Thursday, 5 December 2013

7.絶望の時代


Ⅰ:これは太平洋戦争という文化パラダイムの衝突の結果ですかね?


不完全きわまりないけれど、無意識のうちにメタ・ランゲージを志向するみたいな


さて、ここでエドウィン・O・ライシャワーさん著「ライシャワーの日本史・JAPAN The Story of a Nation」(國弘正雄さん訳)からの引用を。


中国の文字は、長い期間にわたって、しかも、さまざまな方言地域から日本に入ってきたため、日本では、一つの漢字が二つ以上の発音をもつということもめずらしくないのである

漢字は、中国からの借用語にだけ使われたのではなく、同じ意味をもつ在来の日本語にもあてはめられた。
たとえていうならば、waterに相当する「水」という漢字を、英語のwaterの代わりに使用し、しかも、aquaticの構成要素であるaquaのかわりにも使おう、というようなものである。

中国語としての漢字は、いくつかの異なった日本語の意味をあわせもっているものが多い。

たとえば、中国語shangは漢字で書くと「上」であるが、日本語では最も普通に使われるものを挙げただけでも、ウエ、カミ、アガル、アゲル、ノボル、とさまざまな読み方になる。
あたかも、「上」が英語でon、above、upper、to mount、to presentの同義語として使われるようなものである。

(漢字を使用した技術用語・学術用語など)合成語は日本にひじょうに多いが、北ヨーロッパでも、地中海言語を語源にして、terephoneのような新造語がつくられている。

まことに具合のわるいことには、このようにして中国語からつくられた(日本の)複合語には、同音異義語が多い。
はやい話が、普通の国語辞典の一冊を開いてみても、コーコーという発音をもつ漢語風の言葉がずらりと並んでおり、その数は二十を下らない。



で、そこからライシャワーさんが導き出された↓は「あ、そうか!」と僕にはコロンブスの卵でした。


現代では日本語の新語や古い言葉の代替語が、より異質な英語から盛んにとりいれられている理由の一つがここにある。



でも、そのきっかけはやっぱり敗戦・占領ですかね?
別にそれがなくても、縮んでゆく地球、結局ソッチに流れて行きましたかね?
つうか1940年前後の日本がちょっと特殊なだけで、幕末の開国以来そもそも日本にはそのケがありましたかね?

これは太平洋戦争という文化パラダイムの衝突の結果ですかね?
不完全きわまりないけれど、無意識のうちにメタ・ランゲージを志向する、みたいな。

つうか地球の"袋小路"として、そもそも日本には昔から"メタ"に対する憧れがありましたかね?
なんならその可能性も。

つうか海、そう海、日本をぐるりと取り囲んでいる海。
この海って早い話が"メタ"そのものじゃないですか。

(注:なにが早い話かはしりません・2013/12/01)




Ⅱ:基本、陳舜臣さんの「中国の歴史(三)」の中の文章で構成されています


さて、アキレスやクロノスやプロメテウスたちが元気に駆け回っている「三国志」。

の呉の国。

その版図は最大で揚子江沿岸から現在の広東、さらにベトナム北部まで、荊、揚、交、広の四州、四十三郡、三百十三県、面積だけなら蜀をあわせる前の魏にほぼ匹敵と。←ちなみに今の日本とは逆で、県より郡が大きい

ただし、人口は少なく、蜀をあわせる前の魏のほぼ半分くらい。

そのため呉の初代皇帝孫権は、即効性の人口増加政策として、海の彼方、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)と呼ばれる島(琉球・台湾・日本諸説アリだとか)に兵一万人での"人狩り"遠征を実地しています。

が、亶州は遠すぎてたどりつけず、なんとか夷州の人たち数千人を連れてかえるも、これは疫病によるものと推察されているそうですが、遠征軍十人のうち八、九人を失うという多大な人的損害をだし、結果は失敗といっていいものだったそうです。


で、その呉の滅亡時。

すでに蜀をあわせた魏も晋にとってかわられていましたが、四代皇帝孫皓が晋に版図を献じたとき、呉の戸数52万、男女人口230万であったといわれているそうです。
ちなみに晋は人口550万、つまり中国全土の人口が800万そこそこだったと。

ほ~現在人口十ン億の中国も(単純に"中国"の規模の違いをおいといても)三世紀中ごろはそんなもんだったんだな。

産業革命以降なのかな?
やっぱり地球の人口は近代になって物凄い上昇曲線を描くようになったのだな。

と、おもいきや


『漢書』の「地理志」によると、前漢の時代、平帝元始二年(西暦2年)の中国全土の人口は、5959万余。
しかし前漢滅亡時の戦乱を経たせいでしょう。
後漢初代皇帝光武帝が死んだ建武中元二年(西暦57年)の人口は2100万余と激減。
が、後漢第十代質帝の死んだ本初元年(西暦146年)には、それが4756万余まで回復ですと。


で、それから約140年後、晋が天下統一した時点での中国全土の人口は800万そこそこ。
4756万余の人口が800万そこそこ。

いや、後漢滅亡のきっかけとなった黄巾の乱が勃発したのは西暦で184年、本初元年の40年後なので、その時点での人口はもっと増えていたことでしょう。
つまり5000万前後の人口が100年で800万そこそこ。

いや、最初は僕も800万といってもそれは長引く戦乱のせいで人口が流動的になり行政組織も弱体化、単に正確な人口調査ができなかっただけじゃないの?と思ったんです。

本当はもっと人口多かったろうと。


でも、たとえば、曹操が袁紹との事実上の天下分け目の決勝戦「官渡の戦い」に勝利し、当時の人口密集地帯、いわゆる"中原"をおさえたのは西暦で200年ころ。

これは呉の滅亡の80年前。

で、この80年間、"中原"はそれなりに平和、そこまで大規模な戦争はおこっていないと思います。
これは乱世に翻弄された普通の人たちが、少しでもと平和や治安をもとめて集まってくるには、そこに定着するには、十分を通り越した期間だと思います。

それに後漢から続く行政組織が復旧、正常に機能しはじめるにも十分を通り越した期間だと思います。
それに、なにより、たぶんですが、どの国でも戦争をするには、作戦計画を立てるには、徴兵にしろ輜重にしろなんにしろ、自国の人口の把握が一番大事な気がします。

時は乱世、人口調査をいい加減にやったとは思えず、かなり厳密に調べた気がします。



『三国の乱世は(略)けっして光彩陸離たる時代ではありません。獣性がこの世を支配し、光のとぼしい、絶望の時代だったのです』

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