Friday 29 November 2013

ときたま☆のりたま まとめのまとめ 13‐25


13.カムパネルラ?
 
 
Ⅰ:ねえカムパネルラ

僕は猛烈に目が悪いんです。
眼鏡はあるんですが普段かける気がせず、コンタクトはめんどくさい。
日々ボンヤリとした日常を暮らしております。

もちろん夜も摩天楼(というほど都心には住んどりませんが)の明かりにかき消され、星なんか見えません。
な~んもみえません。

そんなある日の夜の事、友達にバス釣りに誘われました。

僕は、ほとんど釣り自体をしたことないし、もうちょっとしたら寝ようかな?という時間です。
そんなこんなで渋ってましたが、無茶苦茶強く誘います。
「そもそも釣り道具持ってないし」という僕に、釣りの道具などは全部自分が用意すると言います。
もう根負け半分、それならばと誘いにのりました。

んでもって車で二時間ほど、とんでもない千葉の山奥の(たぶん)ダム湖につれていかれました。
そこはまったくと言っていいくらい人工の明かりがなく、月や星の光を頼りに釣りの開始です。

が、まったく釣れません。そいつは何匹か釣ったけど僕はまったく釣れません。
だんだん飽きてきました。

ところでバス釣りってあんな日が変わったばかりの真夜中からするものなんだろうか?
夜明け間際が釣りにはいいって話はきいたことあるけど、夜明けまであと何マイル?
あいつ、彼女と別れたばかりだったのが何か関係してたのかな?

さて、全然釣れないしかなり飽きてきた僕は"どこまでルアーを飛ばせるか?”とか段々やることが趣旨からずれてきました。
そんなときグッと釣竿に確かな感触!ついにきたか!?

やりました!釣りました!

地球を。

からまった釣竿を友達にわたして色々試しましたが、どうしても外れず、そうこうしてるウチに釣り糸が途中から切れてしまいました。

あらあら。

「切れた糸とか釣り針とか結構なゴミだよね」
そう言いながら僕はヤレヤレと腰をおろしました。
「じゃ、お願いね」

そうなんです。僕は何もしません。できません。やろうとも思いません。友達に仕掛けができた釣竿を渡され釣るだけです(だから面白くないんだという正論は僕目が悪いんでよくわからないんです)

だから友達が仕掛けを作り直してくれてる間、やることないんでねっころがって夜空を見上げます。

びっくり。

満天の星空。
もう凄い星空。目が悪くても関係ない。もしかしたら目が悪いからこその天から降ってくるような星空。

するとスゥーと夜空を横切る光。
「あっUFO!」
「人工衛星だろ」
へ~あんなにはっきり見えるんだ。まてよ?こちらから向こうの光が見えるのなら、向こうからこちらの光は見えるのかな?そういえばアポロ宇宙船からベトナム戦争のマシンガンの光が見えたって話あったかな?



「ねえ、まだ(仕掛け)できないの」
「そんなすぐできねえよ」
「釣りってめんどくさいね」
「......」


違います。何かしゃべってないと耐えられないんです。そいつとの間に流れる沈黙に・・・ではありません。満天の星空にです。

吸い込まれて、落っこちちゃいそうな星空にです。

「銀河鉄道の夜」で孤独な少年ジョバンニが唯一の親友カムパネルラと一緒に銀河ステーションから銀河鉄道の旅に出かけたケンタウル祭の夜もこんな空いっぱいに星が瞬く夜だったに違いない・・・

「ねえカムパネルラ」

ど初心者の僕のためにルアーを吟味して仕掛けを作り直してくれてる友達に思わずそう言いそうになります。

もちろんホントに言ったらそろそろ怒られちゃうので間違っても言いません。




Ⅱ:重いコンダラ

そういえばアニメ「巨人の星」のOP。

さすがに僕も再放送でしか観たことありませんが、あの歌の冒頭「思いこんだら、試練の道を~」の"思いこんだら"を"重いコンダラ"だと思ってた人間が僕のまわりにも結構いました。

では"コンダラ"とは何なんだ?となると「知らん」となりますが。
もしくは、今もあるんですかね?グラウンド整備に使う巨大な円柱形の石、引っ張って回転させる奴、あれの正式名称が"コンダラ"ではないのか?とか。

まあ人間誰しも、もちろん僕も、自分でも気づかないうちに(気づいたらそもそも間違いようがないので当たり前ですが)妙な思い込み・カン違いをしちゃってるってこと結構あるんでしょうね。





さらにそういえば童謡「あめふり」の歌詞”雨雨ふれふれ母さんが、蛇の目でお迎えうれしいな~”の"蛇の目"とは果して何なのか?で友達二人の間で喧嘩寸前の激論が交わされたこともありました。

でも今ならネット検索でこういうの簡単に調べられるんですよね。
ほんと使い道さえ間違えなきゃ便利で結構な時代です。

さて"蛇の目"を検索・・・

おお!!
二人とも間違っとる!!

よかったな、殴り合いに発展しなくて。




Ⅲ:スピード

スピード。

景色が流れるスピード。
一番いいのはやっぱり徒歩かな?
まあ徒歩だとあまり変わり映えしない景色ばかり見ることになるけど、僕は10~20キロくらいなら別に歩いてもいいですよっつう人間なので。

たまに電車で知らない街までいったり。
そこからテクテク。

道、迷っちゃってウロウロ。
日、落ちちゃってオロオロ。

つうても知ってる景色に戻ってきた瞬間の、あの何とも言えない快感を味わいたいために、わざと道に迷ってるフシも僕にはあるんですけどね。

それに歩いてる時って考えごとしてる時なんですよね。
いろいろ閃いたり考えをまとめたりには僕的には徒歩のスピードが一番いいんでしょうね。
部屋にこもってウンウン唸っているよりも。

ま、たいしたこと考えてるわけじゃないですけどね。




Ⅳ:ねえカムパネルラ

いやべつにたいした話じゃないんだけどね。なら書くなって話なんだけどね。でも書くんだけどね。あのね。もしね。そのうちね。地球が破裂したとしてね。いやべつに破裂しなくてもいいんだけどね。とりあえず人類が地球に住めなくなったとしてね。いやべつに住んでてもいいんだけどね。こう。遠い将来かもしくは近い将来。そこんとこ僕にはよくわからないんだけどね。人類が生活の場の空間として宇宙空間に進出したとしてね。まあ地球から離れて人は生きていけんのか。つうアレもあるけどね。いやべつになくてもいいんだけどね。ま。そんときね。その宇宙空間で暮らす。いやべつに宇宙空間でなくてもいいんだけどね。よその惑星とかでも。で。そんときね。彼ら彼女らに一日って概念はあるのかねとね。ほら。結局今の一日24時間つうのは思いっきり地球さんの都合に振り回されているわけじゃん。が。地球から離れたらもうべつにそんな地球の融通きかないわがままに付き合う義務は人類にはなくなるわけじゃん。もう何時が朝で何時が昼で何時が夜なんて人それぞれでいいわけじゃん。自由で。でも。おそらく。それじゃ。それがどんな規模でかはわからんけどその彼ら彼女らが地球外に構成するだろう社会は正常には成り立たないわけじゃん。いやべつに成り立ってもいいんだけどね。今の東京とか大都市はある種成り立っているから。が。成り立たない。に。しないとこの話が続かないので成り立たないわけじゃん。んで。結局。宇宙のどこに行っても人は一日24時間の暮らしを律儀に続けるのかね。とね。もう人類はどっぷり24時間の魔力にやられてしまっているのかね。とね。

どうおもう?

んでね。生理的には一日25時間だっけ。どうだっけ。ん。そもそも”朝””昼””夜””時間”という概念がそもそも地球と太陽の腐れ縁にお付き合いさせられているのか。とね。やっぱり。ひとは地球からは永遠に逃れられないのかね。とね。

どうおもう?

いやべつにまったくおもわんでいいんだけどね。

ところで。平成二十二年九月十五日午後三時三十分七秒。てのは。お昼かね。夕方かね。まあ。ただの。午後かね。それとも。昼下がりの。午後かね。

どうおもう?

いやべつにまったくおもわんでいいんだけどね。

 


Ⅴ:速報

炊飯器に残ってたご飯で巨大おにぎりを作り、一気に食べたところ

現在、笑っちゃうくらい胸がくるしい

まじで、笑っちゃうくらい胸がくるしい



ここで重要なことは

たしかに笑っちゃうくらい胸がくるしくはあるのだけれど

なんといっても

くるしいので

笑えない

まったく

笑えない

たんに

くるしい




Ⅵ:人生ニューウェーヴ

はい、いきおゐのみでお送りさせていただいております、とりあえず、Andy Warholさん、の、方法論を日本語空間に持ち込んだのだ、いやい、と、いいはろうかと、も、思っておりますが、あお、おあ?それ、ニューウェーヴ関係なくね?とも、思います、というか、何も、関係ない、というか、まず、僕が、ここで問題とすべきは、Andy Warholさん、の、方法論、て、何、?て、ことなんですね、まったくわかりまへん、が、Andy Warholさん、の、方法論、を、一切知らづに、Andy Warholさん、の、方法論、と、ゐいきるのが、なんだか、とっても、

人生ニューウェーヴ


つまり"in other words,i love U”

だから地球と月、45億5千万年離れがたいんでしょう




Ⅶ:ねえカムパネルラ

そういえば最近

カムパネルラて言葉に妙にはまっちゃったのさカムパネルラ

口に出すとこれがまた気持ちいいのさカムパネルラ

まじで止まらないのさカムパネルラ

どうしてくれるんだいカムパネルラ

君のせいだぜカムパネルラ

責任取ってくれよカムパネルラ

さては賢治君

音読しながら「銀河鉄道」書きやがったな

とも

おもうわけさカムパネルラ

つまり


おれはひとりの修羅なのだカムパネルラ




これは関係ないのさカムパネルラ



そういうわけさカムパネルラ

ねえカムパネルラ

どうおもう?



どう思う?
どう思う?



どう思う?



