Tuesday, 3 December 2013

浄土平って何?のまとめ ⑧‐⑮

⑧夷


「蝦夷と東北戦争」によるとですね、少なくとも古代の蝦夷(えみし)は特定の人々のことをいうのではなく、自らをそう呼んだわけでもなく、あくまでヤマト側からみて、広大な日本東北部に住む、まだ"王化"されていないさまざまな"化外の民"のことを、一括して"蝦夷"と呼んだと。


そしてヤマトの朝廷の貴族は、蝦夷を蔑視しながらも"一を以って千に当たる"といわれた戦闘力には畏敬の念をいだいていたのかもしれない。
蘇我蝦夷、小野毛人(えみし)、佐伯今毛人など、蝦夷(毛人)という名もそのためであろう。

またヤマトに服した蝦夷。
彼らは俘囚(ふしゅう)と呼ばれ、俘軍として組織された。


ところで「蝦夷と東北戦争」の著者の鈴木拓也さんは参考にした引用元を本文の中で随時表記されています。
しかし、ここでは"「蝦夷と東北戦争」によると"で一括させてください。
といいますか、他も全部そうですね、しかも基本的に俺の身勝手要約です。
 
くわしく、正確に、は、それら原書?たとえば鈴木拓也著「蝦夷と東北戦争」を読んでいただければ。


さて、"「蝦夷と東北戦争」によると"です。

奈良時代くらいから、本来の部族的"蝦夷"、個別に自分達の支配下にある"俘囚"。
そしてそれら"蝦夷"の総称として、"夷俘(いふ)"。
そのような呼び名の使い分けがあったのではないだろうか。
 
(この文章は自分でもちょっとわかりづらいです、もちろん要約しています。
「本来の部族的蝦夷」、これは「まだ王化されていない蝦夷」、そういう意味だとおもいます。
あと、これも正確な区分けとは言えないでしょうが、大化の改新以降の日本の表記は"日本"で統一します・2013/11/13)



また、大化の改新以降の"化外の地"への進出は内地からの移民による郡の設置・版図拡大が主で、征夷、軍事行動はあくまで副次的なものだった。
移民に対する蝦夷の"抵抗"が予想される場合や、移民後の治安確保のために征夷がおこなわれた。

もちろん平和裏に城柵や郡が置かれた例も多い。

城柵は基本的に防御の外郭をもった役所であり、常に兵士に守られていた。
城柵には国司が派遣され城司とよばれ、蝦夷を含んだその地方を統率した。

(ぐだぐだですが、この「蝦夷を含んだ」の蝦夷は俘囚を指す。
そう言い切っていいか今ちょっとわかりません・2013/11/13)

 
日本国によるフロンティアへの"入植"は順調にすすんだ。
719年には、特定の国の守をして周囲数カ国を管轄させる按察使(あぜち)という制度がつくられた。

しかし翌20年、陸奥国でこの按察使が殺害され、史上初の蝦夷の大反乱が起きた。
これは蝦夷を力で押さえつけようとする大規模移民政策にたいしての抵抗の意思表示だった。


夷を以って夷を撃つは古の上計なり、賊を持って賊を伐つは軍国の利なり


この反乱の鎮圧には国家側の蝦夷(同上)の武力ももちいられた。
ただし、単純に利用された、そういうわけではない。
この乱のあと、功があった蝦夷、その通訳も勲位を受けている。
 
当然、反乱後の蝦夷への慰撫という意味もあったろう、と、思います。



・・・・・・・・・



⑨再編
この反乱は当時の日本国の指導者たちに様々な"征夷"への教訓をあたえたようだ。

そのころの日本国の兵制は、その分国の住人が六十日程度の勤務を交代でくりかえす半農半兵だった。
しかしこの反乱を受け、陸奥国ではそれを令外(りょうげ・律令の外)という常備兵制に変えた。

そしてこの反乱の前、"征夷"の進展により、陸奥国の領域はすでに広大なものとなっていた。
日本国はそれを"征夷"の最前線と比較的治安が安定している地域とに三分割、それぞれに国司、そしてそれを統括する按察使(あぜち)を置いた。

