Sunday 20 October 2013

2009年8月21日からOCNカフェという場所にブログを書きはじめ

はっきりした日付は今わかりませんが、翌10年11月中頃から年末まで、それまで書いた文章を同じようなテーマでまとめてみました。

これはその再掲です。
(OCNカフェは閉鎖になり、現在そのブログは残っていません)
 
ちなみに、まとめた時、文章の変更、省略をしています。
今回も行うかもしれません。
その全てではもちろんありませんが、この文章は最初に書いたそのまま、というわけではありません。
特に、タイトルは変更することが多いかもしれません
 

overture:永遠の旅人

藤田嗣治さん

明治19年に東京で軍医の子として生まれ、成人後パリへ渡り、「乳白色の肌」に代表される独特の技法と感性で20世紀初頭にパリで勃興した多様な感性の可能性「パリ派」の代表的な画家と目されるまでになります。

フランスでの社会的成功後、日本とフランスを行き来していましたが、第二次大戦を機に本格的に日本に帰国します。
そして戦後、戦時中に軍の要請で描いていた戦争画により「戦争協力者」としての(政治的と言っていい)集中的非難を受けます。

その後、再び日本を離れ渡仏、晩年にはフランス国籍を取得され、スイスで1968年の1月に亡くなるまで日本に帰ることはありませんでした。そして、死後パリ郊外のヴィリエ・ル・バクルに埋葬されたため、藤田さんはもう二度と故郷に帰ることがない永遠の旅人になられました。

しかし、藤田さんはフランスの国籍を取得後、日本国籍を抹消されていますので、これは当たり前のことなのかもしれません。

僕はこの人のことを思うと、いつも、ぼんやりと、この詩が頭に浮かびます。


ふるさとは遠きにありて思ふもの


えっとですね、昔録画した坂本龍一さんが出演されたテレビ番組を流しながらこの文章を書いているんですが、坂本さんがニューヨークに渡られてから二十年ですか。

「最近、やっぱり日本で死にたいと思ってる」と仰られていますね。
「日本の土になりたい」と


で、これはネットで調べて知ったんですけど、藤田嗣治さんに寄り添い、その最後を看取った妻、君代さん。
去年の4月2日に東京でお亡くなりになっています。

遺言により、君代さんの遺骨は夫の嗣治さんがフランスのランスに亡くなる三年前に建てたフジタ礼拝堂に埋葬されたそうです。
このフジタ礼拝堂には2005年にヴィリエ・ル・バクルから嗣治さんの遺体も移されています。

この小さい小さい礼拝堂の中は80歳を過ぎた嗣治さんによる初めての!フレスコ画やデザインされたステンドグラスの色彩で満ちています。
そしてそのフレスコ画の中の聖母マリアとイエスに祈りを捧げる沢山の人達の中には嗣治さんと君代さんのお姿も描かれています。


永遠の旅もご夫婦がご一緒ならさみしくもないか




Ⅰ:Metamorphoze

さて、立花隆さんのご本に「ぼくはこんな本を読んできた」つうのがありましたわね。まあ、僕、読んでないんですけどね。
いえね、僕は結構本を購入はするんですけどね、購入した時点で"了"となることも多いんですね。
で、そのままその本の存在を忘れ去るみたいな。

んでですね、たまに一念発起してやる部屋の掃除とか整理とかの度に、そんな存在を忘れ去っていた本達がわっと出てきて、まさに「僕はこんな本を持っていた!」な感じになることも多いんですね。



そんだけの話なんですけどね。


で、ですね、またですね、出てきたんですね、本が。
今西錦司さんがお書きになった「進化とはなにか」つうご本なんですけどね。

で、「あ!俺こんなん持ってったか!」とパラッと本を開いてみたら

『(私は)今日のすでに完成をみるにいたった生物というものは、自然状態において、けっしてランダムな突然変異などしていない、という。もちろん、突然変異の可能性を否定するわけではないが、必要もないのに突然変異なんかしない、というのである。しかしそのかわり、必要が生じたときには、生物のほうで、突然変異のレパートリーの中から、これぞという切り札をだすことによって、危機を乗りきろうとする。それも、一匹や二匹の個体が問題なのではない。同様の個体である以上は、危機にのぞんで、どの個体もが同一の突然変異を現わすものでなければならない。同種の個体とは、そういうときにそなえて、はじめから、同じものとして作られているのである。』