・・・・・・・・・



14.月刊東宝特撮映画DVDコレクションを最初から買ってたら(略)
 
 
Ⅰ:ヒトフタマルハチ 

さて「日本沈没」ですよ。

逆から読んだら「没沈本日」ですよ。でも本当に逆から読んだら「つぼんちんほに」とむれた靴下のようにホワっとエロスの香りが漂いますよ。エロス的人間である僕としては惹かれるものがありますよ。話がズレてますよ。全然関係ない話ですよ。そうですよ。本日(2009)12月8日(火)は東宝特撮映画DVDコレクション第6号「日本沈没」の発売日ですよ。楽しみですよ。昭和16年12月2日に大本営から南雲中将率いる帝國海軍機動部隊に対して発信された暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の実行日に「日本沈没」をぶつけてくるとは発売元さんも芸が細かいですよ。んなわけないですよ。これは考えすぎですよ。どちらにしろ「日本沈没」観賞楽しみですよ。

というわけで「日本沈没」。
夜遅く観だしたら途中で眠くなっちゃったんでまだ三分の二も観てないけど、こちとら影響されやすい人間ですからね、なんかだんだん怖くなってきましたよ。がんばれよ日本海溝側!日本列島をちゃんとささえてくれ。

でも途中で出てくる内閣の皆さんに地球の構造とかを説明する学者の方は本当の先生なんですかね?わかりやすくてためになりました。もう35年以上前の映画だけど、基礎的な話だからたぶん説としてそんなに古くなっているということはないでしょ?

しかし主演(でしょ?)の小林桂樹さんをはじめ、出てくる男達がみんな格好いい。
そしてみんな眉毛が太い。
そういえば宇宙戦艦ヤマト初代艦長沖田十三さん(アニメ)も眉毛が豪快に太かった。

どうですかね。ここらで眉毛が太い男どものドラマを誰かつくりませんかね。前時代的で暑苦しいだけですかね。
今の男の子達は別に懐かしのヤンキーてわけじゃなくても「おい!眉毛はどうした!?ないじゃないか」「いえ、眉毛剃ってたら失敗したんで全部剃ったんです」てな感じですからね。

昭和は遠くなりにけり。




Ⅱ:東宝特撮映画DVDコレクション

しかし、やっぱり昔の日本映画の現代劇の映像の向こう側の人たちの風俗や風景や車のデザインや小物のデザインとか見てると楽しいですね。(~の、を七回使ってますな)
「日本沈没」の中に出てくる1970年代初頭の東京の街並みの空撮映像、思わず画面を静止してまじまじと見てしまいました。(~の、を四回使ってますな)

さて、夜は(純粋に!)睡魔に襲われて寝てしまいましたが、「日本沈没」上映時間2時間20分以上と長い映画ですが、テンポもよく観てて飽きません。
これは、脚本を書かれた橋本忍さんの手腕なんですかね、この映画の監督で黒澤明さんのチーフ助監督を務められていた森谷司郎さんの編集の妙なんですかね、すべてが相まってなんですかね、そのへんは僕には能力も知識もなくわかりません。
まあでも、橋本忍さんのお名前はよくお見かけしますね。

ところで。
「ゴジラ」からのすべての作品を時系列にそって観れば、特撮や演出の進歩や変遷がわかっていいかも!←と、思い込むことにしました



Ⅲ:エデンの東

いや~クリスマスと言ったらやっぱり北海道産のすけそう鱈の干物ですね。
延々と千切っては食い、千切っては食いしていると気分はもうホワイトクリスマス。
鈴をシャン♪シャン♪と鳴らしながらやってくるトナカイさんの真っ赤なお鼻が瞼に浮かびます。

あとやっぱりクリスマスと言ったら餅でしょう。
表面に軽く焦げ目がつくくらいまで焼いた餅を、これまた軽く焼いた海苔でくるみ、端にちょっと醤油をつけてムニューと食べるとジングル・ベルを楽しそうに歌う天使達の歌声が聴こえてくるようです。

そうそう、クリスマスはこれをはずしては語れませんよね。ちょっと奮発しちゃったぞ、まあクリスマスだからいいか?な八女玉露100g2,000円也です。
あまり熱すぎない温めのお湯で、2分近い待ち時間を取ってお茶をいれると気分はもうホーリークリスマス。
この抑え気味の苦味と甘み以上のクリスマスプレゼントがこの世に存在するでしょうか?

ちなみに急須と湯のみを前もって温めておくと美味しさ倍増、聖なる夜を一層引き立たせるぞ!

たぶんだけどな。




Ⅳ:ボルテスV

「ボルテスV」ってロボットアニメがありましてね。
随分古いアニメで、僕も正直あんまり記憶には残ってないんですけどね。
まあ、いわゆる合体ロボットアニメでしてね。

いえね、昔フィリピン人の方がこのアニメの主題歌(英語)を軽く口ずさんでいたことがありましてね、そういえばなんですけどね。
この「ボルテスV」、フィリピンでも放送されて子供を中心に絶大な人気を誇ったそうです。
アメリカでの「マッハGoGoGo(Speed Racer)」みたいな感じでしょうかね?よくわかんないけど。

で、テレビで随分前に観た記憶で当たり前にフワフワしてるんですけどね。
あちらの学者(ここからフワフワ)の方がインタビューに答えていて「このアニメをフィリピンで放送するのは日本軍国主義の陰謀だ!」と仰るんですね。
「まずこのような暴力的なアニメをフィリピンの子供達にみせて洗脳し、その後またフィリピン侵略を開始するのだ」
「ボルテスVが使う必殺技の剣、この剣こそがまさに日本軍国主義の象徴ではないか!」みたいな。

それはどうだろう、んなアホなとはもちろん思うけど、う~ん、とも思うんですね。
底の底には日本人自身ではとても気づけない何か同じモノが流れているのかもしれませんからね。よくわかんないけど。
外から見た「日本」つうトコで、興味深い一つの視点ではあると思うんですね。
もちろんフィリピンの中だけでも全然違う視点を取る人も大勢いるだろうから、あくまで"一つの"ということで。
主題歌を口ずさんでいた方は純粋にアニメが(たとえばバットマンとかと同じように)楽しみだったみたいだし。

それに、フィリピンは太平洋戦争でドエライ激戦地になってますからね。
だって大岡昇平さんの「レイテ戦記」読んでて、レイテ島を四国、日本軍と米軍を中国軍と米軍(深い意味はございません)とかに置き換えてみたら、こりゃたまりませんよ。(日本軍も米軍もフィリピンを支配者から開放してやったのだと思ってるフシがありまくりだけど)

え~と、いまちょびっとネットで調べてみたら「ボルテスV」は70年代後半、ほぼ日本と同じ時期に放送されていますが、1999年に再放送されており、上記のインタビューはもしかしたらこっちについてかも。




Ⅴ:火の雨

そういえばさ。

古い事件現場とかで「ここで殺された被害者の怨念が」とか言う人いるけどさ、そんなこといったら東京はモトより広島・長崎、日本各地の都市とかは街全体が空襲・原爆で亡くなった方達の無念で溢れかえってるんじゃないのかな?
そのわりには東京の下町とかは平気な顔して歩いている気がするんだけどね。
亀戸とかさ。あのへん。(知識として知らないと見えないのかな?)
そしてメジャーな(失礼な言い方だと自分で思います)事件の現場だけ「ここで殺された被害者の怨念が」(知識として知っているか厳密な検証が不可能なものだけ見えるのかな?)
ま、もちろん”ちゃんとした”人もいるんでしょうけどね。そういう人には死者の悲しみに満ちた都会での生活は苦痛なのではないだろうか。

で、僕はやっぱり積もり積もった無念(怨念とは言いたくないっす)だったら世の中のそこら中にありふれてあふれかえってると思うんで、特定の場所を別に気にはしませんね。

特に都会に住んでる人は過去に生きていた人達の無念の上で生活しているようなもんだし。
それを軽んじるというわけでは決してなく、気にしてもしょうがないし、この世を過ごす時間がちょっとズレただけでかつては同じ生者だった人を怨霊あつかいは失礼な気がするんですよね。

もちろん僕個人の考えで人に押し付ける気はないです。




Ⅵ:感性が呼び込む偶然は必然です

本日の昼下がり、僕とは無関係極まりない、ちょいと面倒くさいトラブルに巻き込まれそうになりましたが、三つくらいの普段ではありえない"たまたま"が重なって助かりました。

心底「ラッキー!神様ってやっぱりいるじゃん!」と思いましたが、考えてみると僕の普段の行いには神様に愛でられる要素は何もないので、"たまたま"はあくまで"たまたま"、今日の僕の三段重ねの幸運には別にどの神様の関与もないでしょう。もちろん、ちょっと面倒くさいトラブルに巻き込まれそうになった不運にも。

ま、日ごろの個人の行いの良し悪しと、その人の人知を超えた幸・不運には別に因果関係はなく、それはあくまで"たまたま"ですわね。
が、人知の範囲内の幸・不運なら日ごろの行いの良し悪しは無茶関係ありますわね。
別に政治に限らず、人と人との間に"デン"と横たわるのはおのおのの感情だから。

で、いつものように話が飛躍しますが、だって空襲や原爆や地震や台風や飢餓やなんやかんやで理不尽に亡くなった方たちは皆日ごろの行いが悪かったのかっつう話ですからね。その方たちより自分の方が絶対に日ごろの行いが良いといえるのかっつう話ですからね。

それはその方たちの前世の行いが悪かったからだっつう話なら僕もう眠いんでよく聴こえない。(魂はまだ品切れしてないかな?)
その方たちの先祖の行いがっつう話なら、2・4・8・16・32・64・128・256・512・1024・2028・4056・8112・16224・・・・と、こっちは増えていき、人類の総数は減っていくので僕よく聴こえない。
どっちにしろよく聴こえない
馬鹿!そもそも先祖というものは!!っつう話ならそもそも僕聴こえない。
その方たちの血がDNAが悪いって話なら、頑張れ。そのうち立派なSS隊員にだってなれるさ。

ただ自分の影には気をつけろ。それはホントに自分の影か?


もしも個人の一生における"ラッキー"の総量が決まっているとしたら、僕は今日だけで一月にして今年(2010)の上半期分の"ラッキー"を消費してしまったでしょう。(もちろん、そんなモン決まってるわけあるかいと思って書いてます)

とりあえず世界の終わりがくるなら人知を超えたトコで脈絡なくやってほしいですね。
人知の範囲内でのカタストロフィーはやだ。




Ⅶ:うらみ

小説家の陳舜臣さんが「古来中国の詩は、男は志を表し、女は怨(うらみですな)を詠うものだ」みたいなことをお書きになってたような気がする方向に320円ですが、愛を詠うこともやっぱり怨を詠うことなのかな?

