Saturday 26 October 2013

え~現在(2013/10/25)、このドラマに関しては結局暴かれない巨悪「原種臣」の名とともに少々違う感想をもっております。細野晴臣さんを連想したわけではない、ということは明記しておこう

Ⅰ:点と線

昨日(2009/10/10)、放送されたビートたけしさん主演の「点と線」。
二年前に二夜連続で放送されたものを原作者の松本清張さん生誕百年にあわせて今回一本の作品に再編集のうえ再放送と。
僕は前回の本放送をみてないので昨日は新鮮な気持ちでみれました。

で、ビートたけしさんは番組開始そうそう福岡の古参中年刑事、鳥飼重太郎として登場。
「あれ、たけしさんその役なの?」とちょっと思います。

だって原作では物語の導入部となる心中事件(実は殺人)は確かに福岡で起こりますけど、途中から話の重心は東京近辺に移りますからね。死亡した男性を別件でマークしていた、東京の警視庁から福岡に心中事件の調査に派遣されてきた刑事三原紀一と共に。

でもたけしさんがやるのはやっぱり鳥飼しかないよな、とも思います。
だって警視庁から派遣された三原は年齢三十そこそこだし(原作)。
福岡の中年刑事がビートたけしさん、警視庁から派遣されてきた若い刑事が高橋克典さん。ちょうどいい感じな気がします。

でもどうするのかな?原作では途中で三原が東京に帰ってからは鳥飼の出番は手紙くらいでほとんどないからな。
かといって主役のたけしさんを福岡の中年刑事に配役したからには後半出番なしとはいかんでしょう。
無理やり話しの力点を福岡にするのかな?どうするんだろう?興味津々。

・・・おっと、そうきましたか!

なるほどね。鳥飼さん無理やり東京に行っちゃうのね。で、三原さんとコンビを組んで事件の捜査をするわけね。
原作では三原さんが気づく「四分間の空白」も鳥飼さんが気づくように改変されるわけね。

よくよく考えたら、「そんなアホな!?」と思わんでもないですが、テレビドラマの脚色としては僕的にはこの改変は許容範囲でした。




これは脚本家の方ご自身のメッセージなのか、ドラマの企画会議で決まったメッセージなのか、はたまた別のなんなのかは僕にはわかりません。
原作にはない鳥飼と犯人安田の対面(精神的対決)シーン。あそこで鳥飼が語っているコトはまことに正しくその通りだと思います。
「この事件の犯人は、軍隊で人の命の大切さがわからなくなった可哀相な、ある種戦争の被害者だ」的な(ドラマの中の時代は戦後十年経過くらいです)。

でも、僕はそれを聞くとドラマに引き込まれていた心が途端に醒めてしまいました。
訥々としたたけしさんの台詞まわし僕は好きですが、その時は何かたけしさんが腹話術の人形にでもなっちゃったような気さえしました。

人によってはそこに感動したって人もいるでしょうから、あくまで僕の個人的な感想ですけど。

せめて原作にはないメッセージ(ある種イデオロギー)は役者の台詞としてストレートにメッセージとして語らせるのではなく、違う表現方法で視聴者に悟らせるって無理なんですかね。

「点と線」の原作の中にはなくても、これはそもそも松本清張さんの思想だ。
もしくは違う松本さんの小説の台詞を使っただけだということかもしれませんが、僕はやっぱり嫌いです。
ドラマが薄っぺらくなる元凶だと思うから。





Ⅱ:空気

僕が昔の日本映画を観るのを楽しみにしているのは、そのフィルムの中に昔の「空気」が真空パックされてるからってこともあります。
どんな種類の映画でも、その映画を作った時代の「空気」は基調低音として流れており、逆にそこから逃れるのはなかなか難しいことだと思います。これは別に映画にかぎらないコトかもしれません。

これはテレビドラマですけど、僕がこないだ書いた、ビートたけしさん主演の「点と線」への違和感。
これは松本清張さんが原作を書かれた昭和三十年代前半と、このテレビドラマが製作された平成二十年前後の時代の「空気」の違いに対してかもしれません。

