Thursday 24 October 2013

ま、いいじゃないか

Ⅰ:絶対と超越のエロティシズム

澁澤龍彦さんのエッセイ集『エロス的人間』に収録されている「絶対と超越のエロティシズム」を読んだ。
内容は、澁澤さんご自身が翻訳されたフランスのシュルレアリスムの詩人ロベール・デスノス(1900-1945)の論文『近代精神の見地から文学作品を通じて考察されたエロティシズムについて』の紹介ならびに論評だ。

非常におもしろく、かつ興味深く読めた。
ただ残念なこともある。この論文においてデスノスは非常に厳密に言葉の定義付けをしている。あやふやさを許してはくれない。
しかし私には根源的な意味においても、副次的な意味においてもその厳密さを確かめる能力を持っていない。意思を持ち得ないといってもいいだろう。

俗に流れるが、宿命として仏語を日本語に翻訳した時点で翻訳者である澁澤龍彦という人物による言葉の意味性の取捨選択がおこなわれ、バイアスがかかってしまっている。そういうことはない、というのは神ではなく、神の子である人間としては、少し傲慢に過ぎるだろう。

ここで、デスノスの言葉の定義を少し上げてみよう

「エロティシズム」とは、愛欲を喚起したり誘発したり表現したり満足させたりするための、愛欲に関係のある一切のものの謂である。

「エロティック」とは、(本質的には)愛欲に関する学である。(プラトニックとか、脳髄的とか、神秘的とか、肉体的とかいった形式上の差別のない性的衝動の意味に解される。)

「肉欲」とは、感覚作用である

などである。非常に明確だ。
しかしである。明確さの中にこそ罠が潜んでいるのではないだろうか?

例えば「肉欲」も「感覚」も「作用」もなんら分かりづらい言葉ではない。
だが正確な資料が手元にないので不正確な書き方になってしまうが、第二次大戦前であろうフランス人ロベール・デスノスの言う「肉欲」と70年代の日本人澁澤の「肉欲」とのあいだの「感覚」や「作用」に思考のズレは存在しなかったのだろうか?
さらにいうなら70年代の日本人澁澤の「肉欲」と21世紀を生きる私達の「肉欲」はまったく重なりあうものだろうか?
それは「感覚」も「作用」も他の言葉達も同じことだ。

私達はロゴスにより空間や時間を超える度に、少しづつ互いへの罪のない誤解を積み重ねているのかもしれない。
そして、それは結果として世界を憎しみの連鎖と悲しみの渦に沈めてるのかもしれない。

そう、人間にとって自分を守る最大の武器であり、世界を焼き尽くす一番の凶器になりうるのは「言葉」なのだから。


さてミッキーローク主演の映画エンゼルハート観ながら寝ます。
ロークさん、この映画ではくたびれた感じが非常にいい感じ。
ブラピさんのくたびれ感も好きだけど、この当時のロークさんのくたびれ感は最高(ほめてます)。


共演のデニーロさんの存在感も含め、映画では50年代のアメリカ南部の妖しさ抜群。
においたつようなブードゥー
土と血と契約
まさにハニーマン・ブルース。(注:未だにこの言葉の意味をしりません・2013/10/23)
好きな映画です。


寝れなくなるかも。


追記:サクっと寝ました。





Ⅱ:変容

さて東宝特撮映画DVDコレクション第11号「フランケンシュタインの怪獣・サンダ対ガイラ」(昭和41年7月31日公開)ですよ。

この作品は頭に"フランケンシュタインの怪獣"とついてるように、フランケンシュタインの細胞から生まれた二体の兄弟怪獣が日本を舞台に闘争を繰り広げる異色の怪獣映画です。
もちろんフランケンシュタインの細胞から生まれたといっても"怪獣"つうくらいですからね、人間サイズな訳も無く、ちゃんと50メートルくらいに巨大化しております。

が、ですな、なんつうかですな、まあ"良心を持つ山の怪獣"サンダさんも"荒くれ者の海の怪獣"ガイラさんも全身をウロコっつうかコケっつうかなんつうかで覆われてはいるんですが、何せモトがフランケンシュタイン。
したがって、やっぱり何となくお二方ともに人間ぽく、市街地での二大怪獣の迫力ある闘争も何か酔っ払いの喧嘩を見せられているような気にならんこともないですね。

もしくは(ガリバー旅行記の小人の国)リリパット国に流れ着いてしまったガラが悪い水夫二人の仲たがいのような...