しかし、この反乱では最初にその按察使が殺害された。
それにより情報や命令の伝達など指揮系統に混乱が生じ、当初、この反乱への対応が後手後手になった。
 
その反省をふまえ、反乱鎮圧後、日本国は陸奥国を再統合。
按察使というクッションを取り除き、陸奥国司のもと統一迅速に事態に対応できるようにした。


(陸奥?按察使から陸奥国司に名前が変わっただけでは?という気はします。
地区責任者はいたでしょうから。
下に少し記しているように、権限からなにから抜本的組織改変が行われたのかもしれません・2013/11/14)
 
 
 
令外の兵は主に東国の兵士から選出され陸奥国に派遣、鎮兵とよばれた。
それを統括する任を主として創設されたのが鎮守府という令外官で、その長である鎮守将軍はほぼ按察使や陸奥守(国司?)が兼任した。
これにより中央からの征討使が将軍ではなく大使と呼称されるようになった。
 
そして再統合された陸奥国を統治するかなめの国府兼鎮守府としてつくられたのが多賀城だった。 


(今読み返すと、なにかと言葉を放り出していて、自分でもよくわからない点も多いです。
按察使?は僕も思います、もしかしたらこの後、また組織編成が変わったのかも。 
あと、征討使という官職がもともとは地方軍の司令官だった?
その実際、そしてその役割の変化などは、今わかりません・2013/11/14)



さて、720年に発生した大反乱の傷もようやく癒えた、ということでしょうか、東国の兵士で構成された鎮兵は746年に一度廃止された。
しかし757年に復活され、800年代初頭まで廃止されることはなかった。
ちなみに、これら東国の兵士は天皇のそばにも侍し、その武力への貴種の期待は信仰に近いものがあった。


美濃以東から幅広く徴兵されていた征夷軍はこれ以降鎮兵が主力となり、その動員は、相模、安房、上総、下総、常陸、上野、武蔵、下野、八カ国にほぼ固定された。
これらは相模の足柄坂、上野の碓氷坂より東として坂東と呼称された。
 
鎮兵も含め、これが源氏vs奥州藤原へと続く戦いのはじまりでしょうか?


(だらだらと書いていますが。
 
「その分国の住人が六十日程度の勤務を交代でくりかえす半農半兵」
これがその国の治安維持の為の常備兵ですね。
常備兵"制"ではなく、めんどくさい書き方してますけど。

で、"征夷"のときにはそれとは別に美濃以東から広く兵を動員していたと。
その征夷軍の将軍が征討使でしょうか?
 
で、反乱後、臨戦体制ということで、あくまで征夷の最前線に限り、その長に権力を集中、兵も平等な負担よりも精鋭に重点をおいたと。
それが廃止されたのは中央目線での王化の完成による、ですかね?・2013/11/14)



ところで、この反乱で捕虜となった蝦夷は、伊予や筑紫など各地に分散して送られた。
これは東北の蝦夷勢力の弱体化を意図したものと思われる。
 
しかし同時に、現地蝦夷の待遇改善など、そのような点での日本国の反省もみられた。
また蝦夷の人たちのなかでの疫病の流行もあったようだ。 
 
それらにより、この反乱の後は日本国による陸奥支配は順調に進み、目立った征夷が行われることはなかった。
 
「もうそんな世ではない」 

746年、百済王族の後裔である陸奥守百済王敬福はついに鎮兵を廃止した。



しかし様相は一変する。

757年、法相宗の高僧徳一の父親といわれる藤原仲麻呂が鎮兵を復活。
彼は自分の息子を按察使や鎮守将軍を兼任の陸奥守に任命、版図拡大の征夷を再開した。
 
その後の政権にもこの政策は受け継がれ、774年から811年まで、ついに三十八年戦争といわれる蝦夷と日本の血みどろの征夷戦がはじまる。


ところで、鎮兵が廃止された746年から復活した757年までの間に奥州でなにがあったか?
 