というのはさておき、単純に映像に残る昔の風景を見るのが楽しいってのもあります。
昔の東京の道路の頭上はほんとに路面電車の架線で埋め尽くされているなとか。

あとはやっぱり、当時の風俗、ファッションとかビルや車や生活用品などのデザインや色彩がみててすごく楽しいですね。

特に車。
昭和三十年代前後の消防車や救急車(たぶん)、すんごくカッコいいんですけど。
一番機能性を大切にしないといけない車両だから無理な話だけど。是非このデザインの復活を(アレンジはOK)!と思ってしまいます。

これは「空気」の中に入るだろうけど、当時の人の日本語のボキャブラリーや発声のアクセントも聴いてておもしろいです。




Ⅲ:センス

いえね、Musicではね、若いころからそのケはあったんですよ。わりとシンプル好きというか。
つうても僕は遅れてきたNew Wave少年でしたからね、ギミックやキッチュは大好きなんで、結局のところは例によって個人の「センス」ってトコに落ち着いちゃうんですけどね。

まあそこも踏まえた上で僕はわりとシンプル好きなんですよ。
ギミックやキッチュを含んだシンプル。随分無茶を言ってますが、たぶん100人中3人くらいは僕と似たような「センス」の人もいるのではなかろうかと。

もちろん同じとは言いません、あたりまえですが。

いろんなデザインとかでもシンプルなモノにひかれる傾向があります。


で、話は変わって銀閣。(通称ね)

まあ、当たり前にお会いしたことはないので、関する本を読んで、見て、での感想になりますが、銀閣を建てた足利義政つう人は政治家・為政者としてはとんでもないダメダメ君だったみたいだけど、その「センス」には正直ちょびっとひかれてしまいます。

「馬鹿。銀閣を建てたのは足利義政ではない。当時の大工達だ!」つうまことにごもっともなご意見もありますが、やっぱり足利義政さんの「センス」あっての銀閣だと僕は思うので、銀閣を建てた足利義政と言っちゃいます。(造営といえばいいのかな?)

まあ当然「センス」の中には義政さんの周囲にいた人たちの「センス」も混じっているでしょう。組織のトップの人間は精神的に孤独だろうけど、だからといって人間は独りで存在できるものじゃないですしね。

足利義政さん、今生きてたらどんな"Art"をみせてくれたかな?
いろんな縛りから放たれてさ。
ひとりの人間として。

もちろん今の世にも抑圧はあるよ。それもかなり強力な抑圧が。でも"Art"に抑圧は悪くない気もするんだよね。それで潰れるんならそれまでだしさ。




Ⅳ:差異と反復

点と線。

我ながらしつこいんですが、こないだ確認のために録画しといた奴を観直しちゃったんで。

松本清張さんの原作では、総ての発端の心中事件が起こった福岡から、真犯人が蠢く東京に小説の中盤で舞台が移るために、福岡の古参中年刑事鳥飼重太郎はほぼ前半部だけの登場となります。
その後は福岡に心中事件の調査に派遣されてきた警視庁の若き刑事三原紀一が活躍し事件を解決に導きます。主役は三原、鳥飼はあくまで脇役です。

しかし今回のドラマでは鳥飼刑事をビートたけしさんが演じたために、原作と違いこの鳥飼刑事は独断で東京に行き、高橋克典さん演じる三原刑事とともに事件を捜査します。そして時刻表の問題など、原作では三原刑事が解くトリックも鳥飼刑事が解くことになります。

が、前も書きましたが、僕は現実離れしていてもテレビドラマ化の脚色としてはこの変更は全然アリだと思います。


それよりもラスト。逮捕状が出るも一足遅く自殺してしまう犯人夫婦。妻を愛する夫。夫を愛する妻。しかし健康を害し、自分の身体が弱いために、夫が愛人を持つことを認める妻。そのお金は妻のもとからも出ている。これは一緒。


原作では(あくまですべてが終わった後の三原刑事の想像ですが)、この愛人の女性を夫の道具と割り切り、最終的に「情死」にみせかけ殺し利用した妻。もちろんそこには自分も"公認"の夫の愛人に対する歪んだ嫉妬もあるだろう。最後の夫婦心中もおそらく自分の死期が近いことを悟った妻が夫をだましておこなったもの。恐るべき女。血も冷たい女。
そして三原刑事は夫婦が心中してくれてホッとした。状況証拠ばかりで物的証拠がなにもない。逮捕状自体よくとれた。公判になるとどうなるかわからなかった。