とは言うものの、サンダさんもガイラさんも怪獣とはいえ、今まで僕が観てきた昭和30年代の"異形"の怪獣たちとは一線を画す不思議な人間臭さがあります。(まあ"異形"は"異形"なんですが程度問題で)

人類とは完全に別のモノから、人造人間の細胞から生まれたモノへと徐々に人類に接近してきています。立ち位置が変化してきています。そこで一体何があったのか?

そうなんです「サンダ対ガイラ」が公開されたのとちょうど同じ昭和41年7月17日にテレビではある革命が起こっていたんです。
「ウルトラ作戦第一号」、光の国から宇宙怪獣ベムラーを追ってあの巨人が地球へ飛来していたんです。今後、この巨人とその兄弟達は"怪獣物”の定義を根本から覆していきます。そしてその影響は映画にも。

正直「サンダ対ガイラ」は一般にはあまり顧られる事のない作品ですが、昭和29年の「ゴジラ」から続いてきた"怪獣"映画と昭和41年の空想科学テレビ番組「ウルトラマン」をつなぐ、または分水嶺たる重要な作品なのかもしれません。
決定的な変容の瞬間を記録した"エポックメイキング"な作品なのかもしれません。




書いてはみましたが

実は「サンダ対ガイラ」のDVD、まだ発売されておりません。
したがって観ておりません。人生で観た事ありません。前回のDVDに収録されていた映画の予告編と七行くらいの次回予告を読んで書きました。

いえね、全く作品を観ないでも如何にも観たように書けるかな?と思ってね。


そういえばフランケンシュタインってのは人造人間を作った科学者の名前で人造人間の名前ではないらしいですね、と書いてみたら東宝特撮映画コレクションのファイルの作品ラインナップのトコで昭和40年公開「フランケンシュタイン対地底怪獣」つうのを発見。
フランケンシュタインの細胞ってなんのこっちゃ?と思っていたら、どうやらアッチ(本家?)は無関係でコッチのフランケンシュタインさんから細胞拝借したんでしょうな。

もちろん詳細は調べません。だって事前情報は楽しくないもん。




Ⅲ:サンダ対ガイラ

何時も斬新なクライマックスで楽しませてくれる東宝特撮映画、それは「サンダ対ガイラ」も例外ではありません。

東京市街地で終わりなき兄弟喧嘩を繰り広げるサンダさんとガイラさん。

実はガイラさんはサンダさんの千切れた細胞が増殖・成長して誕生したもの。
つまり下手に両者に攻撃を加え体を粉々に粉砕すると、その細胞すべてがサンダさん(は良い人だけど)やガイラさんみたいな身長25~30メートル(でした)の悪質な酔っ払いに成長する可能性があるのです。

したがって撃退するためにはその体すべてを確実に焼き払わなければならず、市街地では殺獣光線などの秘密兵器を駆使した自衛隊の攻撃も鈍りがちです。
そうこうしている内にお二人はもつれ合いながら東京湾へとなだれ込み、戦い続けながら外洋へと消えていきます。

はたして賢兄愚弟な兄弟喧嘩の行方は!?
人間を食いもんだと認識してしまった愚弟ガイラさんに餌場と狙われた関東人民の運命は!?





その時


それまでの話とは一切無関係に


何の脈絡もなく


突如、海底火山の大噴火が発生!!