怨て言うと何かおどろおどろしい感じになっちゃうけど、そうではなく、こう人の自然な感情としての怨みたいな。

ん~~、今、”うらみ”を”怨み”に変換して意味みたら”憎悪”になってるなぁ。

やっぱりそうかなぁ。

ん~~~~~

でも”憎悪”って、それがでかければでかいほど、絶対そこにはまる”愛”もでかいよね。



話を持っていってもやっぱりちょっぴりくっきり違いますな。

愛ある怨。

丸っこい怨。

暖かい怨。

やさしいうらみ。



・・・・・・・・・



15.シュートは打たなきゃ入らない
 
 


いうわけで



Ⅰ:人間万事塞翁が馬

あれ?晴れてる?今日雨じゃなかった?気のせい?たまたま今だけ?オリンピック招致と一緒になんか憑物落ちた?

は失礼ですか・・・

ちょっと東京でのオリンピック見てみたかった気もするけど、やっぱり難しかったですかね?

でもブラジルさん、サッカーワールドカップが2014年でオリンピックが2016年?
やりますな~
21世紀はBRICsの世紀となるか?
はたまた、ど~~んとプラトーがくるのか?
はたまた、来年のことを言うと鬼が笑うのか?
したがって笑うかどには福きたるのか?
鬼は外ではないのか?

ま、個人的にはサッカーワールドカップ頑張ればあと10回は見れるでしょ。
そのあいだに何とかグループリーグ突破、あわよくばベスト8、はずみでベスト4。
いえいえキャプテン翼に引導を渡すためにも別に優勝してくれても僕はかまいませんよ。
ま、ま、とりあえずプラトーは短めにお願いします。

今回の件がばっどえんどだったかはっぴいえんどだったかはこれからこれから。






Ⅱ:坂の上の雲

我ながらしつこいですが、岡田さん「プラトー」 は短めでお願いします。
そこンとこは別に貴方の責任でも何でもないですが。
ある種、完成された歴史ある世界規模の文化への思想的挑戦をするんだから野心を持って大胆に悔いのないようにやりたおして下さい。

もちろん、だからといって単なる無鉄砲、無計画はありえませんよね。
無駄に大仰な、こけ脅し文言思想はそれこそ”虚仮”に任しときゃいいんです。
そんな自家中毒に乗っかって踊りたがるのはどうせそいつらだけですから。
永遠に棒を回りながら自分の尻尾を追っかけててもらえばいいんです。

今必要なのはそんなチャチなものではなく、自らの国力の冷徹な把握と、正確な世界情勢の状況分析に裏打ちされた、厳密な思想だと思います。
それによるものでなければいけないと思います

そうでなければ、何度やっても結果は前大戦のように一面の焼け野原となっての敗北となるのではないでしょうか?

僕は対露戦のように「これは本当に勝ちか?」みたいな微妙な判定勝ちでもかまわないと思います。

「これ以上やってたら負けてたかも」でも良いと思います。
勝ちは勝ちです。

そうは言っても、あの戦争も最後に日本海海戦という決定的なものはありました。

未来への扉をこじ開けたいのならやっぱり何処かで決定的な勝ちは必要になってくるのでしょうね。

ま、僕はノンキにテレビで観るだけだし。

そうGo West!!

まかり間違っても「西方浄土へ」ではございません。





Ⅲ:おっさんの手習い

「接近・展開・連続」で、11月(2009)は行こうかな?って思ってるんですけどね。

ええ、もちろん「接近・展開・連続」は岡田武史さんが病に倒れられたオシムさんに代わりサッカー日本代表の監督に就任された時に、戦術の基本方針として掲げられたものですけどね。

え~と、ちょちょっと、ほい、はい出た、ネットはざっくり調べるには本当に便利ですね。

これはもともと1960年代にラグビー日本代表の監督を務められた、岡田武史さんと同じ早稲田出身の大西鐵之祐さんが、世界に通用する日本ラグビーを目指してその指針として掲げられたものらしいです。
その世界と闘った尊敬する先輩の理論を、日本人にしかできない世界と闘うサッカー戦術として「接近・展開・連続」させようとする岡田さんの心意気はよし!だと僕は思います。
勝負の世界は結果がすべてだということはご自身が一番わかってらっしゃるでしょうから。

で、ワタクシゴトです。
はい11月は「接近・展開・連続」で行こうと思ってるんです。
もちろんサッカーではありません。ではラグビーか?
ん~のんのん。

この日記帳の11月のテーマを「接近・展開・連続」で行こうと思ってるんです。

最初「俺に文章は書けるのか?」で書き始めたこの日記帳。
基本路線は変わっていません。未だに”手習い感覚”で書いています。それまで文章なんて書いたことほとんどなかったからいろいろ(個人的には)実験、試しながら野放図に書いてきましたし書いてます。

その結果、いろんなトコに穴や掘っ立て小屋や訳のわからんオブジェの様な物を掘ったり作ったりしちゃったかな、と。
振り返ると無秩序にいろんなもんが点々としてるな、と。
で、これも"手習い”の一環としてそれら点在しているものを「接近・展開・連続」させ、穴をつなげ、建物を整備し、そこにオブジェを飾り、点を面に昇華させる試みもやってみようかな、と。

といいますか、”なるべく”11月は書いてることに継続性を持たせてみようかな、と。

はい、保険保険。




Ⅳ:接近・展開・連続

僕が個人的に決めた、この日記帳の11月のテーマなんですけどね。
いやいや。なかなかどうして上手くいきませんな。

ふと振り返るとやっぱり野放図に穴や掘っ立て小屋や訳のわからんオブジェの様な物を掘ったり作ったりしちゃってますわ。
なんら以前と変わっておりません。通常営業でお送りしております。
う~ん、どんなもんだか。
まさか連想ゲームのような安直なつながりを「接近・展開・連続」だというのもな。

現在、かつて自分が書いた文章に復讐されております。

↑中谷美紀さんの"砂の果実"の歌詞をパクッております




Ⅴ:遠い夜明け

深夜のサッカー日本代表戦「日本×南ア」。
情報としては試合があるコト知ってたけど、思わず見逃すトコでした。
観おわった後もしばらく眠れず、ちょっと眠いです。

ま、試合そのものにかんしては、サッカーを分析的に観る能力も語る能力も僕にはないので、ただ応援するのみです。

で、今回注目は試合そのものではなく、試合中ずっと鳴ってる「ブゥオオ~」て楽器音。
こないだのコンフェデの時も試合中ず~と鳴っていたけど、異場感バリバリです。
別に南アの試合じゃなくても鳴ってたから、別に南アの応援で鳴らしてるってわけじゃなさそう。

あれは単に「祭りだ~」てことなんですかね?
あの楽器凄く気になります。
まあこういう時のインターネット検索ですわな。

あと、やっぱり会場のお客さんは黒人の方が目立つ気がします。
あれは南アの人口比率から考えて当然の結果なのかな?
あの~また無知の思いつきで無責任に書いてしまいますが、もしかして白人の方達はサッカーではなくラグビーやってるとか、そういうわけではないですよね・・・階級的な・・・

でもアパルトヘイトが撤廃されてもう十年以上たちます。
そういえば僕は会ったことないですが、名誉白人て不思議な人たちもいたらしいですね。

ちょっと調べたら南アからの白人の人たちの流出が続いているとか。






Ⅵ:カーリングって思わず見てしまいますね

別にカーリングに限らないんですが、こういう日頃から見られている訳ではないスポーツの解説者の方って大変ですよね。もちろんアナウンサーの方も。解説は本人にそのつもりがなくても、どうしても観ている側からすると専門用語連発で何だかよくわからないってことになりがちですし。

ただ解説者の方も競技について共通認識がない不特定多数の人達に向けて試合状況を解説するという機会はあまりないでしょうし、野球のプロの解説者の方だって全く野球の知識がない人達のみを相手に試合を解説しようとしたら、そりゃやっぱり苦戦しますよね。

何とか未知の人達へその競技をわかりやすく、そしてその魅力を伝えようという解説者の方の努力や、それでもどうしても専門的に話が流れがちなトコを噛み砕いて視聴者へ伝えよう、その魅力を伝えようというアナウンサーの方の努力は凄いと思います。

その競技のン年後のエースは、もしかしたらまだその競技を始めていないン年後のエースが、あなた達がその魅力を伝えようと必死に努力しているテレビ中継を今観てるんでしょうしね、まあ録画かもしれんけど。(主役は当然出場選手、でしゃばりすぎのソレはアレですが)


で、ドイツ戦は本当に残念でした。

で、これは試合終了後に初めて知ったんですが、カーリング日本代表のことを「クリスタルジャパン」と呼んでいました。ナショナルチームとしてはその名称を使うんですね。





誰ですか?

ここから本題ですよ。

だから誰ですか?

あなた達の中の誰がDavid Bowieさんのファンなんですか?

チーム青森の誰かですか?よく知らんけどもっと上のカーリング協会の誰かですか?
それともたまたま「クリスタルジャパン」ですか?

うそ~~ん。

絶対、その名称が決まる過程のどこかにDavidさんファンいるでしょ?いるんでしょ?ねえ、いるよね?
是非、紅茶を飲みながら徹夜でDavidさんの魅力について語り合いたいデス。
ナニモノもボクタチを助けてはくれないけれど、恥辱とはカレラノガワに在るのデス。

いないの?たまたま?それともただの焼酎好き?


うそ~~ん。

(注:デビッドボウイさんの曲にクリスタルジャパンというインストがあり、それが日本の焼酎のCMで使用された・2013/11/03)





Ⅶ:もうすぐサッカーワールドカップが南アフリカで開催されますね。

で、僕は一人の日本人として日本代表を応援しようと思っています。
が、テレビで試合を観てても、僕の能力じゃ正直細かいとこはまったくわからないんですね。
ま、ひたすらボールだけを追ってしまう感じなんですね。
で、ボールを持った選手を延々目で追っていると、気づいたらゴール前の選手にボールが渡ってゴール!みたいな。
で、よかったよかった、みたいな。
で、やられたやられた、みたいな。
ま、実際に競技場にいけば視界がテレビとはまったく違って、選手のフォーメーションとかボールを持ってないときの動きなど、戦術が素人にもわかりやすいよ、テレビ観てるだけじゃわからないよ、とも言われるんですね。
が、やっぱりわかる人はテレビで観ただけでそこらへんもわかってる感じなんですね。
ま、素人としては点を取った獲られた、やった!やられた!な見方でもいいかなとは思うんですね。
が、一度試合を録画して、その後早送りにしてみれば、ボールを持ってる選手だけでなく、いろんな人の動きが、移動とか、早くなったぶん結構わかりやすくなる気がするんですね。
ま、それこそ素人には誰が誰やらにはなりますけどね。
ま、それだけの話なんですけどね。



Ⅷ:こじつけ上等

岡田さん、グループリーグ突破が決まった試合終了直後のインタビューで、「ベスト4という目標が近づいてきていますが?」と聞かれ、「まだ雲の彼方にですけどね~」と答えられていますが、あれですね、それは「坂の上の雲」ってことですね。

ええ、もう、貪欲に、僕はガツガツこじつけていきますよ。

そうそう、そういえば去年の10月10日に「坂の上の雲」て題名の日記(ではないよねコレ)に”Go West”て書いた次の日か何かに岡田監督ではなく、外相の岡田さんがアフガニスタンだったか極秘で電撃訪問されたんだ。

おい!そっちかい!!