 
すめろぎの御世栄えむとあづまなるみちのく山にくがね花咲く 
 
 
749年、ないといわれていたわが国初の黄金が陸奥で産出されたと陸奥守百済王敬福から公式に報告。
まるでOILのような黄金利権の影が(笑)
・・・・・・・・・



⑩とこよのくに


「仏教民俗学(本)」によると、古代、常世(とこよ)とは神道のテリトリーであり、海の彼方にある不老不死の国と考えられてきた。
かつ常世は常夜でもあり、死者の国でもあった。
 
彼岸は仏教的世界観で此岸(しがん)、煩悩?に対するアチラ側、悟りの岸、であったが、いつからか生のアチラ側、死の岸、ともなった。
そう、彼岸は日本で変質し、インドの仏教徒が思考した悟りの岸とは異なる意味をもった。
そこにはまた、神道と仏教の出会い以外に道教の影響もあっただろう。

 
浦島が助けた亀に連れられていった海の彼方の常世の国、竜宮。 
 
 
日本の記紀神話では、この竜宮には蓬莱山(とこよのくに)という字があてられていた。
彼岸も常世も生であり死であった。


古来、日本人は人が死ねば霊魂は山にのぼり浄められて祖霊になると信じていた。
(ここにひとつの区切りをいれるべきかも)
山中の地獄谷や賽の河原を抜け、山頂の極楽浄土へのぼっていくと信じていた。

例えば、仏を信じる者の臨終の場に、如来が極楽へと迎えに来てくれる場面をえがいた阿弥陀来迎図。
そのほとんどは(逆に)山の斜面を如来がおりてくるものだ。


浄土。

インド仏教が思考した浄土は果てなく遠い西方の地にある楽園というものだった。
これが仏教渡来以前から日本にある、死者の霊がのぼる場所であり神がおりてくる場所でもあるという山岳への信仰と結びつき、変容。
おそらく平安中期には身近な山の中にこそ浄土は存在するという観念を成立させた。


浄土平。
 
ここはどちらかといえば、山中の皆金色な紅葉の極楽浄土を抜け、山頂の賽の河原へのぼっていってしまう。
そんな気がします。
と思ったら、霊山は必ず浄土が原とか地獄谷とか賽の河原とかの地名をもつとか。
浄土平に地獄谷や賽の河原が地名としてあるかどうかはわかりませんが(地獄谷ぽいつばくろ谷なら)、なるほど。

かんがえてみたら別に荒涼とした場所が山頂というわけでもないし、一切経山てのはまだよくわかりませんが、たとえば、荒涼とした地獄を抜け、不老不死の楽園蓬莱山(とこよのくに)にたどり着く。

めでたしめでたし。

みたいな、でも、本当に、神道、仏教、道教、仲良くやってますね。



万葉集でも死者の霊魂は山やたかいところにおもむくということをうたう。
しかし残された"体"についての言及はない。
 
そこまで言っていいかわからないが(僕が・2013/11/15)、霊魂が離れたあとの体は当時の日本人にとってはもうただのものだったのかもしれない。
霊魂こそが重要だった。
 
納骨という習慣は十一、二世紀ごろから天皇や貴族が高野山に納骨するということからはじまり、それが庶民にひろがった。
これには高野聖が遺骨を高野山に納骨すれば浄土に往生できると説いたことが一役買っているだろう。


この納骨習慣というのが山中浄土と結びつき、やがて各地の霊山に納骨されるようになった。
その頃には、そうすることで山にのぼった霊魂が再び自らの体に出会えると信じられていた。
 
(山から天にのぼった、そう書いていいか、今わかりません・2013/11/16)
 
 
で、適当に書きますが、安倍貞任が一切経山に埋めたのは(伝説)、お経ではなく、自らの遺骨では。
あと、ともに戦い亡くなった多くの反乱兵士の遺骨とか。

・・・・・・・・・



⑪救い


「街道をゆく」によると。
 
若き最澄は、法相宗や唯識宗など奈良の旧仏教は"教"ではなく"論"を中心とした破片ではないか?
そのような疑問をもっていた。
 
もっとも釈迦以降の仏教は膨大な破片群ともいえ、ときにそれら同士がぶつかり矛盾しあってる。
さらに旧仏教は解脱中心主義で、天才のみが悟りの域に達しうるという選別主義だった。
そして最澄はついに天台宗にいきつく。
 
 
万人が仏性(仏になりうる性質)をもつ
 
 
天台宗はそれら破片群を"救い"という思想で取捨選択して一大体系としたものだった。
この新仏教の出現は、奈良の仏教を一気に過去のものとした。
誰もが仏性をもつのなら、何を苦しんで修行をするか、当然、奈良の学僧の反発をうけた。



