Monday, 2 December 2013
浄土平って何?のまとめ ①‐⑦
で、福島から東京にもどった後、「浄土平って結局なんじゃ?」と、図書館で本を借り、読み、書き、で
結局2011年の8月19日から9月14日まで、引き続きツイッターで書き続けました
内容的には浄土平から泥縄に展開し、途中で終ってます
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①とりあえず、「日本の湖沼と渓谷」という本を読んでます。
それによると浄土平の西に、古代中国秦の時代、徐福が始皇帝の命を受け不老不死の薬を求めて船で旅立ったといわれている蓬莱山(ほうらいさん)て山がありますね。
これは何か浄土平と関連があるのかな?
まあ、もしかしたら、○○銀座、○○富士見、みたいなノリで日本中いたるところに蓬莱山ってあるのかもしれませんが。
で、ですね、吾妻小富士とは違い、浄土平の北、今も活火山の一切経山。
「あっちの煙だしてる山」です。
この山の名前の由来は、最後は中央に敗れたとはいえ、その活躍が奥州藤原氏の栄華にもつながる(のかな?まだよく知りません)安倍貞任が、一切経つう仏教のお経をこの山に埋めたという伝説にあるとか。
古来、このあたりの人にとって浄土平周辺はそういう‘域’だったんですかね。
ちなみに一切経山の読み方は、"いっさいきょうざん"、でいいみたいです。
んで、浄土平の北北西かな?烏帽子山て山がありまして、ま、全国よくある名前だとはおもうんです。
ある場所からながめるとこの山の形が烏帽子のようにみえるのだろうと。
ちなみに、今僕が住んでいる佐世保にも烏帽子岳という山があります。
ただ、この福島の烏帽子山、地図を見ると、ここには烏帽子山の前にニセ烏帽子山てのがそびえてるんです。
なんじゃ、ニセって。
でも一切経山は、いっさいきょうざん、とよんだほうがしっくりくるけど、烏帽子山は、えぼしやま、とよんだほうが(僕的には)しっくりきますね。
浄土平周辺でも蓬莱山は、ほうらいさん、吾妻山は、あずまやまだなあ。実際もそうかな?
まあ、吾妻山は、あずまさん、でもしっくりくるか?
ただ、なんとなくだけど、"やま"より"さん"のほうが、より高くけわしい山のイメージを持ちますね。
で、「名山の日本史」によると、磐梯山(ばんだいさん)てのは、天へとつづくいわのかけはし、磐梯山(いわはしやま)てのがその名の由来とか。
もちろん一説によると、でしょうけど。
ところで、浄土平からみて、烏帽子山にかぶさるようにそびえるニセ烏帽子山。
ニセってやっぱり偽だよな?
ん~未知だとおもわず烏帽子山だと誤認してしまうくらい似ているのかな?
なら、"似せ"もあるかな?
つうかこちらがニセになった理由はなんだろう?
あれかな?
前より後が本命、真打ち登場!て感じなのかな?
ということはやはり浄土平目線が”域”のスタンダード、おお、浄土平強し!ということかな?
ま、単純にこちら方面からみないと烏帽子にはみえんということだろうな。
ちなみに烏帽子てのは、平安時代のドラマとかで頭にかぶってる帽子です。
と、「日本の湖沼と渓谷」に掲載されている地図の▲二つをみておもいました。
実際にどんな山かは全くしりません。
でも、烏帽子山は、えぼしさん、というよりも、えぼしやま、といったほうが、僕にはしっくりくるけど、ニセ烏帽子山は、にせえぼしやま、というよりも、にせえぼしさん、といったほうが、発声の落ち着き的にも、僕にはしっくりくるな、と、おもい、書いてみたら、にせえぼしやま、も、しっくりきた。
あれかな?磐梯山。
昔々、土地の人はみな「いわはしやま」といっていたのを、唐土に留学経験のあるお坊さんあたりが、
「いわはしやま?なんか野暮ったいな、それだったら磐梯山という漢字をあてて、ばんだいさん、てのはどうだ?」
みたいなこと言いましたかね?