サンダさんもガイラさんも仲良く巻き込まれましたとさ。これにて一件落着。



ん~これはどんな感じですかね~

例えば時は戦国、処はパラレル日本。
天下統一の野望に燃える駿河の太守今川義元さんは四万の兵を率い京師に己の旗を立てんと駿府を出立。
まずは邪魔な尾張の小大名織田家を一息に粉砕しようとします。

滅亡の危機に瀕した織田家の若き当主信長さんは乾坤一擲の大勝負、義元さんの本陣への奇襲を敢行することを決意します。
しかし、この世界の義元さんには隙がありません、天候も崩れません。
そうこうしている内に織田の軍勢は各地で敗北。
信長さんも清洲城に篭城することに。

はたして天下の行方は!?
信長さんの運命は!?





その時


それまでの話とは一切無関係に


何の脈絡もなく


突如小隕石が義元さんの本陣に落下!!


義元さん共々その軍勢の主力は隕石の爆発に巻き込まれましたとさ。これにて一件落着。


みたいな。


・・・おい、そこの君、そうだよ、君だよ。

こう書くと「バカバカしい、どんだけご都合主義だよ!!」と思うかもしれないがちょっと待つのだ。
"事実は小説よりも奇なり"とも言うけれど、歴史は人間の想像力を凌駕した事実で溢れているではないか。

誰が「そこで絶対に海底火山の爆発はない・隕石の落下はない」と言えるのだ。
そんなこと絶対に在り得ないと言えるのだ。

そうなのだ、この「サンダ対ガイラ」のあまりにも唐突なラストシーンは小説よりも奇な事実への人間の想像力の挑戦なのだ。
現実世界への、神への挑戦なのだ。

事実を人間の想像力で凌駕しようという試みなのだ。志なのだ。ああそうに違いないともさ。
もちろん、当たり前に適当だけど。




Ⅳ:シーン

なんでンなこと思ったのかはわかりませんが、ある日本映画を自分ちで観てて、ふとそのシーンごとの時間を計ったんです。(注:映画ケイゾクです・2013/10/23)
カットごとではなくシーンごとの。

そしたら3分だったか4分だったか、正確な時間は定かでないですし、ある程度の時点で飽きて止めましたが、けっこうずっと同じ使用時間でした。
これって普通なんですかね、3分、3分、3分、3分・・・みたいな感じでずっとシーンをつなげていくのは。

それで、ある時点で、いきなりその間隔を2分とか1分半とかにして、感覚としてのスピーディー感を際立たせたりするんですかね。




Ⅴ:アドルフに告ぐ

手塚治虫さんの「アドルフに告ぐ」。

アドルフ・ヒトラーの出生の秘密を軸に、三人のアドルフが織りなす数奇な運命を描いた歴史大河漫画です。

が、僕はあまり好きな作品じゃないです。
なんつうか話のスジの都合があまりに良すぎる気がして。

もちろん、アドルフ・ヒトラー等実在の人物も出てきますが、ほとんどの主要登場人物は手塚さんが創作した人物です。
その人物達をどう動かそうが、創作者の手塚さんの勝手でしょう。
が、それでも何か、僕は読んでてひっかかります。なんつうか、必要な時に必要な人物が登場し、その人物が物語的に不必要・邪魔になったら即退場(死亡とか)つう感が否めないからです。

まるで均整がとれた美しい化学式をみているようです。
手塚さんの"天才"が「完全なる世界」を志向してしまうのだろうか、と、思ってもしまいます。

人の世から混沌を消す、これは人の傲慢でしょう。




Ⅵ:no religion

僕は誰か他人を「尊敬」することはありますが、「崇拝」することは決してありません。

僕が生まれる前に亡くなった祖父は僧侶でしたが、おそらく僕個人の密かな考えですが、この祖父と亡くなるまで市井の一社会主義者だった祖父、両方の”思想”ではなく”性質”をその子孫の中で一番強く受け継いだのは僕だと思います。

