Saturday, 30 November 2013

2.正月そうそうなんですがな話ですが


Ⅰ:いやいや元禄の尾張名古屋は事件だらけです

でも「元禄御畳奉行の日記」。

この本が最初に世に出たのが1984年ですか?
んで今僕が読んでる文庫が1987年初版発行となってますな。
んで解説に代えてということでしょうかね、巻尾の山崎正和さん、丸谷才一さん、木村尚三郎さんの鼎談『元禄の週刊誌記者が見た日本』がおこなわれたのが1985年(文藝春秋より転載となっています)。
これからバブルに向かっていく時期ですかね?

とりあえずざっくり、この本を読むのは”今”のほうがいいかも。


で、え~神坂さんがお書きになった文章を引用させていただいて


『このころ(元禄八年・1695年ころ)を境に”花の元禄”と好景気をつづけてきた元禄の経済は一挙に下降線をたどっていく。』


で、あくまでも尾張徳川家の一下級武士の天地で、当人が見聞きした範囲での話ですが

「去月十六日と十八日に、さかな屋紋六両親も死す。一日に十八、九人づつ死す。但し、卑賤な者ばかり死す」(1716年?)

「予が、まのあたりにみる所ばかりも餓莩(がひょう・飢えて亡くなること)甚だ多し。間々、死する者多し。御代官衆の支配の百姓も、所々つぶれるもの多々なり。甚だ手あてなき事なり」(1715年)

「在々困窮し、首をくくり死する事、覚えずと云々。一度に十二人書付、頃日、年寄衆へ達すと」(1715年)




Ⅱ:近松門左衛門さん凄え


まあ正月そうそうなんですがな話ですがね。以前、俺こんなん書いたんですよ。


『まあ260年間を一括りにして考えるのは非常にナンですが、例えば江戸時代。
年間、どれくらいの自殺者がいたのだろう?(略)庶民だって近松門左衛門さんの「~心中」な作品がありますし。』


あのですね、そりゃまあ"心中"てのは昔からあったんでしょうけどね、これどうも『庶民だって近松門左衛門さんの「~心中」な作品がありますし』つうよりも、元禄十六年ですか?近松門左衛門さんが実際の心中事件に材をとった世話浄瑠璃「曽根崎心中」を発表したことを契機に庶民の間に爆発的な"心中ブーム"がおこったみたいなんですわ。

近松さんが世紀の"心中ブーム"の仕掛人みたいなんすわ。


んで神坂さんの「元禄御畳奉行の日記」から引用させていただいて


『いま、私の手許にある、この年に発行された当時の情死人名簿ともいうべき「心中恋のかたまり」(上方情死人名鑑)を繰ってみると、元禄十六年から翌、宝永元年七月までの一年半に、京、大阪だけで九百余人もの心中事件があった』

↑まだ"心中ブーム"の序の口みたいです


もっとも、それ以前から"心中ブーム"とまではいかなくても、その下地はあったみたいなんです。


山崎正和さんによると『「曽根崎心中」にその様子が書かれていまして、こんどの心中はカッコがよかったとか悪かったとか、みんなが心中の評定をする』
『心中する当人たちも、明日は自分たちがどう評定されるであろうかと案じて死んでいく。』


そしてそれら評定する者される者たちの、まあまた適当に書きますが、永遠に続くと思われた太平の世が徐々に膿んできた、元禄という時代の(都市文化のですかね)退廃した精神を近松門左衛門さんが世話浄瑠璃として見事に圧着、具象化。

んでその後、これは丸谷才一さんの想像ではありますが『元禄時代の、少なくとも上方で心中する男女は、こういうふうに死ねば近松門左衛門は書いてくれるんじゃないか、という期待をいだいて心中したような気がします』という事態にたちいたったと。


んでね、"丑の時まいり"。

これも昔からあるものではあるけれど、庶民のあいだにひろがったのは元禄の頃、近松さんが浄瑠璃にとりいれてからみたいなんだって。

近松さん凄え。


はい正月そうそうなんですがな話でした。

これはちゃんと確認したわけではないですが

おそらく糸井さんは、糸井さんのほぼ日という会社の方も含めてですね
おそらく、その前提をつくるために、その時、会社として、ものすごいリスクをおかされた、と、おもいます

積み上げたものがゼロになりかねないほどの

ま、今、おれにこう書かれることが、徐々にリスクに、と、しつこく書くのはやめときます
書いてしまっているけどな

で、これも

これはつい最近、一度書いて、消した文章ですが

俺は、時系列的に書いて

明石屋さんまさんの「つまらないんだったら自分でおもしろくするしかない」
糸井重里さんの「人生は一度だ」
布袋寅泰さんの「だまされるな」

を、すべて
奥田民生さんの"さすらい"という曲の「雲の形をまにうけてしまった」の勢いで(え~雲だ、と言っているわけではなく)、まに受けて、現在やっておりますが

ほんと、多くの方に、助けてもらっていますが
そもそも、その前提を作ってくださったのは糸井重里さんだとおもいますが
糸井さんが助けて下さらなかったら、まったく違った状況になっていた

もしかしたら、もっと直接的に暴れまくってとか、の、可能性もふくめ

で、やっぱり、殺処分、なんて単語も出つつ、つつがなくやれているのは、日本国の保護による

これも書いておこう
だんだん、絡まれるのが迷惑な存在になってきた気もしますが(笑)




そういえば、もう結構前かな

「関東連合いびつな絆」

たしかこのようなタイトルの本の広告がのっていましたが
一年も前ではないとおもうけど

ま、俺は、この人たちがそうだ、とはっきりとわかって関東連合の方にお会いしたことはないですが

で、孫正義系への、もう二年近く前になるかな?
俺だけではない、反撃が始まったころ、テレビニュースで関東連合の人が逮捕されたとか(書いてごめんなさい)妙に、関東連合という名前をだした報道をきいた気がしましたが

「逆らうとどうなるか?」的恫喝を今にして思えば感じますが

なんにせよ、いびつさの強制はいやですよね

いやいや、お前らまずやめろよ、と


ま、そもそも

家の中の盗聴やめろよって話なんですけどね

もう、俺は利用しつくしたしな、もういいや

表に書き始めたし

このトレースもいらんな

と、いうわけで

確認しました

なんもかわっとらん、すぐにわいてくる

と、いうわけで、潰れるまで押す、ではなく、潰れても押す、で

see you later

I was surprised a little when I look back.
Bào shū had there.

"Work was already over?
I came to see you."
 
He said so.
 
"No,this is a break.
Tavern will be busy from now."
 
I answered while puzzled.
 
"I see.
But I think business hours of the tavern will until sunset.
Then do you have free time?
I want to talk with you."
 
"Though it is so.
But I must go home of outside the castle.
After sunset,castle gate closes."
 
I was puzzled further.
 
"Talk is ok?"
 
"Yeah."

"Gate which you use is where?"
 
"It is the gate of the west.
There was a fire in the neighborhood recently." 
 
"I see. 
I'll be waiting there. 
See you later."
 
After saying that, he went away.
I was left behind.
 

・・・・・・・・・ 
 
 
Gates open at the crack of dawn.

Before the business of the day.
And before sunset.

After all, this time is busiest time of the tavern. 
This day was also busy as usual of course.
But my mind was somewhere else.

After my work finished,I went to the castle gate in order to go home.
He was waiting there.