「空海の風景」によると

「最澄のいうことにも理がある。」 
奈良の学僧も、ひそかにそう思うことがあったかもしれない。
 
だが彼らとしては、奈良仏教を見限っているという場所(のみ)で最澄と同じ立場にいる、独裁的性格が強い桓武帝の恩寵を武器に権力で自分達を押さえつける(と感じられる)最澄には態度を硬化せざるを得ない。

そしてここで悲喜劇がおこる。
 
実は桓武帝や朝廷の関心は天台の教えにはなかった。
それは最澄が、あくまでも(ついでとして)唐からその一部を持ち帰ったにすぎない、現世利益に験があるとうわさされていた密教に集中していた。
 
桓武帝は天台については何もふれず、密教をもたらしたがゆえに最澄を国師であるとし、奈良の長老たちに最澄から(洗礼のような?)灌頂を受けさせた。

また天台宗は奈良仏教と同じように国家が試験によって僧を得度させる枠を二人分得た。
その一人は天台課程、一人は(粗放なものでしかない)密教課程とした。
 
当然、最澄は権力を得るために時代の好奇に迎合した、と、奈良からはおもわれた。
そんな中、真言密教第八世法王空海が都にあらわれた。
 
が、それはまた別の話。



「街道をゆく」によると、です。

法相宗は時の権力者藤原冬嗣を立会人に最澄と論争をした。
最澄は弟子一人を連れて相手の陣地?にのりこみ、なみいる学僧を論破した。
宮中での各宗の学僧とも討論して勝ち、和気氏の立会いのもとの論戦にも勝った。
 
 
これは、やっぱり、頭の良し悪しよりも宗論の構造に無理があったのでは?
負けるべくして負けたと。

極端な例えですが、現在(現代も可)の常識(空気がいいかも)を互いに共有する中で、たとえIQ300の大天才だったとしても、天動説という立場を与えられて地動説をとなえる秀才と論争させられたらいかんともしがたいでしょうし、極端ですが。
 
 
で、奈良仏教が最後の切り札としたのが会津の徳一だった。

最澄と徳一の十二年におよぶ論争は文章でおこなわれた。
最澄は激しい論争を重ねてきたことにより、相手を自分の有利な場所に引き込む論争術に長じていた。
この論争はつねに最澄の優勢勝ちだった。
 
そしてこの勝ちがあったからこそ、日本仏教の中に衆生すべてが仏性をもつというプラティナを刻み入れたような伝統ができた。


で、「街道をゆく」の中で司馬遼太郎さんも。
 
"徳一について藤原仲麻呂の子といわれるがよくわからない、最澄の文章から弱冠(二十歳)で都をさったことだけはわかっている。"
 
"奈良から平安に移り変わる時期に、まだ夷(ひな)の気分を残す会津に日本最高の法相学者がいたという不思議さを誰も十分には説明できない。"



・・・・・・・・・



⑫鎮魂


「栄原永遠男・天平の時代」によると。
 
反乱を起こし敗れた藤原仲麻呂。
この反乱の後、彼の家族もみな処刑されたが、六男の薩雄のみが若いときから仏教修行をしてきたとの理由で許された。
 
もし徳一が仲麻呂の子ならこの薩雄ですか?
で、もし徳一が仲麻呂の子なら、会津にいたのは征夷と関係ないですかね?
その時期は仲麻呂が口火を切ったともいえる三十八年戦争真っ最中ですし。

この戦争におけるすべての犠牲者の鎮魂のために遠く会津に赴いたと。
あるいは一時は太政大臣と位人臣を極めた仲麻呂の子らしく必勝・国家鎮護とか。
 
ん?これは都で十分か?
 
でも、法相宗にそんな思想があるのか知りませんが、この時期彼が会津にいたのは、たとえ仲麻呂の子でないとしても、なんとなく、双方の犠牲者の鎮魂のためな気がします。



で、どうも徳一と仲麻呂の六男薩雄は別人みたいです。
まあもともと"よくわからない"つうくらいなんだからそりゃそうですね。
 
さて、前九年の役の主要人物の一人、安倍貞任。
考えてみたら彼は徳一より二百年ちかく後世の人なんですよね。
つまり貞任が一切経山にお経を埋めた(伝説)ときにはすでに恵日寺は磐梯山麓にその威容を誇っていたと。
徳一のころ、この山はなんと呼ばれていたんだろう?
 