つう文章が目に飛び込んできたんです。
つうかまだそこ(だけ)しか読んでいないんです。

ンでですね、前後の脈絡関係無しにソコを読んだ僕の頭に浮かんだ言葉は"Synchronicity"
共時性って奴ですね。

生きてりゃたまにありますよね、不思議な偶然の一致って。
まったくの他人同士が同じようなこと考えてたり、行動してたり。
世界中でまったく無縁な人達が、同時期に同じ「何か」を志向し始めたり。

共時性って奴はもしかしたら人という種に最初から具えられた、突然変異のレパートリーの一端の軽い発露現象なのかも!



そんだけの話なんですけどね。


で、ですね、でも共時性はどちらかといえば、人類・地域・国・民族・町内・家族などなど規模はそれぞれでしょうが、その共同体が内包・共有している無意識の発露現象ですかね。

ま、そういう無意識も含めての突然変異つう考えもアリですかね。
しかし全人類の意識の変革が行なわれたとして、それが種の変革たりえるのだろうか。


ちなみに、繰り返しになりますが、僕は今西錦司さんの「進化とはなにか」は、今現在、そこ(だけ)しか読んでいません。



Ⅱ:あきれて物も言えない

今西錦司さんの「進化とはなにか」。
ちょこちょこ、ちょいちょい、まったり、じっくり、読み始めてます。

でも僕は年齢的に今西錦司さんの謦咳に接したことはありませんし、能力的にもまた無理だったと思います。

しかし僕は読んでいると妙にソワソワしてきて、本を置いて自転車であてもなくかっ飛ばしたくなる”今西進化論”の内容ももちろん好きなのですが、実際はイロイロつまみ読みした程度で、そのように言えるほど詳しくはありませんが、それよりも前に、何でか句読点が多い感じが個人的にしてしまう、今西さんがお書きになる文章のリズム感が大好きなんです。
もちろん他の方が文章におこされたのでしょうが、対談での今西さんの言葉のリズムも好きです。

で、これも少し古い本になりますが、「EV・cafe」の中の村上龍さん・坂本龍一さん・蓮實重彦さんの鼎談の中で、村上さんが『(「脊椎動物の進化様式」つう本を読んだら)次代の文化を担うのは、おそらくアフリカ人だろう(略)アフリカ人だけが(飢餓・資源の枯渇・人口問題など)次の世紀の問題に前適応しているから』と。←注;引用した文章、僕がちょっと変えちゃってます


んで、あのう、ちょびっと思うのですが

現在、日本国はもう無茶苦茶。将来お先真っ暗。なんでこの国だけこんなに上手くいかんの。
と、思ったりもします。



ほんとにちょびっと、今後紛争やテロしか許されない(語弊がある言い方ですが)ぼんやりとした平和な状態が地球規模で続くとすると、世界がまるまる日本化する可能性も無いこた無い気もします。
今、日本が七転八倒している諸問題が、火山の大噴火の雲煙のように世界中をおおいつくすことも無いこた無い気もします。

世界規模でもう無茶苦茶。将来お先真っ暗。なんで世界はこんなに上手くいかんの。
みたいになる可能性も無いこた無い気もします。

んで、その時こそ、それらお先真っ暗無茶苦茶カオス状態に無駄に前適応しきっていたうちら日本人の出番が!!


みたいな。


それこそ、「やっぱり日本のアニメや漫画は日本語で読まないとその真の良さはわからないよね~」みたいなことを、日本語以外の言語で世界中で言いまくる日本起死回生の大陰謀「世界日本化計画」!!


みたいな。


何も日本が国際化しなくても、国際が日本化すりゃ、そりゃ立派な国際化だ!!