自分で思ったのも今は懐かしいメモリーですよ。

ええ、もう、貪欲に、僕はガツガツこじつけていきますよ。

だってシュートは打たないと入らないですからね。




Ⅸ:wonderful tonight

でも、いろいろ言う人はいろいろ言うせいでいろいろ言われるけど、僕も全然わからんからいろいろ言わんだけで、いろいろわかったらいろいろ言ってたんだろうな。



・・・・・・・・・
  


16・存在することの危うさに最後の最後まで賭けるのだ
 
 


いうわけで



Ⅰ:井上靖著「後白河院」

「美」というものについて百万言ついやすより「美にあらざるもの」について百万言ついやしたほうが、より純粋に「美」というものを浮かび上がらせることができるのかもしれません。

が、なかなか難しいと。

最初に「美」と「美にあらざるもの」を正確に捉えなければいけないし、捉えたところで、表現したところで、それは見た目にはキャンバスを黒く塗りつぶしたトコにできた小さな小さな、ほんとに小さな、まるでビッグバン前の宇宙のような、塗り残しの白い点でしかなく、他者には気づいてもらえないかもしれない。
気づいても、単なる塗り残しと思われるかもしれない。

え~この「美」とは直接的な見た目の話ではないので、「美にあらざるもの」の中にこそ「美」は存在する、という価値の転倒はざっくり「美」に入れといてください。

と、まるで三島さんについてのような話ですが、これは井上靖さんの「後白河院」を読んでる途中経過の僕の個人的感想でした。


んで今先読み終わりました。

さて本稿での後白河院最後の証言者、九条兼実さんによる独白。
ここで九条さんにより、それまであまりにぼんやりとしてとらえどころの無い、まるで鵺のような存在の”後白河院”という王朝の黄昏期を生き抜いた(結果演出してしまった?)希代の政治家の人物像が、かなり明確に規定されています。すべての謎に答えがでています。「なるほどそうであったのか!」と僕が昭和のオッサンでしたら膝を打ちたいところです。

が、結局のところ、これもすべての謎に明確な答えが出ている感じが一見するだけで、それまでの証言者の人達と同じあくまで九条さんにとっての”後白河院”です。そう芥川龍之介さんの「藪の中」に黒澤さんが最後に答えを与え藪から出し「羅生門」としたのとはまったく別モンです。(「藪の中」の考え方、高橋克彦さんのエッセイからヒントをもらってます)

結局人の世はどこまでもとらえどころがなくあやふやなものかもしれないけど、だからこそ人は未来に希望を抱くことができるのかも。昔、布袋さんの本で読んだジャン・コクトーさんが言う『存在することの危うさに最後の最後まで賭ける』ことができるのかも。
もちろんそれは作者である井上さんの言葉なんだけど、作中で九条兼実さんがそうしたように"答えは自分で出せばいい”んだし。

でも「後白河院」を読んでない人には何が何やらな文章だね。




Ⅱ:キノコ

さて東宝特撮映画DVDコレクション第15号「マタンゴ」(昭和38年8月公開)ですよ。
とりあえず”買い”ですよ。これはおもろい。

若い男女、数人が乗ったヨットが遭難し不思議な無人島に漂着。
そして何か食料はないかと島をさまよい、辿り着いた反対側の海岸で朽ちた無人の船を発見。
この彼らより前に遭難したらしい、核実験の海洋汚染調査船らしい、そんな船の中でみた謎の巨大キノコとマタンゴの文字。
どうやらこのキノコには幻覚作用があり、しかも強い中毒性がある。
なによりこのキノコを食べ続けると自身が醜いキノコの化け物”マタンゴ”と化してしまう。

船の中で食料を発見したこともあり、最初は皆で協力してこの島からの脱出をはかるもことごとく上手くいかない。
そうこうしているうちに食料も底をつきはじめ、情欲も抑えがたく、徐々にお互いに対する疑心暗鬼が芽ばえ。
そして一人二人と禁断のキノコに手をのばし・・・みたいな。

で、このDVDジャケットにもなっている、当時の手書きのポスターをみると、付属ファイル内でも言及されていますが、マタンゴつうのは完全に”きのこ雲””原子雲”ですね。

もちろん直接的なつながりはまったくないですし、本当に失礼な連想かもしれませんが、僕は第五福竜丸の痛ましい事件が頭に浮びました。”マタンゴ”とは太平洋の核実験であり、雨季になると島中に生えてくる数え切れない、強い幻覚作用を持った中毒性のあるキノコはまさに”きのこ雲”、核兵器。

それと、漂着した彼らが島での住処とする難破した海洋汚染調査船。
いくら調べてもどこの船か国籍不明で、船内の部品は共産圏、自由圏、もちろん日本製も使われている。
劇中では「一種のスパイ船だろうね」と。

この船は”世界”ですね。結局そこに住むことになる漂着した男女は”人類”。
最初は皆協力して生き抜こうとするも、徐々に己の利己心を抑えきれず対立しエスカレート、そして強い快楽作用を持った、後から後から生えてくる禁断の核兵器に次々と手を出してしまう。

が、最後までそれに手を出す欲望を抑え続ける主人公(日本かな?)。
しかし、独りでその島を脱出後、自分もそれに手を出し、残った皆と同じ”マタンゴ”になり、恐怖の中の幻惑された平和を求めたほうが自分は幸せではなかったのかと苦悶する主人公。


そして・・・


みたいな。
発想としては安直でしょうが、観おわってすぐの僕の感想はこうなりました。
もちろん↑みたいな感想は鼻でフン!とはじき飛ばしてもらって、普通に観ても全然おもしろいです。
観た人それぞれがそれぞれの感想を持つだろう映画だと思います。機会がありましたら是非一度。

あと、やっぱり、いつ何時”熱戦”になってもおかしくない、そこにリアリティがある”冷戦”つうものは、核による平和は、当時の日本人の頭の上に重く覆いかぶさっていたんですかね。

う~ん、いろいろ脳で補完されて、僕の中でどんどん「三大怪獣 地球最大の決戦」(昭和39年12月公開)の「イデオロギーを超えて人はわかりあえる」というラストの到達点が高くなっていく...




Ⅲ:絶望は答えではない

僕が信頼する男性の方に、あくまで、今公開中で、しかも手軽に観れるの、という前提の上で「何かオススメの映画ない?」と聞いて教えてもらった「第九地区」、レイトショーで観てきました。

で観劇直後の感想です。


絶望は答えではない。

それはちょうど僕が「弦楽のためのアダージョが好き」に書いた、弦楽のためのアダージョが好きな理由、『汚泥にまみれた人の世の、深い絶望の底の底に、希望という小さな小さな松明が灯っている』と同じ感覚だと思います。(注:どこかにあるんですが、今この文章みつかりません・2013/11/03)

僕は映画のラスト近くまで、この映画はとことん人間のエゴを見せつける映画になるのかな?と思ってしまっていました。まあ、それは僕があまり映画を観なれていないからだと思います。(ほんとうに映画館でも、テレビでも、DVDでも、僕はたいして映画を観ないんです)

もしかしたら、これが日本やヨーロッパの映画だったらそんなオチもあるのかもしれませんが、これはハリウッド映画ですよね?そうだったら、そんなオチありえませんよね。
いや、でもいいラストだったと思います。

絶望は答えではない。




Ⅳ:残滓

東宝特撮映画DVDコレクション第16号「宇宙大戦争」(昭和34年12月公開)ですよ。

しかしこの映画はあれですかね?
もしかして国内向けと海外向けに2パターン編集で作られているんですかね?
何かいろんな人間関係がごった煮になってて、さすがに詰め込みすぎじゃないかな?とちょっと思っちゃったりもしちゃったんです。もちっと整理できたべと。

ただ、コチラ目線だけでなく、アチラ目線も存在するならわからん話ではないなと。
少なくとも存在する予定だったのならわからん話ではないなと。

まあそうでなくても、この頃の特撮映画(それ以外の映画は観てないんでわかりません)は自然に所謂”国際的”だな~と思いますが、これはたんに”占領”の残滓だったりもするんですかね。
だからその後、特撮映画から”国際的”さはどんどん薄れ、感覚として内向きに閉じていってる気もしますが、それは当然で、たんに日本社会から”占領・オキュパイドジャパン”の残り滓が消えていっただけだと(在日米軍の問題はここでもちだす話ではないですよ)。

あと画面の中の人口密度もなかなかどうしてでしたね。なにか演劇を観ている気もしました。

一人のスパイを無茶苦茶大勢の人で追いかけるシーンとか、ここは笑うトコなのだろうか、真剣にドキドキせねばならないトコなのだろうか、と、コチラの感性が試されるシーンも非常に多かった気もします。僕は笑いましたが。
これはあれですかね。この映画の公開当時はまだそんなに怪獣映画が作られているわけではないですが、”怪獣の襲撃から逃げ惑う大勢の人々”なシーンの変形版ですかね。逃げる→追いかけるで、お約束としてのエキストラさん大量投入みたいな。

と、ネガティブなことばかり書きましたが、実はこの映画の”映像”は好きです。非常に好きです。実写シーンも特撮シーンも好きです。実写の構図も好きです。いろんなデザインも好きです。センスも好きです。なんかもう好きです。





本編が終わった後に入っていた次回の「フランケンシュタイン対地底怪獣」(昭和40年8月公開)の予告篇ですよ。
いやいや、この作品の続編でもある「サンダ対ガイラ」(昭和41年7月公開)のサンダさんやガイラさんを初めて見た時もちょっと思ったけど、このフランケンシュタインさん、完全にただのオッサンじゃないですか。