ところで「街道をゆく」で、ですが。
 
奈良仏教のうち、とくに法相宗は悟りを三種類に区別していたそうです。

一番低いのが声聞(しょうもん)で自分本位の悟り。
次が縁覚(えんがく)でこれは孤高でありすぎる。
最後が菩薩で、自ら悟りをひらいたうえで利他的に他人を救済して悟りをひらかせたり利益をあたえたりする。


で、空海は徳一の疑問書の返信に徳一菩薩と書いていて、司馬さんは空海らしい政治感覚のリップサービスだろうと。
 
でも、もし薩雄が徳一のかつての名前としたら、薩って最初薩摩かと思いましたが、菩薩の薩ってないですかね?と、最初書こうとしました、書いていますが。
でも当時、薩雄の薩も正式には薩という漢字ではなかったみたいです。

菩薩の薩は当時薩で固定だったのかな?
 


「名山の日本史」によると。
 
徳一開創と伝えられる寺が関東・東北に七十以上あり、その中でも恵日寺は平安中期以降(貞任が生きた時代ですか)、磐梯山がみえる範囲の農村、会津四郡を寺領とし、寺僧三百人、僧兵数千人を数えたそうです。
もちろん徳一が建立した(伝説)ころはもっと素朴だったでしょうが。


ちなみに四世紀ごろヤマトの軍勢が侵略してきたときに周囲の”化外の民”が抵抗しこもったという筑波山。
ここにも桓武朝のころ徳一が建立したという中禅寺があったそうです。
 
得一建立伽藍諸国多、奥州石梯山建立清水寺、会津大寺是也
 
(清水寺が恵日寺でしょうか?これが何からの引用だったか、今わかりません・2013/11/17) 
 
 
蝦夷、鎮兵、坂東からの徴兵。
う~ん、鎮魂はともかく、征夷との関係はやっぱりあるような。
ある種、督戦的な(笑)。



わりといつの時代も、侵略では、暴力と宗教はセットだろう、と思います。
 
しかしもし徳一が仲麻呂の子供ならば(ならば)。
 
父の権力闘争の果ての家族皆殺しを経験した徳一が、もちろんその時代の精神からは逃れられないとはいえ、その変わり目の前の精神に属していた人とはいえ、人びとの"救い"を祈ってもなんら不思議はない気がします。



そういえば(当初かな?)征夷のとき、征討軍と鎮撫軍の両軍を派遣していたそうなんです。
 
もちろん実際に蝦夷を攻めるとこには征討軍。
そこを攻めることで周囲の蝦夷が動揺しないようにとそこには鎮撫軍。
 
 
で、「蝦夷と東北戦争」によると。
 
709年、陸奥越後の蝦夷の野心がおさまらず良民を害するため、たぶん本音は前年に新設された出羽郡の安定をはかるため、越後に征越後蝦夷将軍、陸奥に陸奥鎮東将軍を派遣したと。
 
征と鎮。
征が暴力なら鎮は宗教?
あ、鎮魂てありますけど、征魂てないですよね。

もちろんたとえ話です。
でも征魂て何か語感が"brainwashed" (洗脳)。
 
やっぱり宗教だ(笑)。



・・・・・・・・・



⑬継承


「天平の時代」によると。

聖武天皇は自分同様藤原氏系の皇子への皇位継承を望んでいた。(聖武天皇の母は藤原不比等の娘) 
しかしいない。
藤原系の皇子誕生まではと娘の安部内親王を異例の女性皇太子にするほどだった。
 

(基本的に中継ぎとして、みたいですが、当時は女性天皇は珍しくはなかったようです。
"異例"というのは、後述のように、息子がいるのに、という意味ではないかと。
もちろんこの文章は要約しています・2013/11/18) 


当時、朝廷の実権を握っていた藤原不比等の四人の息子があいついで天然痘で死亡。
橘諸兄(たちばなのもろえ)が大納言になり、新興の藤原氏の勢力は後退をよぎなくされていた。


そんな中、聖武天皇の唯一の皇子で、大伴家持や橘諸兄など反藤原勢力の期待を一身に集めていた安積(あさか)親王が急死した。
これは暗殺の可能性があった。
 
痛み分けのような形で聖武天皇は譲位、娘で藤原系の安部皇太子が孝謙天皇として即位。
そして元号を天平勝宝と改めた。
この即位の前年、橘諸兄らを支援する反藤原勢力の最大の大物、聖武の姉、元正太上天皇がなくなっていた。
 