ドラマでは、現在政界の大物として君臨する戦争中の上官のために暗躍する夫。手を取り合って死んでいく夫婦。そして福岡に帰る夜汽車の中での鳥飼刑事の「女ちゅうのは弱いけん、男に惚れて惚れて死んでいくとです」の台詞。夫婦が死んだ事により結局巨悪は暴かれずに終わる。

まあ小説のドラマ化ではこれもよくある話だろうし、どちらも夫に惚れてるからこそ、結局同じコトを言っていると言おうと思えば言えるかもしれません。「私達はそう解釈した」ってな感じで。





原作には無い、犯人夫婦の夫に対する鳥飼刑事の「事件の犯人は戦争で人の命の大切さがわからなくなった哀れな人間だ」みたいな台詞、やっぱり僕には違和感ありまくり。
ま、現実に松本清張さんが原作を発表された昭和32年にはそんな人達も現実にいたんでしょう。何せ戦後まだ12年。当たり前のこととしてそこら辺にいたんでしょう。当たり前すぎて、そんな台詞は出しようがなかったでしょう。

これも前書きましたが、せっかく"昭和30年代"だと気持ちよく騙されて観ていたら、いきなり平成の看板を持った人間が画面の中に出てきて「ドッキリカメラで~す」とにこやかに宣言されたみたいな感じがしちゃいます。


結論としては、作品の質が良い悪いとは全く別の所で、松本清張さんの原作とこないだのテレビドラマは同名異曲、結局違う話なんじゃないか?と個人的には思っちゃいました。根本的に事件の質自体が別モンになっちゃってる気がします。それにまつわる人間模様も。

もしかしたら時刻表のトリックとか、最初の福岡の香椎の浜での情死事件のトリックなど、作品に出てくるトリックの内容さえ改変しなきゃ「点と線」だろう。それ以外、話の筋や犯人の内面とかは、どう料理しても別にいいんじゃね?つうコトですかね。

テレビではいちいち登場人物の細かい内面を言葉で説明できないし、わかりやすくしなきゃいけないんだ、みたいな。
そうそう、具体的な"人"として巨悪も出しとけ、政治家を出しとけ、みたいな。
ちゃんと「本当に悪いのはこの人ですよ」と視聴者の人に噛み砕いて教えてあげないと、みたいな。
「結局は暴かれない巨悪、”悪いやつほどよく眠る”をやっときゃ松本清張なんだよ」、みたいな。


ドラマでは柳葉敏郎さん演じる、官庁方面への商いをしている犯人夫婦の旦那さん。
いえね、あくまで僕としては原作はこの人のピカレスクロマンとして読めんこともないんです。かなり無理やりですが。小粒な男の意思を持った野望物語ではあるんです。
そしてそこに絡んでくる奥さん。

シェークスピアの舞台劇みたいな感じもあるんです。

でもドラマの方は。






Ⅴ:内面の発見

次回の東宝特撮映画DVDコレクションは「ガス人間第一号」(昭和35年12月11日公開)です。
この作品は東宝特撮映画変身人間路線の第3弾らしく、続発する銀行強盗、翻弄される警察、そこには謎のガス人間の影が!!と、同じ特撮映画でも怪獣映画とは一味違う魅力があり今からもうワクワクドキドキです。

で、例によって作品内容の事前情報はなるべく仕入れないようにしていますが、前号の付属データファイル次号予告を見ると八千草薫さんが今作のヒロインみたいです。
今もお美しい八千草さん。その八千草さんの半世紀前の可憐なヒロインっぷりもまた楽しみです。
つうてもヒロインは(多分)主役の連続銀行強盗犯でもあるガス人間第一号さんの関係者で、警察に目をつけられた最初の重要参考人ぽいし、よくあるお供え物の可憐なヒロインとは一線を画した存在かもしれません。