だって、"やま"より"さん"が、なんとなく高級感。
したがって、僕は"やま"にシンパシー(笑)
もちろん坊さん話は適当です。
で、「福島県の歴史散歩」つう本を読んでいたら猪苗代に磐椅(いわはし)神社ってのがありますね。
中世にこの地を治めた猪苗代氏に重んじられたとか。
梯と椅。梯子(はしご)。椅子(いす)。
神社の方は神様にいてもらうから”椅”?
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②病悩山
さて「名山の日本史」によるとですね。
昔々、磐梯山は病悩山と呼ばれて会津の人々を苦しめていたそうです。
もちろん伝説の話です。
もともと病悩山はさまざまな禍で会津の人々を苦しめていた。
そして今から千二百年前、ついにこの病悩山は大噴火を起こした。
それは一夜にして猪苗代湖を生んだほどの大爆発で、多大な被害をこの地にあたえた。
会津の人達の困窮もここに極まった。
それを京で伝え聞いた空海が遥か会津に下向、秘法を修し禍を除き五穀豊穣を祈願。
そして、この地に恵日寺を建立した。
それ以来、病悩山は穏やかな山となり、会津の人々は豊饒の地で幸せに暮らすようになった。
ちょっと作ってますが、このような伝説(縁起)が磐梯山麓の恵日寺にあるそうなんです。
もちろんこれは伝説で、猪苗代湖の成立は何万年も前であり、空海が会津を訪れたこともなく、はっきりとはしないものの恵日寺を建立したのは空海ではなく、空海や最澄と教学について論争を交わした法相宗の高僧徳一であろう。
空海の建立という伝説は、後年恵日寺が真言宗に属するようになってつくられたものであろう。
おそらく実際のところはそういう感じらしく、今昔物語とかにも"得一つう人が恵日寺を建てた"って書いてあるみたいです。
で、"一切経山にお経を埋めたのは安倍貞任ではなく空海だ"。
そういう伝承もあるそうですが、これもそのへんの事情からきてるんですかね。
一切経山も恵日寺の影響圏内で、このお寺が真言宗に属するようになってから、ま、そもそも伝説でしょうし、お経を埋めた主役に空海が紛れ込んだ。
それとも逆かな?
たぶんですけど、もともと違う宗派だった恵日寺がいきなり真言宗に属したりはしないだろう。
それはやっぱりその土地として真言宗の勢いが強くなり、その結果、みたいな過程をたどったとおもうので。
例えば高野聖が、"実はあれを行なったのは空海その人なのだ"みたいな空海伝説を布教のために創作して広めた。
または、それこそ、この地の真言宗の勢いが強くなり、空海信仰も強まり、その過程でそのような空海伝説が発生し広まった。
で、その伝説が無視できないものになり、もともと違う縁起を持っていた恵日寺に影響をあたえることになった。
と書きましたが、なんにせよ、こういうことは、くんずほぐれつ、でしょうね。
ちなみに恵日寺を実際に建立したといわれる徳一。
彼は孝謙太上天皇や寵愛の道鏡に対して反乱を起こし敗死した藤原仲麻呂の子であるといわれ、当代屈指の名僧であるとうたわれ、その建立であると伝えられる寺は恵日寺以外にも全国に七十以上あるとか。
しかし、天台宗の最澄との論争に敗れた後はふるわず、その法相宗も衰えていったとか。
これは身勝手要約ですが、「名山の日本史」によると、平安以来、神と仏は一体であった。
明治維新以降の一連の廃仏毀釈運動により神と仏を分離、神道のみを国教とし、仏教を排斥。
これにより山岳信仰の場から仏教が排除され、あたかも昔から神のみが信仰されてきたかのような錯覚を現在の人びとにあたえていると。
そう、名山とよばれる山には必ず名刹があった。
しかしそれらは消されてしまった。
仏像・仏画など膨大な文化遺産もこのとき失われた。
恵日寺も、境内社の一つであった磐梯明神を磐梯神社として独立させ、住職を同社の宮司にし、恵日寺自体は廃寺とされた。
これらはまさに国家が国家としておこなった愚行であろうと。
ちなみに、この"磐梯"神社は前回出てきた"磐椅"神社ですよね?