『痩せた巨大な裸のオッサン大暴れの巻』じゃないですか。

やっぱり「ウルトラマン」はいきなり生まれたわけではないんですね。
いろいろな試行錯誤の結果、永遠のヒーローは誕生したんですね。

いやいやいや、いいですよ、嫌いじゃないですよ、これは楽しみですよ、攻めますね。好感がもてますよ。

それに目を無茶苦茶ほそ~お~くして見れば、このフランケンシュタインさん、Ziggy Stardust Tourの頃のDavid Bowieさんに見えないこともないような気がしないでもないような気がするような感じもしちゃう感じですからね。




Ⅴ:痩せた巨大な裸のオッサン大暴れの巻

「フランケンシュタイン対地底怪獣」(昭和40年8月8日公開)どすな。

付属のファイル(一応こっちが主でDVDは従つう建前なのかもしれませんが)には『西洋モンスターと怪獣を対決させた怪獣映画の野心作登場!!』と書いてありますが、たしかに野心作でした。
ただ、やっぱりこれはまだ怪獣映画に新しい流れを作る試行錯誤中の作品で、成功作とはとても言えないと思います。

でも、この映画の前作が前年12月公開の「三大怪獣 地球最大の決戦」ですか?
かなりしつこく言ってますが、やっぱり作り手の皆さんの中にも「地球最大の決戦」で「ゴジラ」(昭和29年公開)以来の怪獣映画の一連の流れに一応の決着をみたって意識があったのでしょうか?
だからこそ今までと違う新しい怪獣映画の可能性も模索してみようと。

ちなみに僕が今まで観た東宝特撮映画17作の中では、やっぱり「地球最大の決戦」のラストが一番好きです。
こないだ観に行った「第九地区」のラストにも実は相通じるものを個人的には感じました。
ま、前者でのキングギドラさんの役割を後者では人間がやってましたが。

あと、やっぱりこの作品の続編でもある「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」(昭和41年公開)でのサンダさんとガイラさんの見た目がある程度怪獣臭くなっているのは、やっぱりこの映画での反省があったんですかね?
偉い人から何か言われたとか?
「さすがにたんなる裸のオッサンでは絵的にまずいだろう」みたいな。

が、プレ・ウルトラマンとして、完全に人型?の巨人と怪獣の格闘シーンは興味深く観れました。
ウルトラマンのように、格闘シーンにある程度のパターンが出来ているわけではないので、そこにスマートさはなく、かなり泥臭いものではありましたが、そこがとても新鮮でいい感じでした。

それに、やっぱり、原爆投下前の広島市のミニチュアとか「ハッ」てしますよね。

ん?でも東宝特撮映画が”原爆”を強く意識させるのはもしかして本作までですかね?
新しい可能性の模索には、そこんとこも入っていたとか?




Ⅵ:窓の外は雨

スピーカのボリュームを凄~く絞って、James Taylorを聴く。
思えば昔は「わからんヤツ」と思われるのが怖くて、「これ、いいよね~」ということがままあった。
音楽、映画、小説・・・いろいろ。

今、自然にJames Taylorの優しい音に心をあずけられる。

「年とるのも悪くないかな?」と思えるこんな朝。

窓の外は荒れ気味だけど。



・・・・・・・・・
 


17.φ( ̄▽ ̄φ)☆(φ ̄▽ ̄)φ
 
 
ええ、僕の実質上の文章歴の始まりはゴキブリからですよ 



いうわけで



Ⅰ:ゴキ!(注:2009年08月21日・2013/11/04)

今年の夏は近所の路上で妙にゴキブリを見かける。普通にうろちょろしてる。いつもは引っ込み思案のゴキ君がこんなに自己主張するのは初めてだ。何の意識改革があったのかは知らないが積極的なことはいいことだ。

が、実際問題まったくよろしくない
そういえば友達も「最近ゴキブリ多くてさぁ」と嘆いていた。
今年はゴキ君の当たり年?
なにげに最近頻繁に起こる地震と関連あったりして・・・





Ⅱ:節穴

文字を書く(打つか?)っていいですね。それが実質をともなっていない空っぽな物でも書いてしまえばコッチのもの。それがダイヤなんだかガラスなんだか、はたまたプラスチックなんだかは遠目には全くわかりません。
馬鹿。そんなン単に文章の真贋を見抜けない奴の目が節穴なだけだろ。俺の目は誤魔化せないぜ!つう人ほど僕には本質的に騙されやすい人に見えるのは何故でしょう?

僕の目が節穴なせいでしょうか?


僕が若い頃、心理学の本を読むのが好きな人がいました。
心理学の専門書というよりもうちょっとくだけた感じの本です。
よくそこで仕入れた知識で「君の今の心理は...」とか言ってました。
ちょっぴりだけど、その人が読んでいる本と同じ本をその人に内緒で読めば、その人を騙すのは簡単なんじゃないか?と思ってしまった若かりし僕がいました。

だってそんな本には、「こういう行動、言動の時の相手の心理は・・・」「こう質問した時の答え方で相手の心理を読むと・・・」みたいなコトが懇切丁寧に書いてありましたからね。

こっちも若いが相手も若い。人生経験はたいしてない。その本に書いてある行動をわざととる事で、自分は今こう思っている、こんな心理だと相手に思いこませるのは簡単なんじゃないか?と思ってしまった若かりし僕がいました。互いに(偏った)共通の知識が有る分、成立しちゃうんじゃないかな?と思ってしまいました。

もちろんそんなアホウな企み、実行するわけもありません。
やったトコで速攻胡散臭がられただけでしょう。
でも当時、生煮えの知識をむやみにひけらかされ、「お前はこういう人間だ」と薄っぺらいご神託をくださる事に正直イラッときてたのは事実です。





Ⅲ:見えない物を見ようとする誤解 全て誤解だ

今日もシュークリームを食べてしまった。

さて、僕の文章歴もはや三ヶ月を越えました。三ヶ月といったら一年の四分の一、三年の十二分の一、五年と六ヶ月の二十二分の一じゃないですか。よくもまあ続いたもんです。

でもやっぱり僕は文章の句読点の位置がよくわかりません。悩みます。
やっぱりこういうトコにちゃんと文章を書く訓練をしていない我流の限界があるのだな、と思います。

が、最近、句読点の位置なんかどうでもいいじゃねえかと思い始めました。
つうか違った意味で重要だなと思い始めました。
句読点を打つ位置にこそ、僕の文章の個性があるんじゃないのかなと思い始めました。
自分自身が"有る"んじゃないのかなと思い始めました。

僕は文章を書き始めて何となくわかったことがあります。
それは、文章はそれを書いた人のすべてをさらけ出す。決して隠せない。上辺だけ取り繕ったりなんだりしてもまったく無駄ってことです。

僕はここに書き始めた頃『人間にとって自分を守る最大の武器であり、世界を焼き尽くす一番の凶器になりうるのは「言葉」なのだから。』と書いてます。←自分で書いといてこの言い方もなんですが
しかし「言葉」が焼き尽くすのは、「文章」が焼き尽くすのは、世界ではなく、その「言葉(文章)」を発した当人かもしれない。
それほど文章を書くということはきわどいことなのだ。そう感じています。

だからもし、ここにいろいろ書いている人で、僕と同じように文章を書く上での句読点の位置がよくわからずに悩んでる人がいたら言いたい「気にすんな!」と。それでいいじゃないか。それがあなたの個性だ。そこにあなたの魂がある。綺麗な文章書いたからってだからなんなの?そんなもん読んで何か心に引っかかります?心揺さぶられます?僕は何も感じんぞ。魂は震えないぞ。そんなことに怯えるのは人生の無駄だ。魂はそんな上っ面の薄っぺらいとこには決してない。他人の魂を揺さぶることができるのは、あなたの魂だけだ。



とφ( ̄▽ ̄φ)が言ってましたよ。僕よくわかりませんけど。


でも、お鍋いっぱいに作っても気持ち悪くなることもなく、もう当分食いたくねぇ、見たくもねぇ、と思うこともなく、食べ続けられるカレールーはやっぱり偉大だ。幸せって身近にあるのね。

はい、僕はカレールーだけ延々と食い続けられますけど何か?






Ⅳ:種をまく人

世の中には文章を書かずにはいられない人がいるらしいですね。心の中に何か魔物(才能)が棲みついていて、それに追い立てられるように文章を書かずにはいられない人が。

僕は三ヶ月少々文章を書いてみてはっきりわかりました。残念ですが僕の中にはそのような魔物は棲みついていません。
文章を書くことは好きではありません。
書いてて一つも楽しくありません。
まあ好きだったら、楽しかったら、人生もっと早く文章を書いていたでしょうから、わかりきったことを再確認したわけです。

では何故僕は文章を書くのか?
簡単な話なんです。ここに書き始めたとき、僕は自分に一日に最低二回は文章を更新するというノルマを課したからです。僕は妙なとこだけ意思が強く、やると決めたらやるんです。
だから、どうしようもない事情でもないかぎり、毎日律儀に文章の更新をしているわけです。

もうなんか「行」って感じです。

ちなみに「行」とは、映画「戦場のメリークリスマス」の中でトム・コンティさん演じるMr.Lawrenceが、捕虜仲間?の英国軍将校に説明するに「怠惰を直す日本のやり方だ」「彼が言う(怠惰という)のは精神的なたるみのことだ」と言われています。←と字幕に書いてあります

ん?何かちがうな?