(痛み分け、と書いていますが、我が子を亡くした聖武天皇の気持ちはもちろんわかりません。
マリーアントワネットに関する別の文章で同様なことを書きましたが。

「この権力闘争の中では、我が子たちが幸せになるにはこれが一番いいのだ。」
 
娘を皇太子にしたとき、そのような思いが聖武天皇にはあったかも・2013/11/18)




そしてこの孝謙天皇即位のとき、参議だった藤原仲麻呂は中納言を飛ばし大納言となった。
兄の豊成は右大臣に、そして藤原氏からあと二人あらたに参議となった。
藤原氏の巻き返しが開始された。
 
しかし同時に橘諸兄の子の奈良麻呂も参議となり、朝廷での両勢力の対立はいよいよ激しくなった。



749年、聖武太上天皇の皇太后である光明皇太后のために紫微中台(しびちゅうだい)という官司が新たに設置され、その長官に仲麻呂が就任した。

この官司は実際には皇太后のためというよりも、立場が不安定な孝謙天皇を支えるためのもので、藤原氏と関係深い中衛大将への就任とあわせ、仲麻呂は藤原氏のトップにたった。

(中衛大将は、簡単に言えば聖武天皇治世中の728年に発足した天皇近衛軍、中衛府300人の長官)



さて、この頃は大仏建立や東大寺の造営などがあり、表面上は平穏な日々が続く。
 
 
「我が主、橘諸兄が反逆を考えている」
 
しかし755年、聖武太上天皇が重い病におかされていた時、そのような密告が彼の従者からもたらされた。
 
「彼はそのような人物ではない。」 
 
聖武太上天皇はその密告を信ぜず握りつぶした。
 
が、これにより左大臣橘諸兄は辞職に追い込まれ、失脚を狙ったこの密告は結局は成功だった。



さて、ちょっと話はかわりますが、連想したので。(2013/11/19)
 
唐の則天武后の治世の末期。
彼女が寵愛している若い美貌の兄弟がいた。
当然、彼らは非常な権力を持つことになった。
 
「なんだあいつらはいい気になって。ちょっとこらしめてやるか」
 
則天武后の甥や姪がそう不満をいった。
それを聞いた兄弟は彼女にそれを伝えた。
すると彼女は自分の甥や姪を殺してしまった。
 
このあと、この兄弟の自儘はますますひどくなった。
当然、多くの人達は彼らに媚びへつらった。
 
しかし、彼らを露骨に無視、軽蔑する人々もいた。
当時の朝廷の中心人物たちがそうだった。
 
「なんだあいつらはいい気になって。ちょっとこらしめてやるか」
 
兄弟は則天武后に彼らへの不満をのべた。
 
「彼らは私が見込んだ人物だ。お前たちは政治のことに口をだすな」
 
しかし彼女はそれを一切とりあわなかった。
この後、玄宗皇帝治世の初期、唐は空前の隆盛期を迎える。
その中心となったのが則天武后によって見出されたこの人たちだった。
 
そして、この兄弟は則天武后の死の直前にころされた。
彼らはその病床にはり付き続けていた。
 
みたいな。
 


・・・・・・・・・



⑭仲麻呂


756年、聖武太上天皇と先の左大臣橘諸兄があいついでなくなり、状況はさらに混迷を深めてきた。

この直後、朝廷を誹謗し臣として礼を失したとして、橘氏と共に反藤原氏の有力な一角である大伴氏の重鎮が逮捕された。
彼はすぐに釈放されるも土佐に左遷され、のちにそのまま流刑となる。 
そしてこの逮捕、左遷を機に、大伴氏内部の急進派は反仲麻呂の陰謀に突き進むようになる。


 
聖武太上天皇は遺言で、自分の祖父草壁皇子の兄弟である新田部親王の子、道祖(ふなど)王を皇太子に指名した。
これにより、文武・聖武と続いてきた草壁皇子を租とする皇統の流れは自分の娘、孝謙天皇で止まることになる。
しかし自らと同じ、壬申の乱の勝利者である天武天皇の血脈から後継者を選んだ。