みたいな。


赤信号みんなで渡れば怖くない!!


みたいな。



えっとですね、本当にそんなこと言うと、確実に?なナショナリストと思われるので、絶対にやめましょうね。危険です。




Ⅲ:現在の日本社会は人類という"種"の突然変異

瞬間風速で書きますよ。

あれですよ、やっぱり現在の日本社会は人類という"種"の突然変異ですよ。

んで『突然変異ははじめから方向性をもち、おこるべき必要にせまられておこる』、つまり「通信・交通」あらゆる意味においてあまりにも狭くなり、価値の衝突を繰り返すこの混沌とした世界への、もうなんでも別にいいじゃねえか、我の存在を認めろ、もちろん君の存在も認めようないい加減な社会への『進化に導く突然変異』ですよ。

もちろん突然変異したモノによる、それ以外のモノへの駆逐、自然淘汰がその後行われるわけではまったくなく、あくまでこれは人類という"種"そのものが新しい状況に適応するための進化の過程の最初の発現にすぎないわけですよ。

『形態的・機能的ないしは体制的・行動的に同じようにつくられた同種の個体は、変わらねばならないときがきたら、また同じように変わるのでなければならない。したがって、この変化をもたらす突然変異は、任意の個体におこって、そこから遺伝的に拡散してゆくだけではなく、原則的にいうならば、そのような突然変異は、遅かれ早かれ、種の全個体におこる』わけですよ。


つまり世界が将来日本社会化するのは、自明なんだね。





「やっぱり現在の日本社会は人類という"種"の突然変異ですよ」

この段階ですでに言ってること無茶苦茶やけどね



Ⅳ:進化とはなにか

でもこの本を読み進めると、進化とは、とどのつまり"種"のたんなる「成長・一生」である、という気もちょびっとしてきますな。

当人が望むと望まざるにかかわらず、最初は"種"として赤ん坊で、あとは自動的に大きくなり、そしてある時点でその上昇カーブは止まり、こんどは成熟でも老化でもなんでもいいんですけど、そんなゆるやかな下降線の「成長」を続け、最終的に"種"としての死にいたると。

ま、思いっきり「人の一生」をイメージして、そこに"進化"をかさねてしまっていますし、なんか最初からすべてが仕組まれていた、それこそ神の存在でも感じかねん甘えた考えかたですかね。
まあ今西さんのご本を読んでいたら、ちょびっと僕の頭をかすめたっつうことで、与太話で流してください。

でも『進歩とか発展とか開発とかいうようなことをいうけれども、無限の進歩も無限の発展も無限の開発もなくて、けっきょくは、ほろびる。』『進歩や発展だけをみて、衰退や滅亡を考えないというのは、一面的なものの見方である。なにもやるだけのことをやって滅亡するんなら、いわば天寿を全うしたようなもので、大往生をとげるのであるから、人類は滅亡してもいいんじゃないか』

こう今西さんが言いきられるのはすごいと思います。もちろん、この言葉だけをいきなり言われてもすごいとは思いません。たぶん、アホだと思います。
巨大な知性が考えに考え抜いた末にこう言いきられるのはすごいと思います。

でも、やっぱり、僕は生きて滅亡の時にぶちあたりたくはないですし、その時にぶちあたった人類の皆さんはやっぱり不憫です。



Ⅴ:読了

で、最後まで読んだ結果、「最初からすべて仕組まれた・・・」てトコ、やっぱり今西さんも普通にぶつかられていますね。

『「見えざる手」というとなんだか自然から超越したものが、自然にはたらきかけ、生物をあやつっているかのように受けとられやすいが、「見えざる手」はおそらく生物の外にも生物のなかにもひそんでいるのであろう。』
『地球のすべてがはじめから「見えざる手」にみちびかれて進化してきた、というかわりに、地球のすべてがはじめから自己完結性にみちびかれて進化してきたといっても、けっきょくは同じことであるかもしれない。』
『そうだとしたら「見えざる手」というような誤解を招くおそれのある言葉を使うよりも、自己完結性といっておいた方がいくらか無難であるのかもしれない。』
『ある種のサルが人類に進化したということも、生物全体社会がその自己完結をめざすうえで、いつかは実現させねばならない問題だったのかもしれない。』


え~、またちょびっと頭をかすめてしまいましたが、つまり”進化”とは「死に至る病」ですか?