そうすると梯と椅の使い分けはあんまり関係ないのかな?
で、大正二年、ようやく廃仏の過剰な熱もさめたということですかね、塔頭(たっちゅう)の一つである観音院が恵日寺の寺名を再興したそうです。
(塔頭は本店にたいする支店のような感じでしょうか)
んで、徳一が最澄に負けて法相宗が衰えたというのは、法相宗が衰えたことからの逆流かもしれませんよね、そこに理由を求めると。
恵日寺が空海の建立で、都に帰る時に弟子の徳一にこの寺を託したという伝説とともに、栄えたモノが歴史を創る、でもいいですが。
実際は、どの程度かは定かではないですが、徳一は空海が東国に真言をひろめることを依頼してきたのを拒否。
その教義にたいする疑義を空海にただし、二人は対立関係にあったとか。
でですね、山岳信仰の場であったかどうかはしりませんが、浄土平じゃないですか、一切経という仏教のお経を埋めたという伝説を持つ一切経山じゃないですか、蓬莱山、これは道教ですかね?じゃないですか。
この感じが自然なんでしょうかね。
↑このブロックの文章、浄土平ではもともとは神道・仏教・道教が混合されていた、ということを言いたいのだとおもいますが、ちょっと妙になってますね。浄土を神道と思っちゃったのかな?
おそらく、日本の現在の山岳信仰は神道のみ、そしてそれは浄土平にも存在する、という自分だけの前提が頭の中にあり、それでそこをすっ飛ばして書いてしまったのかもしれません。
ちなみに、当時も今も、浄土は仏教における天国のような場所だ。
そう言う認識です。(2013/11/07)
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③此土浄土
王朝時代末期、極楽疑わしくば宇治の平等院を敬え、と当時の人はいっていたそうなんです。
平等院こそ此土(しど)浄土、この世の浄土であると。
で、奥州藤原氏の本拠地平泉の無量光院はこの平等院を模して建てられている。(現存せず)
平泉文化は都の此土浄土をみちのくに再現した。
そして奥州は当時唯一と言っていい金の産地であり、実質的奥州支配を確立した藤原氏はそれを自由に使うことができた。
だから平泉の諸堂塔はすべて金色に輝いていた。
それは都にもないものだった。
それらは自らの富を誇示するというよりも(それもあったんでしょうが)、この時代に流行した浄土教文化の”皆金色”、黄金でこの世に浄土を再現するという意図で建立されたものだった。
"この世はすでに末法(まっぽう)の時代に入った"
末法。
釈迦入滅からあまりにも時が経過し、もう正しい教えが行われなくなった時代。
自然災害、戦乱、疫病、この世が禍に覆いつくされる時代。
最初は都の貴族だった。
この時代、平安末期、変革の時代、彼らはそのような考え、不安におそわれていた。
そう、この時代は来るべき変革がその姿をあらわしてきた時代だった。
しかしそれはまだはっきりとしたかたちに定まっていない。
この考えは貴族以外の人たちにも急速にひろまった。
そして、人々は魂の平安をもとめはじめる。
"こんな世はいやだ。釈迦や仏が住むという浄土、皆金色、そのすべてが黄金色に輝いているという浄土、すべての苦悩から解放されるという浄土、私はそこに往生(生まれ変わり)したい"
で、清衡以下の奥州藤原三代がミイラとして平泉の金色堂に葬られているのも、此土浄土、浄土をこの世に再現するという思想からくると。
法華経の功徳で此土浄土が実現したとき、ミイラとして眠っている自身が浄土に、したがってこの地上に、仏として生まれ変わると。
そういうことですかね?