ま、とにかく、僕はここに文章を書かなくなったら、人生即行文字とはおさらばな気がします。
だからそん時は、新たな自分への縛りとして小説でも書こうかなと最近思っとります。

さて、明日はもう十二月です。今年もあと一ヶ月ですよ。
一ヶ月といったら、一年の十二分の一、三年の三十六分の一、五年と六ヶ月の六十六分の一じゃないですか。光陰は流れ星みたいですね。






Ⅴ:like a rolling stone

やっぱりすっ飛ばして文書を書くと、あとで自分で読んでも話が飛躍しまくってて「なんじゃこりゃ?」ってなりますな。
でも、それを狙って書いていたりもするんだけどね。スピードを上げて。その瞬間に出てくるものに賭ける。うだうだ悩まねえ。ジャン・コクトーさんの「存在することの危うさに最後の最後まで賭けるのだ」ってね。

つうか、初期衝動を思い出そうつうかね。どうも俺がここで書いた文章のピークは書き始めの八月後半から九月前半までっつう感じがしてね。もちろん文章のテクニックの話ではなくてね。そんなものは今もないけどね。なんかしゃくでね。もちろん自分の中でね。






Ⅵ:タネ

机の上を整理していたら、裏にボールペンで細かくゴチャゴチャ書いたローソンのレシートが出てきました。

これはここの"ネタ"じゃないですか。
うわっ!懐かしいな。そうそう最初はここに何を書くか前もっていろいろ決めていた。

いえね、ここに文章を書き始めたとき、とても書き続けられる自信がなく、とにかく八月いっぱいは何とか書き切るぞと前もって書くことを決めようと思ったのだ。
でも、結局考えに考えて"ネタ"は10個も出てこなくて、「俺の人生を総ざらいしても出てくる"ネタ"はこんなものなのか~」と地味に落ち込んだものだったのだ。

まあ"ネタ"つうのはタイトルであったり、書き出しの一文であったりなんだけど、がんばって捻り出したモンだからね、見てみると一個を除き全て消費してますな。
ただ最初から一日に二回も三回も更新してるからね、一週間ほどで出し切ってます。
この時の燃え尽き感はなかなかだったと思い出しました。

まあだんだん、別に"ネタ"とかなくてもPCの前に座れば書くことはなんとかなるって感じになってはいったけど。




Ⅶ:閃き

今月(2010年1月)の12日でここに書き出して一周年です。
その間に八ヶ月、一年の四分の二ほどブランクがあるけれどまあ気にしない。
一応そこを目指して書いていたのでとりあえずそこで気持ち的に一区切りです。

さて今月のテーマどうしましょうかね。
う~ん、まあそのうち何か浮かぶだろうからしばらくは様子見かな。
誰しもそうなのかもしれませんが、こういうトコに書くときってウンウン考えても何もアイデア出てこないんですよね。
ボ~としてる時にいきなり文章がダ~と最初から最後まで浮かぶ感じで。

でも僕ら一般ピーポーはそういう「閃いた!」な、"想像の翼"なんていつ何時羽ばたいちゃうか自分でもわかりませんよね。全くコントロールできない。

そのクオリティーは置いといて、僕もここに書いている文章なら、本当に全くの無から一瞬で頭の中に完成して出てくることあります。
つうても、その出てくる対象はそれぞれだろうけど、これは特別な現象でも何でもなく、こんな経験ある人は結構多いですよね。

で、それを基本二本の指で現実に文字に起す作業と時間がもどかしいこと。

あと「うわ!湯水の如くアイデアが湧いてくる、俺って天才!!」と思ってたら単に他人の着想・発想・作品を完璧にパクッてるってことも間々あるんで注意が必要ですね。(注:我ながらありましたね・2013/11/04)
ま、パクるんなら最低限相手へのリスペクトは持ちましょう。

それすらないのは、流石にただの泥棒です。




Ⅷ:終了

つうわけでこの11日でとりあえず一段落、シーズン1終了ということで。
そこで何か変わるってこともないんですが、己への妙な決め事はリセットしようかなと。

正直、去年の年末くらいから自分が書く文章の内容の無さがどうしようもないレベルにきてる自覚もありますし。
飲めるように水で薄めたカルピスの原液(かな?)をさらに薄めてしまったような。
ま、物凄く限られた時間かつ完全にノープランで文章を二つでっち上げるっつう実験としては悪くはないんですが、それはあくまでも僕個人の問題ですからね。

というわけでシーズン2の予定は未定ではありますが、より自由にやろうかなと思っています。

まあ気づけば僕の文章歴もだいたい五ヶ月。
我流で(基本)シコシコ毎日書き続けたので、そろそろ取り返しのつかない癖がついてしまっている頃でしょう。
が、まあ気にしない。

本当は狙っていろんな文体や、いろんな内容を書いてみたい気は最初あったんです。
私小説風であったり、ファンタジー風であったり、ルポルタージュ風であったり。
一応、特に最初の頃、書いてはみたんですが中々難しいですね。




Ⅸ:氷雨

やってもうた。

「かえりた~い、かえれな~い、かえりたくなはぁい」とエンドレスで口ずさみながらガムシロップ1P13g(使用前)を指先でウニウニしていたら力加減を間違って破裂させてもうた。←最近プチプチ感覚でやってしまいます
おかげでPC周りがシロップまみれに、やっとこさ全部拭きとれました。はずです。結構シロップって遠くまで飛び散るのね。

う~ん、しかし今日は何か体の動作の誤作動が多いな。
頭がボーとして集中力が続かないし喉や間接も少し痛い。これは風邪ひいちゃったかな。

で、シロップの拭きとりが一段落したトコで、朝から頭の中で鳴り続けている↑の曲を聴いてみたら「あれ?」歌詞が全然違うじゃないですか。当ってるのは"かえりたくなはぁい"んトコだけ。
どうりで年配の方に「これ何て曲でしたっけ?」と歌って聴かせたら妙な顔をされたのだな。
とりあえず「氷雨だよ」つう答えはいただきましたが。

まあ変な脳内修正を加えて記憶しちゃってることって僕はよくあるんですけどね。
歌詞もそうだし、ドラマやアニメや漫画のキャラクターの名前とかも。
濁点がついたり消えたり、位置が変わったりとか。
もちろんこのHPを前から読んでくださってる方なら御存知のように、それ以外にも僕の記憶違いは日常的に多々あります。
見切り発車やいい加減きわまりない、信用がおけない、馬鹿っぽく胡散臭い文章や考えがココには山と積まれています。一応五ヶ月間ほぼ毎日書き続けたからね。

でも翻って考えるに、そういう記憶違いなど知識の不正確さの中にこそ、人とは違う僕個人の独創が生まれうる可能性があるのではないだろうか!?
はっきり言ってそれは単なる大馬鹿者なんだろうが、そこを突き抜ける可能性も秘めているのではないだろうか!?

想像力が既成概念を凌駕するっつうかね。

と、思っとこう。

これは明日あたり熱でるかもな。





Ⅹ:201001112033

では、とりあえずシーズン1終了ということで。

これは単なる自分の中の一区切りですが、今まで訪問してくださった方には本当に感謝でございます。
今後はもしかしたら今までとは違った意味で「なんじゃこりゃ?」な文もここに書くかもしれません。
だから、たまに、ゆるゆると、ときたま来ていただけたら感謝感激です。

え~僕もココに書くようになってから、いろんな人のブログとかよく読ませてもらうようになりました。
日常の何気ない出来事を書かれていて、それが毎回面白く新鮮に読めるブログが沢山ありました。
これはその人の文章が凄いんだと思います。
僕には文章の技術的なことはまったくわかりませんから、そこらへんに関しては何も言えません。
だからもしかしたら技術的に凄いのかもしれません。

ただ、本当に何気ない日々のうつろいを書かれていて、それを毎回新鮮に面白く読めるというのは、やっぱりその人の文章が凄いとしか思えません。もちろん写真と文で「合わせ技一本!」な文章もそうです。

ちなみに僕はそのような文章を書く自信はありません。
才能が無いんだと思います。
だからココみたいな斜め41.634度な妙な文章を書いているわけです。
もちろんコレはコレで毎日書こうとすると大変ではありました。

明日の関東は冷たい雨ですか?
とりあえず体調は別段悪くはならないけど、これといってよくなった感もない201001112033な夜でありました。


はよ寝たほうがよかですかね。




XI:

さて、僕がここに文章を書くようになったのが・・・え~と、実質去年の8月21日スタートだから昨日でちょうど8ヶ月ですかね。

つうことで今日から晴れてここの店子生活も9ヶ月目に突入!!したがって僕の文章歴も9ヶ月目に突入!!
で、いいのかな?あれ?どうだ?よくわからんぞ。
いや、たま~に”以上”とか”以下”とか”未満”とか”目”とかよくわかんなくなるんですよね、アホだから。

ま、大体そこらへんということで、最初とりあえず8月いっぱいは何とか頑張って書こうと思ってたことを考えると、よくもまあ続いております。

で、ここでの店子生活(注:ocn cafe・2013/11/04)と僕の文章歴は完全に重なるので、まだまだ車だったら若葉マークもとれない短い期間ではありますが、最初の頃の自分の文章を読むとやっぱり今は随分変わったなぁと自分では思います。
もちろんその時々で、狙って、実験のつもりで、意図的に、文体(なんか偉そうだ)を変えたりもしましたが、基本的には自然な、いつの間にかな変化です。

ただ、最初の頃のほうが、今よりも、全然見知らぬ、何処に存在するのかもよくわからない、いわゆる”世間”つうもんを気にして文章を書いていたような気がします。文章を自己規制していたような気がします。

今もしてないわけではないのですが、そこらへんはどんどん自由に、自分が書いて読んで気持ちいい文章を書けるようにはなってきている気がします。今、僕が書きたい文章を、書きたいように書く、と思えるようになってきています。

そんなのただの自己満じゃね~か、つうご意見もあるでしょうが、別にこれで金貰ってねえからいいじゃね~か、つうことで。どこにも対価は発生していないんで。ま、貴重な人生の中から読む時間はいただいておりますが。

つうか、だからこそ、ここを訪ねてくださって、一度きりの自分の人生の時間の一部を、僕の人生の時間と重ねていただいたからこそ、僕は自分の内のモヤモヤを何とかつかまえて言葉にして、それを読んでもらいたいんです。少なくとも今はそう思います。


ま、それがφ( ̄▽ ̄φ)☆(φ ̄▽ ̄)φだったりするのはご愛嬌ですよ。



・・・・・・・・・



18.と、おもうんですけどね
 
 
Ⅰ:リスペクト

ずいぶん前の話ですが「トルストイは原文で読まないとその本当のよさはわからないよ」と言われた事があります。(注・訳文でも読んでおりませんが。「戦争と平和」のかなり早い段階で挫折しました。2013/11/03)

さてイビチャ・オシム著/長束恭行訳「日本人よ!」よりまたまた勝手に引用させていただいて

『私は「リスペクト」という言葉を多用している。日本語に訳せば、「尊重する」とか「尊敬する」という意味のようだが(略)私の言うリスペクトとは、「すべてを客観的に見通す」という意味である。すなわち、「客観的な価値を見極める」ということだ。』

・・・なるほど。

でも僕が使っている「リスペクト」はやっぱり「尊重する」とか「尊敬する」という意味ですね。
それに昔、身近でちょっとした感情的な揉め事(些細)があったときに外国の方が書いた英文のメールの内容がたしか「異なる人種間であっても、お互いを尊敬する心は大切で・・・」みたいな内容だったけど、確かRespectって単語使われてたし。ま、その原文を再現する能力は僕にはないんですけどね。

ただこのオシムさんの発言の前後も読んでみると、オシムさんが言われてるのは変な色眼鏡をかけず「客観的な価値を見極め」てこそ相手を「尊重」も「尊敬」もできるようになるのだということなのかな?結論は一緒だと。ただその言葉の"深度"が全然違うと。というか、やみくもな「尊重」や「尊敬」は本当に相手を”リスペクト”しているわけではない。それは・・・

おや?このまま日本人論に、というか怪しい方向に持っていけますな。
いやいや、危険危険、思いつきこじつけはよくない。我田引水はほどほどに。

で、ですね。

この本はたぶんオシムさんが話されるのを録音し、後で編集しつつ文章に起こしたものだと思うんですが、オシムさんは何語で話されたんでしょう?何ヶ国語か併用されたんでしょうかね?