昭和29年11月公開の「ゴジラ」とほぼ同時期に製作され・誕生した同年12月公開の「透明人間」。
その東宝特撮映画変身人間路線の第三弾こそが昭和35年12月公開のこの「ガス人間第一号」。
どうしても当時の最新特撮技術を駆使したワクワクドキドキにピカレスクなロマンを期待してしまいます。

どうせ発売はスグだし、内容は何も調べてないので全く違うかもしれませんが、是非(多分)主役のガス人間第一号さんは惚れ惚れするような悪漢であって欲しいです。
内面は別にいりません。反省も別にいりません。僕は別にいりません。ただ、できれば、かなう事ならば、第一号さんはもう己の欲望のみに生きてて欲しいです。
特定の誰かとか国家への復讐が私の動機です、てのも僕は別にいりません。が、これはしょうがないので、そうであっても別に僕はかまいません。

もちろん観てみたら主役は刑事で、実は第一号さんはただの脇役・敵役でした!つうオチもありえますが、それはそれと言う事で。




Ⅵ:千のプラトー

さて東宝特撮映画変身人間路線第三弾「ガス人間第一号」です。
ちなみに当時のポスターには"空想科学映画第三弾!"と書かれています。

まず、変身人間路線の第一作を昭和29年12月公開の「透明人間」だと昨日書きましたが、どうも昭和33年6月公開の「美女と液体人間」が数え方として第一作みたいです。
もちろん「透明人間」という作品は確かにあるんですが、「美女と~」が好評だったから、この路線をもうちょい掘り下げてみるか?つう感じだったんですかね。そこから割と立て続けにこの路線の作品が製作されています。

まあ考えてみたら「ガス人間~」が公開されたのは「モスラ」公開の前年。
実際にすべての作品を観たわけではなく、付属ファイルのシリーズラインナップの作品名を見ただけですが、当時はまだ"東宝特撮映画=怪獣"という図式が固まる前で、いろんな可能性が試されている気がします。冒険・実験がなされている気がします。もちろん特撮技術についてだけではなく、それを生かした空想映画としての可能性を。

しかし変身人間路線もこの「ガス人間~」が最後っぽいです。(三年近く後に「マタンゴ」つう作品が製作されていますが)
そして、正義の味方ゴジラさんと愉快な仲間達vs悪徳怪獣つう図式に”基本的に”収束していきます。もちろんそれも悪くないんですが。

いえね、マジで面白いんですよ「ガス人間~」。
やっぱり主役は三橋達也さん演じる刑事さん。土屋善男さん演じるガス人間は脇ではありましたが、当たり前に充分すぎる存在感。
大学進学の望みも叶わず、ジェットパイロットになるという夢も自身の体格で絶たれ、将来に何の希望も持てずに虚無的に為っていたトコをマッドサイエンティストにつけ込まれて哀れガス人間へと改造された若者水野。
身体を思い通りにガス化させることができるという望まずして手に入れた無敵な能力を、愛する女性の為に使う水野。それこそガスのように捉え所の無い"空虚"に対する怒り・憤り・嘆き・嘲りをそこに昇華させ、それを自身の存在理由とする水野。そのためには人を殺すこともいとわない。もしかしたら八千草薫さん演じる落剥した日本舞踊の家元藤千代を愛することで崩壊しそうな自身の精神をつなぎ止めている水野。「君のため」と言いながら自身の虚無感に藤千代を引きずり込む水野。
そんな水野を人間社会に紛れ込んだ異物、あってはならない危険な存在として処刑抹殺しようとする警察。
そしてすべてを理性で悟った上で「情鬼」となる藤千代。

無茶はありますがええ話です。ちょっと雨月物語な感じもします。もちろんこないだのシェークスピアに引き続き適当です。


でも映画の冒頭、車で逃走中の銀行強盗犯を警察が追跡。すると犯人の車は山中で道を踏み外し崖下へ転落。しかし死んでいるか大怪我をしているはずの犯人の姿はどこにもない。困惑する警察。そのとき何処からか聴こえてくる鼓を打つ音。その音を辿って草深い路を行くと屋敷が在り、そこでは夜叉の面を付け舞い踊る女性の姿が・・・

なんて今の話としてやっちゃったら、まんまオバケ話になっちゃいますかね。

でも空想科学と日本舞踊。この感じ、いいなぁ。
当時はまだ当たり前にこの組み合わせにリアリティあったのかな?