そうなると平泉は浄土を現世に呼び寄せる呼び水として建設されたのかな?
ちなみにこの文章は高橋富雄さんの「奥州藤原氏」を参考にして書いています。
その中の一文で
「藤原氏は(略)地上極楽の実現を待つべく入定相に肉体をとどめ、永生を続けておいでなのである。あるいは(略)往生を終えた入定相にかくおわすのであるかもしれない」
高橋さんはこのように書かれています。
正直、その言葉の意味が難しくてよくわからないトコもありますが、高橋さんのこの表現のしかた、いいですよね。
で、話が一転、というか、ここに結び付けたかったわけですが。
"随分荒涼としているところじゃないか"
と僕がおもった浄土平なんですけどね。
ほら紅葉て、そりゃ紅もありますが、やっぱり黄金色じゃないですか。
ほんとうに秋には紅葉がきれいなところらしいんですよ、浄土平、磐梯吾妻スカイラインは。
たぶん"皆金色""此土浄土"て感じで。
それと浄土平の蓬莱山。
蓬莱山は徐福が不老不死の薬をもとめて旅立った目的地。
不老不死。
此土浄土、現世の浄土。
思想的に無関係かな?
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④権現
「名山の日本史」によると、日本古来の神々と仏が一体だったころ、名山には寺院が建立され、そしてともに神がまつられた。
"仏教の神社に日本の神様、なんか変じゃないか?"
"いや、ちがうのだ、実は日本の神様もその真の姿は仏や菩薩なのだ。"
"それはこういうことだ。
いいか、仏の教えがどんなに人々を苦しみから救うすばらしいものであるとしてもだ。
結局それは人の手によって伝えられるしかない。
そして日本は仏の教えが生まれた天竺から遥か彼方、海もある、どうしてもその伝来は遅くなる。"
"ではその間、うん、そりゃしょうがない、と仏は我々の苦しみを放っておくのか?
まさか、そんなことを仏がするわけがない。"
"そう、仏は我々を苦しみから救うために、その伝来のはるか以前から、日本の神という権(かり)の姿で我々の前に現れていたのだ。すなわち権現として。"
どうも、このような感じだったみたいです。
で、記憶頼りで不確かですが、これはキリスト教日本伝来最初期の話。
イエズス会の人達が自分たちの唯一絶対神を、やおよろずな日本人に説明しようとして、ゴッドを大日如来と訳し、結果、仏教の新しい宗派がやってきたという勘違いが発生、ある種、唯一絶対神の権現化が起こっちゃったという話となんとなく通じているような。
で、上記は建前として。
権現というくらいなので、何か仏さまが海を渡ってドカドカと日本に乗り込み、日本古来の神さまを無理やり力で押さえつけたような感じもします。
でも侵略者(笑)の仏さまが神さまを滅ぼさずに身内に取り込み、仲良く千年は共生したかと思えば、悪くない風景な感じもします。
ま、もともとは蘇我だ物部だと、上のほうでの思惑が戦争しちゃうくらい入り乱れまくったんでしょうが、一応日本人みずからがそれを選んだわけですし。
もしかしたらあれですかね。
廃仏毀釈を進めた人たちのなかにもあいつらは侵略者だという思いがありましたかね。
当時の国際情勢にそのまま重ねちゃったり。
そうそう、八王子の先の高尾山。(東京目線で)
僕も東京に住んでいる頃はよく初日の出を見に元日に登ってました。
山頂付近にお寺があり、関東一望、富士山も望め、いいとこです。
当然、この高尾山にも維新とともに廃仏毀釈の嵐はやってきたんです。
これも記憶頼りですが、戊辰戦争時、甲州勝沼で壊乱した新撰組の人達が潜伏したのが高尾山周辺の山々だったような。
また、新撰組の故郷、八王子同心など最後まで徳川側についた人たちの本拠地として、そのあたりはもともと新政府に睨まれた土地だったような気もします、もちろん高尾山も。