で、僕は人生の中で何も「信仰」は持てませんでした。今後も持つことはないでしょう。

持たないと不幸になるぞ!こうしなきゃ幸せになれないぞ!というありがたいご助言には、僕はそれを自分の意思で選び取るという範囲において、人には不幸になる自由もあるでしょ?と答えます。
たいしたことじゃない。気にするな。それよりも僕がこの世で一番醜いと思っている、他人の精神への強力な支配欲をもちっと君は隠したほうがよくないかい?だだ漏れだよ。と、思います。

もちろん、短い言葉で、短くなくても、僕が持っている”言葉”で、誤解なくソレを語る自信はありませんが、僕は「信仰」を否定しません。
だって「何で日本は変な事件ばっかり起こるんだ」と聞かれて、思わず「No Religion」と答えてしまった人間です。

まあ僕は人間は死ねばそこまで、一切は"無"という考えが強い人間かもしれません。

でも、あくまで僕の中だけでは、何の矛盾もなく、ご先祖さん、つうても具体的には祖父母ですが、祖父母の魂の安息を願いますし、祖父母の魂に「護ってください」とお願いをすることもあります。

何の矛盾もありません。




Ⅶ:人には不幸になる自由もある

たしかに僕は自分の意思で自分が不幸になる自由を持っているとは思うけど、誰のことも僕が僕の意思で不幸にする自由を持っているわけがない。




Ⅷ:親愛なるキティへ

もともとね読んだことなかった気もするんです。

でも確か僕が子供の頃、母親が作品を朗読したのをテープに吹き込んで、それを聴かされていた気はするんです。
だから”親愛なるキティへ”とかのフレーズは母の若い声で今でもぼんやりと覚えているし、何となくのその作品の雰囲気は僕の中に残っているんですね。

「アンネの日記」の話なんですけどね。

で、今回その”完全版”つうのを読みまして、あれ?と。
こんなんだったっけ?と。

これだったらうちの母も朗読してテープに吹き込んで、幼い子供に聴かせようとはさすがに思わなかったでしょう。

もちろんこの”完全版”だってアンネさんがお書きになったオリジナル(ご本人による推敲とかテキストは何種類かあるみたいですね)そのものではなく、現代の読者が読みやすいようにある程度の編集はなされているようです。
それに、僕がわりとしつこくいっている”翻訳”も当たり前に僕の前に横たわっています。

んで、この”完全版”は、アンネさんがお書きになった性についてのくだりが話題になることが多い気もします。
僕もそこに興味がないといったら大嘘になりますが、でも、それはたんに、今より少し前の時代にアンネ・フランクという名前の女の子がこの世界に本当にいたというだけの話だとも思います。

お話の中の作り物の女の子じゃなく、1929年6月12日にフランクフルトで生まれ、1945年の3月初頭頃にベルゲン・ベルゼン強制収容所で殺された、一人の聡明で勝気な女の子がいたというだけの話だとも思います。


その死因は病死かもしれません。
でも僕は医者でも役所の役人でもないですからね。
そりゃ「殺された」って言いますよ。


でも僕は、アンネさんがアンネさんであり、僕が僕であるのは”たまたま”で、僕がアンネさんであり、アンネさんが僕であっても、殺す側が殺される側で、殺される側が殺す側であっても何もおかしくはないともちょびっと思ってしまいます。

が、これは神を持たない僕のたわごとですかね。

我が我であり、彼が彼であり、我が殺す側であり、彼が殺される側であるのは、我の神は正しく、彼の神は偽者だからだ、永遠に入れ替わる事はない、という想いが結構世界中に充満している気もします。



Ⅸ:one world

地球人が人種・宗教・文化の壁を越え、「地球人」という一つの視点に立てるのは何時の日のことになるのでしょう?

やっぱり対立軸が出来たとき?
そのためには相手が必要だね。

あれかな?それこそ外宇宙の異性人との接触に成功した時や、地球から火星とかに大量移民し、そこで火星人として地球から独立した時に、はじめて「地球人」という視点を人類は手にする事ができるのかな?


でもそうして手に入れた「地球人」なんて、今の「日本」や「アメリカ」となんもかわらんね。

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