Ⅵ:死に至る病

「死に至る病」ってエヴァンゲリオンにあった気がするけど、それ以外でもこの言葉を見た気がする。

つうわけで、確かあれじゃないかな?と本棚をゴニョゴニョして取り出したるは大江健三郎さんの「河馬に噛まれる」


”死に先だつ苦痛について”


あれ?違うな。

ん?じゃあ、あれだったかな?と本棚をゴニョゴニョして取り出したるは柄谷行人さんの「日本近代文学の起源」


”病という意味”


あれ?違うな。


勘違いかな?それともそういう言い回しが普通にあるのかな?



Ⅶ:遠きみやこにかへらばや

僕の祖父は北海道で生まれ、九州で亡くなりました。

祖父は天寿をまっとう、大往生といってもいいと思いますが、晩年は望郷の念を抑えられずという感もあり、何度も北海道を訪れています。

しかし、祖父の望みがかなわないこともありました。

終の住み処となった九州と北海道では、その冬の厳しさは天と地ほども違うと思います(僕は北海道の冬は未体験なんでどこまでも想像です)。
だから祖父の熱望はあるものの、健康上の心配もあり、冬の季節の帰郷はかないませんでした。

祖父はそれが非常に心残りで、もう一度故郷の雪を自分の両足で踏みしめてみたかったみたいです。
大正初頭くらいですかね、祖父が子供のころの冬のある日、家に遊びに来たアイヌの人達と家族皆で楽しく酒盛りをした思い出を懐かしそうに話していました。
本当に皆仲が良かった、助け合って暮らしていたと言っていました。

まあ「ふるさとは遠きにありて思ふもの」とは言うけれど、あの詩ほど強い「望郷」を詩ったものはそうそうないですよね。

どんなに厳しい環境が待っていても帰りたい。
もしかしたら自分の記憶の中にしかもうそれは存在しないのかもしれない。
それでも帰りたい。

ふるさとってのはそういうもんなんですかね。

遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや



Ⅷ:本当は、最新の進化論についての本を読むべきなんでしょうね

アイヌの人たちからみれば、明治以後の多数の入植者の人たちは闖入者、下手をすれば侵略者だったのでしょうか?僕には判断がつきません。

でも、僕は亡くなった祖父が僕に懐かしそうに語った言葉『子供のころの冬のある日、家に遊びに来たアイヌの人達と家族皆で楽しく酒盛りをした』『本当に皆仲が良かった、助け合って暮らしていた』という言葉がお互いにとっての真実だと信じたいです。

ダーウィンの進化論から導き出された、つうか、その後継者にあたる人達によるんですかね、世界は”弱肉強食”で成り立っているということ。
弱き者はより強き者によって駆逐される運命にあるということ。

が、今西さんのご本を読んだ今、僕はすぐに手前勝手に影響をうけますからね、この話を信用しません。
ダーウィンの進化論が怪しいのなら、そこから導き出された世界は”弱肉強食”で成り立っているつう話も怪しいでしょう。

世界はより強力な暴力を持ったものがすべてを支配するのでは決してなく、それぞれがそれぞれの場所に棲み分けをして秩序を保ち、平和に暮らしている。

なんなら、秩序を保ち、互いを助け合って平和に暮らしている、と書きましょう。
これが”弱肉強食”という馬鹿な夢を取り払った世界の真実に違いない。
現在進行形でそんな馬鹿な夢を見ている阿呆な人達が目覚めた後の世界の真実に違いない。

ええ、僕はただのパンピーですからね。気にせず、いくらでもこう書きますよ。


”弱肉強食”は人間の本性ではない。

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