で、その高尾山にも飯縄権現という"日本の神"はちゃんといました。
もともと睨まれているお寺です。
廃仏毀釈のパターンとしては、飯縄権現が神社へ昇格?そしてお寺は廃止。
そんなもんだとおもいます。
しかし高尾山のお寺は、え~はい、このお寺、正式な名前を知りません、調べればいいだけの話ですけど。
"高尾山"で高尾山のお寺を指す、そう思ってもらえれば。
話をもどして、しかし高尾山は、その廃仏稀釈の嵐がくる前に飯縄権現の名の使用をやめ、鳥居も撤去、跡地には石灯籠を建立、仏のみの寺に(表向き)なったそうなんです。
そして神社ではなく寺として生き残り、廃仏毀釈の嵐が過ぎ去った後、といっても大正十五年、ひそかに堂宇の一つとして守っていた飯縄権現の名を復活、鳥居も再建、もしかしたら実質はずっとそうだったのかもしれませんが、見事に神と仏が共生する山岳信仰の場にもどったそうです。
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⑤ふとおもいましたが、ゴッドの権現化ではなく、大日如来の権現化か?ま、くんずほぐれつで
奥の細道、曇り空。
松尾芭蕉、曾良、白河の(故事としての)関を越え、阿武隈川を渡る。
左に会津根をあおぎ見つつ芭蕉の俳友等窮(とうきゅう)を訪ね須賀川に到着。
そこで"白河の関いかにこえつるや"と、等窮に問われ、一句。
風流の初やおくの田植うた
ん、会津根をあおぎ見つつって表現おかしいか?
二人がどんなコースを通ったのか今わからないけど、白河→須賀川で会津の山々だとそんなに近くはないよな。
ちなみにモトの文章は、"左に会津根高く、右に岩城、相馬、三春の庄"てな感じです。(奥の細道・山本健吉訳・解説)
"高く"だから、まあいいかな?
さて、二人は等窮の家を辞し、二本松より右にきれて黒塚の岩屋を見物したりしつつ、福島に一泊。
翌日、しのぶもぢ摺(ずり)の石をたずねて忍ぶの里を訪れ、一句。
早苗とる手もとや昔しのぶ擦
ちなみにこの句の最初の形は"五月乙女(さをとめ)にしかた望んしのぶ摺"、田植えをする女性を早乙女(五月乙女)というとか。
そうそう会津根高くといいますが、猪苗代盆地の海抜って500メートルこえているんですね。
つまり猪苗代湖は台上にあり、あそこがもう会津根か、それなら近いですね。
知らずにそこに立つととてもそんな実感はわきませんでしたが、調べて少しびっくりしました。
それじゃ猪苗代湖は山上湖と言ってもいいくらいですよね。
で、お隣の福島市で海抜60メートルくらいですか。
それだけで十分気候はちがいますよね。
ところで「日本の民話・福島篇(片平幸三編)」を読んでいると。
昔々、会津には磐梯山に腰掛けるような巨人の夫婦が住んでいた。
この夫婦は太陽の光をさえぎったり、猪苗代湖の水をふりとばしたり、散々悪さをし、会津の人たちを困らせていた。
ある日、貧しい身なりの旅の僧がやってきて、修法によりこの夫婦を壺の中に閉じ込め、磐梯山の頂上に埋めてしまった。
昔々、会津は何もない盆地だった。
ある日、貧しい身なりの旅の僧がやってきて、ある家の前で水を所望すると、その家の美女は"このへんは水不足だから"と、それを断った。
しばらくいくと、やや顔立ちのみにくい女が貴重な水を全部飲ませてくれた。
さて、次の日の朝、人々が起きてみると、盆地には一夜にして巨大な湖ができていた。
そして、断った美女の家は湖の中の孤島になって、水を全部飲ませてくれた女の家は湖のとても便利な場所になった。
そう、この貧しい身なりの旅の僧こそ、空海その人であった。
なんとなく西遊記な感じもしますし、なんとなくひどい(笑)気もしますが、以前書いた空海伝説のような昔話がいくつかのっていました。