Ⅶ:神々の黄昏

ということはあれですな、「ガス人間~」、考えてみたらこの変身人間路線が映画で続かなかったのは、テレビの大衆への本格的な普及の影響かもしれませんな。
怪獣が画面狭しと大暴れする作品と違い、日常の隙間・怪奇を描いた作品はテレビの小さい画面にぴったりだったから、そっちにコンテンツが流れていったとか。

え~と、テレビドラマ「怪奇大作戦」は昭和43年ですか?「ガス人間~」公開から8年後か?
ん~ダイレクトに結びつけるのは無理ありすぎるかな?「マタンゴ」からでも5年後くらいか?
それに考えてみたら怪獣だって昭和41年の「ウルトラQ」から(かな?)テレビ進出果たしてるもんなぁ。

うん、よくわからんな。
単純に不入りだったのかな?大衆の一番身近なエンターテイメントとして栄華をきわめた映画産業も、テレビにその座を奪われてだんだん斜陽に向かっていく時期だろうし、もう金が稼げる映画をつくらなあかん、首がまわらん、特撮映画部門ならそれはやっぱり子供達のヒーローゴジラだろう、だいたい気を抜くと空飛ぶ亀にその栄光の座をひっくり返される、それに子供が映画館に来るっつうことは自動的に大人もついて来るっつうことだもん、てな感じだったのかな?

それともただ単純に特撮技術の進歩にともない、特撮ありきの怪獣映画ではなく、「ガス人間~」のようにドラマの一部としての特撮は、もう当たり前すぎて特撮映画と認識されなくなっていったのかな?

うん、それはないな。
あれかな?何となく日本が世界を先行していた怪獣映画と違い、日常の怪奇みたいなのは「トワイライト・ゾーン」とかアメリカの怪奇番組の焼き直しみたいなイメージを与えちゃったのかな?当時「トワイライト・ゾーン」とか日本でも普通にテレビ放送してたんだろうし。
もっと時代が下がっても「奥様は魔女」とかやってたし。

でも、ルーツをたどれば・・・みたいなのは別にこのジャンルに限らんし、それが駄目なら「怪奇大作戦」みたいなテレビ作品が製作されるわけないな。

うん、やっぱりよくわからんな。
今回はよくわからんつうことがよくわかったな。


ただ一言、「ガス人間第一号」はおもろいです。
科学と幽玄。理性と情念。製作した人達、演じている人達にもそれはまだ現実感をともなったものだったのでしょう。違和感無く交じり合っております。絶妙です。
もしかしたら、高度経済成長と共に豊葦原端穂国に暮らしてきた人達が代々つちかって来た魔法がとける、その最後の時期ですかね?

まあ何にしろ「ガス人間第一号」はおもろいです。




Ⅷ:ピカレスク

で「だんだん斜陽に向かっていく」と昨日何気に書きましたが、この没落な感じで"斜陽"と言う言葉を日常的に使うようになったのは、太宰治さんが敗戦後の社会変動の渦の中に没落していく上流階級の人々を描いた小説「斜陽」を書かれて以降ですかね。
"斜陽"が落ちぶれていくみたいな意味を持ったのは。

まあ、夕暮れな日差しとしての"斜陽"という言葉自体は、まったりとのりたまな感じでそれまでも在ったんですよね。変わらぬ日々に飽き飽きしつつ、たまには欠伸の一つもし、夢見るような夢を見て。

太宰さんはそんな"斜陽"さんが自分でも気づかなかった"落ちぶれる"という妖しく抗しがたい真の姿、真の魅力をその類まれな感性で見出したのだろうか?
それとも太宰さん、甘ったれた田舎のお大尽のお坊ちゃんらしく、ある時は高貴な"斜陽"さんの頬をその類まれな自尊心により引っ叩き、ある時は無垢な"斜陽"さんにその類まれな詐欺師的能力で甘言を弄し、そして"落ちぶれる"という自分色に無理やり染め上げたのだろうか?
"斜陽"さんに消える事の無い永遠の傷跡を残したのだろうか?


まあ何のことやらわからない。書いてる僕にもわからない。

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