『日本語に訳せば、「尊重する」とか「尊敬する」という意味のようだが・・・』

の「尊重」「尊敬」にはオシムさんは何の言語のどんな単語をどのような表現で使われたのでしょう?
当たり前ですが「Respect」という単語は使われてないでしょうし。

そこらヘンをオシムさんが実際に話された言葉で読むこと(聴くこと)ができれば、オシムさんが本当に言いたいことと受け手の僕等が読んで感じる事の誤差(その幅は人それぞれでしょうし、誤差がなくなることはないでしょう)が少なくなる気がしないでもないです。

もちろんオシムさんの話はあくまで「たとえば」で、翻訳者の方の仕事にケチをつける気はないです。

多様な民族の歴史・文化の違いによる言語での感情の表現の仕方の相違などもふまえての、日本語への翻訳というお仕事には敬意を持っています。

それに翻訳者の方がいないと現状日本はすぐに書物的というか情報の孤島になってしまいますしね。
すくなくとも僕はね。

とりあえず”I'll stand by you”を”私はあなたを支持します”と訳しているようじゃネット翻訳もまだまだですよ。
そこは”俺はずっとおまえのそばにいる”と情熱的に訳しなさい。←現実問題、こう訳せるのかね?ええ雰囲気で書いてます




Ⅱ:長崎の鐘

永井隆さんがお書きになった「長崎の鐘」を読む。
これは、医学博士でカトリック教徒だった永井隆さんの長崎での被爆体験記録です。
この著作のなかで永井さんは、神への信仰、他者への愛を基調としながらも、医学博士らしく(かな?)被爆前後のいろんな事実、思いをストレートに書かれています。
それは21世紀の今、時空を超えて永井さんの魂と向き合うこちらが少し戸惑うほど。

しかし正直うれしさもあります。
文章を読むよろこびかもしれません。

それは誤解を恐れずにいえば、僕の中にぼんやりとあった、変に神格化された永井隆さんじゃなく、僕等と同じ"人間永井隆さん"にお会いでき、会話を交わすことができたよろこびです。

でもやっぱり、ゆるぎない神への信仰があるからこそ、いろいろな思いを赤裸々に書けるものなのかな?
それとも単に当時の日本人(永井さん従軍経験もあるし)の気概なのかな?
そこはクリスマスもOK、元旦はやっぱり神社でしょ?な、なんちゃって仏教徒の僕にはとても推し量ることはできませんが・・・

よろしかったら皆さんも一度読んでみて下さい。図書館とかで普通に借りれると思うので。
頃も良し。読書の秋ですし。

もちろん想像力の翼をはばたかせた創作を読む楽しみも読書にはあると思います。
でも現実にはもう会う事がかなわない、僕達と同じように悩み、苦しみ多き人生を生き抜いた、そんな過去の人達の魂にお会いすることができるというよろこびも読書にはあると思うんです。


でもホントにちょっと読んだだけでも興味深いんです。


被爆直後、何が起こったのかわからず

「太陽が爆発したのではないか?」
「そういえば急に気温がさがったみたいだ」
「太陽が爆発したら世界はどうなるのか?」
「それで昼飯はどうする?」
「死なぬうちにわけてくおうや」
「ああ、太陽は大丈夫だったんだ」
「しかし昼飯はわけてくれよ」
「どこに爆弾落ちたんだろう?これだけ壊すにはこの部屋に命中してなければいけないが穴もあいていない」


長崎に落ちた爆弾が原子爆弾とわかり同僚の先生達と

「だれが完成させたのだろう。コンプトン?ローレンス?」
「アインシュタインも大きな役割を持っているにちがいない」
「米国の科学陣の勉強ぶりも想像されるが、たくさんの犠牲者が出ているにちがいない」
「犠牲者なくして科学の進歩はないさ」
「とにかく偉大な発明だねえ、この原子爆弾は」


日本の敗戦。患者さんから診て欲しいと迎えがきても

「国敗れて何の患者ぞや。今日は一億が泣いているのだ。一人や二人の患者の生死が問題になるものか。そんな患者を助けたところで、今さら日本が立ち上がるものじゃなし。断れ」


しかし、その使いの人が力なく帰っていく後姿をみて

「一人の尊い生命をこそ助けねばならぬ。国は敗れた。しかし傷者は生きている。戦争はすんだ。日本は滅んだ。しかし医学は存在している。私たちの仕事はこれからではないか」
「日本が個人の生命をあまりに簡単に粗末に取り扱ったから、こんなみじめな目にあったのではないか」
「個人の生命を尊重し、ここに私の立場をつくる一つの礎石があるのではあるまいか?」





Ⅲ:宇宙

僕の人生を新聞記事風に文章にすると、纏めて二行?頑張って三行?水増しして四行?
ざっくり無駄を切られて、結果一行?

う~ん、やっぱりそんなもんか?

でもその一行の中には、ビッグバン前の宇宙のように僕の人生がぎゅうぎゅうに詰まっているんだぞ!!
心して読むのだぞ!!
行間を読んで”ドガン”とビッグバンを起こし、ちっちゃいちっちゃい一行を果てしの無い、無限に広がる大宇宙に脳内変換して読むのだぞ!!
頼むのだぞ!!

ん?一行には行間は無い?

いえね。もちろんそんな文章は無いんですけどね。
ただ、さほど有名でない歴史上の人物だったり、無名の市井の人であったり、そんな人の生涯は記録としてもかなりコンパクトに書かれてたりしますが(それが当たり前でもありますが)、そんな文章ひとつひとつの中にもし入り込めるとしたら、それぞれに凄い宇宙が広がってるんだよなぁと思ったりしてね。

物凄く形式的に書かれた少ない文字数の中に果てしのない宇宙がある。

でも、この人達の思いは今どこで何してるんだろう?
ゆっくり休めているのかな?
過ぎた人達とはいえ、こそ、不用意に無責任に他人の思いに触るのは、その人たちの眠りを妨げることになるのかな?




Ⅳ:神在月

神無月・・・もともとは旧暦の十月の異称
October・・・もともとはラテン語でNo.8

どちらもずれててまあ大変
山や川や谷やそこらにお住まいの八百万の神様達の中にもうっかり者はいないかい?

さて台風きてますね。
どうですかね?もうそろそろラストオーダーでいいんじゃないですかね?

豊葦原端穂国の山も森も、そこにお住まいの八百万の神様達もそろそろ「もう飲めましぇ~ん」て感じじゃないの。
もうこの列島の豊かな自然をキープするには十分な水をお腹の中に溜め込んだんじゃない?
まだ飲み足りない?

それに出雲大社では神在月のお祭りは旧暦でやってるんでしょ?
だからこれは私見ですが、今月、十月が新暦で神無月だからといっても八百万の神様達はご自身のお住まいにちゃんといらっしゃるんじゃないかな。
そりゃ中にはうっかり者や新し物好きの変わり者の神さんいらっしゃるかもしれませんがね。
なにせこの国の神さん(こう呼びたい身近さです)は、いたる所、山、川、森、林、なんなら何気ない辻にも沼や淵にもいらっしゃったりするみたいですからね。

もちろん、うっかり八兵衛もコンドルのジョーも悪くないですよ。
が、ほとんどの神さんは地元にいらっしゃるでしょう。
ほら、昔の人?は頑固だから。

だから十月に結婚される方がいて、今月が神無月だからと言っても、神さんたちはちゃんと居て、結婚されるお二人を祝福されてると思います。
都会よりも自然豊かな場所の方が神さん達も大勢いて、沢山の祝福があると思います。




Ⅴ:さよなら大好きな人

ベルリンの壁が壊れて 冷戦が終わって
電脳世界は大発達 時代はグローバル、ボーダーレスときたもんだ

嘘つけ 壁は「在る」じゃないか 
見えなくなった分だけタチ悪いわ

は、どうでもよく

僕が尊敬する人の話。

この人は来日12年目のとある外国のお人。
来日当初は日本語全くできず、馬鹿にされ、差別され、区別され、それでも必死に独学で日本語を習得し、僕と知り合った頃にはもう日常会話は全然OK。箸も器用に使いこなし、納豆も大好き。「本当にガイジン?」と冗談を言うほど。

とは言ってもやはり独学。不備は彼方此方。話が可笑しなすれ違いになることもしばしば。

このお人、何故か花*花の"さよなら大好きな人"が大好き。
CDを聴きながら大声を出して歌う。
コレがまた怪しい日本語で「俺がカラオケで外国の曲歌う時もこんな感じなんだろうなぁ」と妙な感慨を持たされる。何だか恥ずかしく、面映い。

「もう、やめてよ。聴いてて変だよ。日本語になってないよ」

堪らずそう言っても、歌うのを止めてくれない。

「ボクさ、いつか自分の国へ帰ったあとにさ、この歌聴いたら泣いちゃうよ。絶対に泣いちゃうよ」

僕と二人きりのとき「日本人が嫌いだった」と言った人が、そういって歌うのを止めてくれない。




Ⅵ:君の名は

月と地球

四十五億五千万年の秘めた恋でいいではないか



・・・・・・・・・
 


19.ハトってあんなに首を振って歩いて酔わないのだろうか?
 