やっぱり真言宗のひろがりとともに、このような伝説がひろく語られるようになったんですかね。
ちなみに最初の話は、空海とは(僕が読んだ本には)書いてありませんでした。
ところで芭蕉師匠。
平泉に行こうとして道に迷って石巻にいってしまったんですね。
思いがけず訪れた石巻の港の殷賑を極めたさまが奥の細道に描写されています。
で、その文中では平泉が"平和泉と心ざし"と表記されているんです。
平・和泉、なんでしょうけど、平和・泉な感じもいいですね。
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⑥そういえば、猪苗代から郡山に向かう時、山道をけっこうくだったような
僕が読んでいる奥の細道の解説を書いている山本さんは、昭和十八年刊行の雑誌の中で、曾良に止められて実行はしなかったものの。
"蝦夷が千島の見ゆるあたりまでも"
そう芭蕉が蝦夷地に思いをはせたのは、義経伝説の「御曹司島わたり」の跡をたどってみたいという思いがあったのかもしれない、とお書きになってますね。
そしてこれは山本さんが昭和五十年代にお書きになった文章かな?
柳田国男さんの「東北文学の研究」によると、東北地方を歩いた念仏聖をかいして、義経伝説が深く、具体的造形を持って庶民の中に浸透し、そして「義経記」がうまれた。
と、お書きになられています。
では、たぶん日本中にあるだろう空海伝説も、やっぱり念仏聖な高野聖をかいしてですかね?
さて、芭蕉曾良の旅の空です。
芭蕉一行も福島をたち、鯖野という場所で、義経の太刀や弁慶の笈(おい)を宝物とする寺で茶を乞い、一句。
笈も太刀も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)
ま、そうはいっても、これは奥の細道ではよくあることみたいですが、二人は義経所縁の石碑を参っただけで実際は宝物を見ていず、句も後につくったもので、最初の句は、"弁慶が笈をもかざれ紙幟"だったそうです。
で、また「福島の昔話」を読みつつ。
昔々、信夫郡(伊達の辺り?)平沢村に炭焼藤太という男が住んでいた。
ある日、藤太は買い物に行ったが、その途中にある池の鴨にお金を投げつけ、そして何も買わないで帰ってきた。
京から来た妻がびっくりすると、藤太はこういった。
「裏山をほると金なんかいくらでもでてくる。おしくない。」
この藤太、義経を奥州に連れてきた金売吉次の子であったとか。
昔々、弁慶に父を討たれ、復讐のために鎌倉から奥州にきた力自慢の兄弟がいた。
しかし弁慶は平泉ですでに死んでいた。
兄弟は鎌倉に帰る気にもなれず、磐梯山で盗賊になり暴れまくった。
しかし後に改心、神?に教えてもらった温泉で宿屋をはじめると、その温泉宿はとても繁盛した。
そしてこの兄弟が作ったといい伝えられている句が。
このところ黄金千杯埋めずおく、屋敷の里のみえるところに
昔々、倉吉という若者が磐梯山の御鏡沼で不思議な美女に頼まれごとをした。
倉吉がその願いをかなえると、毎日米三粒をあたえると金貨を生むという馬をお礼にもらった。
それから倉吉は毎日馬に米三粒をあたえ、金貨を得、裕福になった。
しかし欲が深くなり、一度に沢山の米粒をあたえると馬はいなくなってしまった。
そして倉吉の家も身もほろびた。
昔々、伊達の高子に熊坂という長者が住んでいた。
奉公人の三吉というのが、いつもずぶぬれで、へとへとになって彼の屋敷に帰ってくる。
熊坂が不思議に思い、三吉にわけをきいてみると。
「実は沼の中に黄金が輝いている、しかしどうしてもとることができない。」
二人で調べた結果、これは山の黄金が沼に反射しているのだ。