(聖武天皇の祖父、草壁皇子は天武天皇の第一王子、新田部親王は天武天皇の第七皇子だった。
そして聖武天皇は文武天皇の息子だが、文武天皇は若くしてなくなり、その時聖武天皇はまだ幼少だった。
 
そのため、草壁皇子の妃であり文武天皇の母である元明天皇、その娘(文武天皇の兄妹)元正天皇が短い期間ではあるが女性天皇として即位した・2013/11/18)



しかし道祖王はその行状が皇太子にふさわしくないと、すぐに皇太子の座を追われた。
そして仲麻呂の亡き長男の妻と結婚し、その時仲麻呂の邸宅に住んでいた、同じ天武系の大炊(おおい)王が新たに皇太子に選ばれた。
 
(大炊王は舎人親王の第七王子。
舎人親王は天武天皇の第三王子・2013/11/18) 


 
翌757年、仲麻呂は大本営的?な新設の紫微内相に就任し、国家の軍事権を握った。

彼はこれらの権力を背景に反仲麻呂派の勢力を降格や地方に追い粛清した。
これに対し反仲麻呂派はクーデターを計画するも、意思の統一もなく事前に露見、自白や密告で次々と逮捕された。
中心人物であった大伴古麻呂は拷問で殺され、不明だが橘奈良麻呂も獄中で殺された可能性が高い。
 
そのすぐ後、実際には難波にとどまったものの、仲麻呂の兄の豊成が息子の逮捕に連座して九州に左遷され、仲麻呂は祖父不比等をこえる独裁権力を手に入れた。
彼はたとえ身内でも、自分を越える存在をゆるさないようになっていた。 


そしてこの頃、仲麻呂は藤原や君子(天皇)の姓を久須波良や吉美候に改めさせ、天皇・皇后の名と共に鎌足や不比等の名の使用を禁止した。


(藤原や君子(天皇)の姓。
当時、庶民には姓はなかったと思いますが、自分達藤原一族以外の藤原氏という意味でしょうか?
君子というのは、吉美候から考えて、天皇の姓、ではなく、君子という字面が天皇を連想するから駄目だ、ということでしょうね・2013/11/19)



そして758年、孝謙天皇が譲位、大炊皇太子が即位、淳仁天皇となった。
そして仲麻呂は恵美押勝(えみおしかつ)という姓名と強大な経済力を得た。


この後、並ぶもののいない権力を握った仲麻呂は版図拡大の東北政策を再開。
 
760年、仲麻呂はついに祖父不比等も固辞し続けた太政大臣の地位につき、その権勢は絶頂に達した。
しかし同じ年、天皇家の支柱であった光明皇太后(聖武天皇の后)がなくなり、これにより孝謙太上天皇と淳仁天皇の不和がしだいに表面化、仲麻呂の権力に微妙な影が密かに差しはじめていた。


761年、東国に対する近畿周辺の重要軍事拠点でもある三関(三カ国の関所)の管轄を主な任務とする按察使が置かれ、仲麻呂の次男と女婿がこれに任命された。
この時、次男が就任していた大和守は三男にかわり、平城京を管轄する左京右京両大夫(たいふ)も左右京尹(きょういん)として統合し、これも三男が兼任、仲麻呂は近畿周辺を身内でかためた。


同じ年、融和の機会をつくろうと思ったのか、仲麻呂は藤原氏の勢力圏の近江に保良宮(ほらのみや)を急ぎ完成させ、孝謙太上天皇と淳仁天皇の二人を迎え入れた。
 
しかし翌762年、孝謙が自分の病を治した(と思った)道鏡を寵愛しはじめた影響もあり、二人は決定的に決裂した。
 
 
 
(太政大臣は律令の最高位で定員一名。
適任者がいなければ欠員でよかったそうです。 
徳川幕府の大老のような感じかも。

で、次に、左大臣、右大臣、定員両一名、ときますが、立場としては左大臣が上だそうです。
で、基本的にはこの左大臣が最高位だったみたいです。
 
そして大納言、一応定員は4名ですが、これは時代によって多少の変遷がある。
その下に中納言、これの定員も一時期8名と定められたことはあるが、一定はしなかったと。
 
ちなみに大納言は左右両大臣不在の時にかわって政務を執り行うことができたが、中納言にはその権限はなかったとか。
 
で、この下に参議、これも定員は一応8名ですが、やはり一定はしなかったと。

もともとはここまでの人を公卿とよんだようです。

天皇に近侍したのは中納言以上みたいですが、よくわかりません。
参議は、すくなくとも最初は、国政の審議にのみ参加していたと・2013/11/19)



