「彼の裡にあってこれに応じたものは、けっして単なる原始人の素朴ではなかった。」
「それは彼の無私の精神であった。」
「批評家の無私ではない。創造の源泉として常に信じられてきた無私である。」
「無私な創造者は、公平な批評家となることはできない。」
「普遍的なもの究極的なものに憑かれた精神は、そういう精神が照らし出すものしか問題にしていない。」
「形而上学に興味を持ってはいなかったし、キリスト教には早くから幻滅を感じていた」

というトコでしょうか。



Ⅷ:牧師を志し、そして挫折した、ゴッホさんの独白

『キリスト一人だ、あらゆる哲学者たち、魔術師たちその他の中で、キリスト一人だ、永遠の生と、無限の時と、不死こそ確実である、と断言し、平安と献身との必要、その存在理由を確言したのは』
『芸術家中の最大の芸術家として、大理石も粘土も色彩も軽蔑して、生きた身体で働いた』
『彼は生きた人間たちを作った』

つまりゴッホさんは”キリスト教”と”キリスト”を分離し、そして”キリスト”に身をよせ・・・
いや、身をよせたかったのでしょう。本当に。だって彼の人生はくるおしいまでに”キリスト”を求めている。でも、できなかった。

彼は、彼の魂をやすめてくれる(彼にとって)唯一絶対の存在”キリスト”が軽蔑した(と本人が考える)「色彩」に永遠の生と、無限の時と、不死を見、そして魂を燃やしつくした。



Ⅸ:描くを書く

『画家を、ただ画家として取り上げれば、死んで、埋められて、次の時代へ、またその次の時代へ、仕事で語りかける。それだけか、それともその他に何かがあるか。画家の一生で死はいちばん辛いことではないかもしれぬ』
『僕は自問するのだ、なぜ空のあの光った点々は、地図の黒い点々のように近づけないものなのか、と。タラスコンとかルーアンに行くのに汽車に乗るなら、星に行くには死に乗ればよいではないか』

でも天空の点々は、僕らとは違う時間の中でたえず近づき、離れ、お互いの距離を計りかね困惑している。

彼は何処かにたどり着けたのだろうか。



Ⅹ:弟であり、父であり、母であり、その手紙のほとんどの宛先人であり、彼の天才の唯一の理解者だったテオの告白

『あいつは気が変だ、と皆が言う。そんなことは、僕にはなんでもないが、母親には堪らぬことです。彼の話しぶりには、相手にひどく好かれるかあるいはひどく嫌われるか、どちらかだというような何かがある。彼の周囲には、いつも、彼に同情する人々とともに敵があった。』
『自然とかルーランのようなごく単純な人間とかを除いては、彼には静かに暮らしていける道連れがいない。彼が歩いていくところは、どこでも、彼の足跡がつくからだ。』


ゴッホさんの死から半年もたたないうちに、彼の人生を支え続けたテオさんも後を追うように亡くなります。

遠藤周作さんが「わたしが・棄てた・女」でお書きになっているように”ぼくらの人生をたった一度でも横切るものは、そこに消すことのできぬ痕跡を残す”のなら”人間は他人の人生に痕跡を残さずに交わることはできない”のなら、そして”寂しさは、その痕跡からくる”のなら、テオさんは亡くなる前にはっきりと兄の魂の不滅を確信していたでしょう。



XI:かく

『君に書き送りたいことは山ほどあるが、書こうとすると、書きたい欲望が全く僕を去ってしまう、そして僕は書いても無駄だと感じてしまう』
『純金の光を漲(みなぎ)らす太陽の下に、白昼、死はおのれの道を進んでいく』
『これを描いている僕の気持ちの静けさは、どうやらあまり大きすぎるようだ』


1890年7月27日 フィンセント・ファン・ゴッホ、ピストル自殺未遂


同29日 死去



XII:ふたたびテオ

『この悲しみをどう書いたらいいかわかりません。どこに慰めを見付けたらいいかわかりません。この悲しみは続くでしょう、私の生きているかぎりきっと忘れることができますまい。ただ一つ言えることは、彼は、彼が望んでいた休息を、今は得たということです。』

もう周知のことなんでしょうが、僕は小林さんの一文を読むまでは、テオさんの死因は単純に心労か何かだと思っていました。

「兄の自殺という荷は、テオには重すぎた。彼はオランダに帰省するとまもなく発狂し、ユトレヒトの精神病院で翌年の一月死んだ」

兄弟の希望も野心も死んだ。

しかし、兄弟の死後、世界が発見し、評価し、不滅となった永遠の"ゴッホ"とは一切無関係に、この地べたに最後まではいつくばっていた兄弟の一生は幸福だった・・・か、どうかは僕にはまったくわからないけど、少なくともよく生き、よく死んだ、それは間違いないでしょう。



0:そういえば

これも何かの縁?
てなトコで、遠藤順子さん(聞き手・鈴木秀子さん)の「夫・遠藤周作を語る」をまったりと読んでますが、小林秀雄さんて遠藤さんの初期「イエスの生涯」あたりからの遠藤さんのよき理解者だったんですね。「ゴッホの手紙」を読んだ今となっては何となくわかります。


さてここで「夫・遠藤周作を語る」から例によって無責任に書き写そう


-先生は、自分が正しくて相手は悪いという態度に対して、ひじょうに厳しかったですね。

遠藤 『裁くのが嫌いな人でしたから。人を裁く人間が大嫌いで。』

-自分を正しいと言っている人は、そう言う自分の中に悪が潜むことに気づかない。

遠藤 『絶対の善も絶対の悪もない、とよく申しておりましたね。』


でも、世代的に遠藤さんが小林さんの影響を受けた、つうよりも、そもそもお互いの中に自分をみつけられてたんですかね。

どちらか一方がではなく、互いが。
彼は我だと。
根っ子のトコで。