そこで山を掘ってみるとおびただしい黄金が
昔々、ほんとに昔、天平の世、奈良の都で国家をあげて大仏を作っていた時。
大仏に使用する鍍金(めっき)が足りなくなり、さしもの大業も頓挫しそうになった。
実は当時、金は日本にはないといわれていて、輸入にたよっていた。
そのとき、日本にはないとされた黄金が奥州で産出されたと報告があり、金九百両が急使でとどけられた。
これにより大仏を完成させることができたとか。
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⑦くがね花咲く
「平泉の世紀」によると、天平二一年、陸奥国守、百済王敬福(くだらのこにきしきようふく)から"わが国初の黄金が陸奥で産出された"との報告が公式にあった。
ころも大仏建造の鍍金がなくなり挫折感が朝廷に満ちていたとき。
天佑神助、仏のめぐみだ、ありがたや、と、この年、天平感宝、天平勝宝、と二回も元号が改まった。
越中国守、大伴家持がこれを聞き一句。
すめろぎの御世栄えむとあづまなるみちのく山にくがね花咲く
そして三年後(よね?)の天平勝宝四年、陸奥国多賀城以北の諸郡の調庸(ざっくり租税ということで)は黄金で、と、制度化された。
ちなみに多賀城以南は従来どおり貢布で、そして、さらに北方の地帯は貢馬とされた。
これは「宮城の昔話」からだったかな?、そのころの昔話で。
昔々、坂上田村麿が東北地方の賊を征伐に向かう前、偉いお坊さんから尊い仏像のあまりでつくったという木彫りの馬をもらった。
さて、征伐にむかった田村麿たちが賊に負けそうになったとき、どこからともなく百頭の馬がやってきた。
そして彼らはこの馬にまたがり賊を退治した。
「名山の日本史」の著者の高橋千劔破さんは、ほとんどの伝説や史書が坂上田村麻呂や源義家を東北地方を平定した”英雄”として扱っている。
征服された蝦夷の側を征伐されてしかるべき”賊”としている。
しかし蝦夷からみれば、これは一方的な侵略で、賊扱いされるいわれなどないだろうと。
そういえば、「水曜どうでしょう」の四国お遍路をみて、ちょっと興味をもっていたんですが、四国の札所にもあたりまえに廃仏毀釈の嵐はきてますね。
石鉄蔵王権現が石鎚神社となった石鎚山の六十番札所横峰寺は明治六年に廃寺。
横峰寺とともに平安以来の石鎚山の山岳信仰の中心となった前神寺。
この寺は当時の住職が廃仏稀釈に激しく抵抗するも、原因不明の火災で焼失。
明治八年、石鎚山の中腹にあった本寺(という言い方でいいのか?)は廃寺となり、その名は山麓の末寺に移された。
ただしこの時、前神寺という表記を前上寺に変えさせられた。
そして三十年以上のち、明治四十二年にやっともとの名に復した。
明治六年に廃寺となった横峰寺も、別地で大峯寺と名を変えてようやく存続することができた。
そして同じく明治四十二年、こちらは元の境内を神社から譲渡され横峰寺として復することができた。
もちろん「名山の日本史」を読んでますが、横峰寺や前神寺が山岳信仰に深く関わった巨刹であるのにその歴史がよくわからないのは、この神仏分離の廃仏毀釈で致命的な打撃を受けたからだろうと。
でも、もとにムチャがあったわけですが、明治四十二年てのは日露戦の勝利も気分的に関係してますかね。
勝った、勝った、もう西洋の侵略にビクビクしている時代は終わった、これからは日本もどんどん発展するさ、細かいことはもういいだろう、てな感じで。
ま、そんな時、ま、適当に書いてそんな時もないもんですが、夏目漱石は、自作の登場人物の口を借りて。
(日本は)滅びるね
と言ったわけですが。
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