・・・・・・・・・



⑮宴のあと


仲麻呂が宥和をはかるも、孝謙太上天皇と淳仁天皇の仲は決定的に決裂、二人とも相次いで平城京に帰った。

そして孝謙太上天皇は「私は出家した」として法基尼(ほうきに)と名乗り、「今後国家の運営は自分がおこなう、淳仁は天皇の日常の些事のみをおこなえ」と宣告した。
 
この淳仁天皇こそが仲麻呂の権力の裏書であった。
そして同じ月、後宮の女官の長だった仲麻呂の正室が亡くなった。


ん~仲麻呂が独裁者といっても孝謙太上天皇の一言で吹っ飛ぶんだからたいしたことは、というか、孝謙太上天皇自身の今後のことも考えると、天皇個人(ここでは太上天皇ですが)ではなく、天皇それ自体の権威が貴族のなかではまだまだ凄かったんですかね?
もちろん藤原氏も含め。本家の当主みたいな感じ?
 
(もちろん孝謙太上天皇による道鏡問題です・2013/11/20)

 
あと、これに限らず、歴史ではわりと都合よく人がいなくなる気がします。
そしてそれを機に歴史が動きだす。
 
もちろんそれが当然なんですけど。
だって歴史の流れのつっかえ棒になってた人がいなくなるんだから、動き出すのは当然だ。
ただ、仲麻呂のところだけでも、何か多い気はしますね。
それがすべて仲麻呂に有利に働いた、というわけでもなく。
 


この孝謙太上天皇の宣言で仲麻呂の権力の衰退はいよいよあきらかになってきた。
しかし半年後、(たぶん)あせった仲麻呂は次男に続き三男四男を参議に任命。
国の最高機関である太政官を血縁や自派でかためるという露骨なことをした。
これに対して同じ藤原氏の中からも仲麻呂を暗殺しようと思うものがでてきた。


このように藤原氏からも見限られつつあるなか、長く仲麻呂派が独占してきた官吏に反仲麻呂派が就任することがふえてきた。
 
764年、保良宮がある近江も、仲麻呂が信頼する女婿で按察使の御楯(みたて)が亡くなった後は反仲麻呂派の手中に落ち、京の僧や尼を管轄する官からも排除された。
 
同じころ、以前の銭貨とほぼ同じものに十倍の額面価値をつけた万年通宝が流通しはじめ物価が急上昇。
それに飢饉や疫病の流行がかさなった、特に近畿や近江はひどかった。
 
「これはすべて仲麻呂の悪政による」
 
そのような声が天下に満ちた。 
仲麻呂は追い詰められた。
 
同764年、自らを守る兵を集めるため、彼は国家の命令書を偽造。
部下の密告によりこの致命的行為が発覚、仲麻呂はついに挙兵した。
しかしこれは追い詰められたすえの挙兵だった。

この反乱は、つねに孝謙太上天皇側に先手をとられた。
仲麻呂は琵琶湖湖西の勝野という場所で最後の戦いを挑み敗北。
捕らえられていた妻子などと共にその地で処刑された。
ただ六男の薩雄のみが若年からの仏教修行を理由に命を助けられた。




で、ですね、「天平の時代」に大伴家持と仲麻呂の直筆という写真が小さくですが掲載されていてですね。
 
家持は文章で仲麻呂は署名のみなんですが、なんというか家持の大人の文字にたいして仲麻呂はなんとなく子供っぽい文字なんですね。
単純に上手い・下手かもしれませんが。


兄弟をも踏み台に、謀略の限りをつくして己の野望に邁進する仲麻呂。
そんな仲麻呂に追い詰められる大伴氏の長老として、「決して軽はずみなことをして罠にはまり大伴氏を滅ぼすことがないように」と氏族内の血気さかんな若者を諭す家持。


でも権力を握った後の仲麻呂は、疲弊していたふつうのひとびとの負担が軽くなるような政策を次々とおこない、もちろん人気取りということもあったでしょうが、本当に世の中をよくしたいという理想主義に燃えていたのかも。
そのためにも何が何でも権力を握らねばと。
 
ん?それを独裁者というか?(笑)

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