 


いうわけで




Ⅰ:最終戦争論

石原莞爾さんの「最終戦争論・戦争史大観」を読んでると、この最終戦争論てある種、石原莞爾さん言うところの”日蓮聖人の宗教”に基づく「世界日本化計画」な気もしちゃいます。

と思ったら、質疑応答の中に「最終戦争の必然性を宗教的に説明されているが、科学的に説明されない限り現代人には了解できない」つうのがあり、それに対して「私は日蓮聖人の信者として、聖人の予言を確信するものであり、この信仰を全国民に伝えたい熱望を持っている。」「しかし(略)この論は私の軍事科学的考察を基礎とするもので、仏の予言は政治史の大勢、科学・産業の進歩とともに、私の軍事研究を傍証するために挙げた一例に過ぎない」と仰られてますね。

で、まあ、この稿の内容に関してはいろいろ思うとこはありますが、そこらへんは小ずるく回避いたします。
ただ、本稿は昭和15年5月29日京都義方会における講演を下敷きにしているみたいですが、この時期なら原子爆弾の開発・実用化は、ある程度の知識がある、それを持てる環境にある方にはもう十分予想できたんじゃないですかね。


んで、またぼんやりと思い出したんですが、当時まだブイブイ言わしてたヒットラーさん。石原さんも”英雄ヒットラー”と表現されていますが、これはまあ人は人であり神ではないので。

んでで、たま~に、「ヒットラーがもし戦争を始める前に死んでいたら、第一次大戦の敗戦で底の底まで落っこちたドイツを見事に甦らせ、奇跡の経済復興を成し遂げたそれこそ英雄として語り継がれていたに違いない」みたいな話もちらほら聞く気もします。

んででで、これは児島襄さんの「ヒトラーの戦い」で読んだのかな?どうだったかな?
あのドイツ第三帝国の奇跡的な経済復興には色々無理があり、もともと経済も含めたすべてのベクトルが”開戦”に向けてのもので、それは止めれるもんじゃなく、もしかしたらいろいろ危険なドーピングやりまくってる感じで、もう戦争を始めん事には第三帝国は最終的に破綻するしかない状態だったってのは。(超あやふや)


まあ、どちらにしろ、当時には当時の空気、状況があったのだ、それを”今”の感覚で一方的に裁くのも・・・と言うことで、この話放り投げさせてもらいます。




Ⅱ:平和

今先、1977~8年くらいに西ドイツでハイネ賞(て何でしょう?←ま、いちおう)を受賞したらしい、セバスチャン・ハフナーさん著・赤羽龍夫さん訳の「ヒトラーとは何か(原題・ヒトラー注釈)」を手に取り、とりあえず開けたトコを読んだら

『つまり戦争が主権国家からなる世界では避けられず、他方で技術時代の人類にとってその生存を脅かすものとなっているのであれば、一切の戦争を終わらせるための戦争というものが、このような人類の状況から必然的に生じてこなければならないということになる。』
『そうだとすると、制度としての戦争を廃絶する唯一の方法は世界国家であろう。そして世界国家への道はおそらく世界征服戦争に成功する以外にはないだろう。とにかく歴史上の経験はそれ以外の道をわれわれに示していない』


別に石原莞爾さんじゃなくても、最終戦争による絶対平和(とはローマ帝国とかみても絶対に言えんけど)の確立ってのは、普通に考えていけば当然たどり着く結論なんですかね。
敵をすべて滅ぼせば戦争をする相手がいなくなり、結果として平和になると。
んで、その後、いかなる手段を使っても敵の存在を許さなければ、その平和は永遠なものになると。


が、世の中はうつろうので今後どうなるかは知りませんが、あくまで現在、冷戦終了後「主権国家からなる世界」の激突つう発想がちと古いものになってしまったと(アジアではまったく古くないかも、ほんと世界の時間はどこも均等に流れているわけではないですね)。

今の監視・管理技術では「世界征服戦争に成功」した結果の世界は争いのない平和な世界ではなく、テロリズムが跋扈しまくりの世界ではなかろうかと。


石原さんは「最終戦争論」(べつにこのご本が世界的に古典になっているってわけではないですよね)で、これまた(石原さん的に)思考の当然の帰結としてテロの台頭を予測されていた気もしますが、この本はココしか読んでいないんで、ハフナーさんがどうお考えかはよくわかりません。




Ⅲ:ムーサーさん、家賃を払うお金が無いので、押入れの上段を”家”として借りていたそうです

またもやここで井筒俊彦さんと司馬遼太郎さんの対談「二十世紀の光と闇」の中から、井筒がお話になられたご自身の若き頃のお話(を僕が勝手に要約)。


井筒俊彦さん。
大正三年生まれ。イスラーム学の泰斗で革命前のイラン王立哲学アカデミーの教授も勤める。

この井筒さんが若い頃、時代は日中戦争中、日本には日本の軍部の協力で西洋の軛(くびき)に苦しんでいたイスラーム諸国を糾合し、再びサラセン帝国の栄光を取り戻そうというパン・イスラミズム運動の志士の人達がたくさん来日していた。
そしてその中に頭山満さんや軍部の人等と頻繁に会合を開いていた大物がいた。
その人に井筒さん「アラビア語を教えてくれ」と頼み込む。

当時、井筒さんはアラビア語の習得に苦しんでいた。
何故ならアラビア語を教えてくれる学校も独学書も日本には無かったから。
そんな中、イスラームの学者が日本にいるという噂を人づてに聞き井筒さんは飛びついた。
もちろん相手はしぶる。
それは当然、相手は日本にアラビア語の教師をしにきたわけではなく、日本の軍部と協力してヨーロッパによる植民地支配を脱し、イスラーム帝国を再興させる計画を練りにきたのだから。

が、井筒さんの熱意に負けてか、イスラーム(教)も一緒に勉強するという条件つきで教えてくれることになる。
習い始めると井筒さんは素晴らしい生徒で、しばらくすると相手に「お前は私の息子だ」と言われるようになる。
そして「お前に教えることは、私にはもう何もない」と。
でも「私など比較にならない大学者がもうすぐ日本にくる。その人に習うがいい」と言ってくれる。

その大学者、ムーサー・ジャールッラーハさん。無事、来日。
井筒さん、早速訪ねてムーサーさんに弟子入りをする。

ただ、教えてもらうといっても、ムーサーさん着の身着のままで、本もなにもない。
どうするのだろうと井筒さんが思っていると「イスラームでやる学問の本なら何でも頭に入っているから、その場でディクテーションで教えてやる」と。

千ページ以上の本、その注釈本を一字一句間違わず暗記しているのはあくまで前提で、それに対しての自分独自の意見がある。
井筒さんはいろいろなことをムーサーさんに教えてもらったが、とにかく本は使わなかった。
それがイスラームの昔からの習慣だと。

「何かを本格的に勉強したいんなら、その学問の基礎テクストを全部頭に入れ、その上で自分の意見を縦横無尽に働かせるようでないと学者じゃない」


突然ですが稗田阿礼さん。

このお方、とりあえず七世紀後半から八世紀初めにかけての人物で、古事記の編纂に携わったといわれてるお人。
目にした、耳にしたもの総て、あますことなく記憶できたという異能の人。
ま、そんな人本当にいたんかい?とも思います。

いたかも。





Ⅳ:続き

で、ですね、その対談の中で司馬さんが

「世界には国が百五十ほどあるそうで、一方民族は数え方によると六百ほどになるそうですね。それをひとつの国々に収めるわけにもいかない。結局は複合国家が出てきて争いが起こる。民族というのは、神様が決めたわけでもないし、たれが決めたわけでもないのに、しばしばいちばんの憎しみの対象になるのはどうしてだろうということを考えておりました」

それにたいして井筒さんは「司馬さんが考えておられるようなことを、私はあんまり考えてなかったんですけど」という前提で

「現代、国際社会ということが大きな問題になってきていますが、国際的な一元的な世界ができるには、そのなかにさまざまの要素が入ってこなければならない」
「さまざまの要素は、民族の場合には文化パターンというか、文化パラダイムで成立しているので、それが衝突するのはあたりまえで、衝突を超えてこそ、初めて本当の国際社会というものができるんじゃないか」
「そこにいたる過渡期として、いま非常な危機を経ている」
「私は、危機を経てもいいんじゃないかとおもうんです」

で、ですね、この対談のすぐあとに井筒さんは亡くなられています。

これは僕の記憶頼りで書きますが、井筒さんへの追悼文の中で司馬さんは「井筒さんは『危機を経てもいいんじゃないか』とおっしゃっていたが、私は井筒さんは『本当の国際社会というものができるためには、人類は衝突という危機を経るべきだ』とおっしゃりたかったんじゃないだろうか」という趣旨のことをお書きになっていたような気がします。
もちろん、あくまで、僕の記憶頼りの”気”です。

この対談がおこなわれたのは(たぶん)1992年。
冷戦の終結、つまり恐怖の均衡による平和の終結。そして湾岸戦争、民族紛争。

そして今。ちょうど今。
ほんと、やっぱり、世界の時間はどこも均等に流れているわけではないですね。

ちなみにこの対談がおこなわれた当時はまだまだインターネットは当たり前なものとして世界を覆ってはいませんでした。




Ⅴ:あらかじめ失われた革命

あらかじめ失われた革命。

まあ、12月はこれで行こうかな?って思ってるんですけどね。
まあ、これまた中谷美紀さんの「砂の果実」の歌詞を200%くらいパクってるんですけどね。
まあ、11月のテーマだった「接近・展開・連続」は結局ドコ行った?つう噂もあるんですけどね。
まあ、些細なことだ気にすんなって感じなんですけどね。

さて話を変えまして、随分前に僕は冗談で『ブルジョアとプロレタリアの真の対決の世紀となるであろう21世紀』と書きました。
もしかしたら21世紀後半から22世紀初頭にかけてくらいで本当にそうなるんじゃないかい?て気がちょっびっとせんでもないですな。
もちろんそんな適当予想が大ハズレでも、僕はこの世を「バイなら」してるだろうからあんま問題はないですな。

つうか逆に国境を越えた身分階級が形成され固定、ジョージ・オーウェルさんの「1984」も真っ青な地球規模のド管理社会になってる可能性もありますわな。

そうなると突破口はテロリズムくらいしかなくなりますかね。
でも科学技術は日進月歩、もしかしたらテロを行なう余地もないくらいの人類ド管理システムが構築されてるかもしれませんな。
う~ん、テロをおこなう余地の一切無い、完璧に管理された社会を生きる人たちは幸福なのだろうか?どうだろう?
もちろんこれはテロを肯定する発言では決してありませんよ。そんなん当たり前です。
それをさらに上回るだろう”悪意による平和”への違和感です。

つうても「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」とアジるつもりはないですよ。
僕はノンポリです。

それに『僕は人が人に対して一番残忍になれるのは、自分の正義を確信した時だと思います。自分に絶対的な正義があると思ったとき、人は人へどんな残酷な事でもできるようになるのだと思います』という思いは変わりませんからね。

ま、いつものように適当なホラ話であります。





Ⅵ:えとせとらえとせとら

文字を考えついた人は偉い!
文字を見つけた人でも偉い!
いるんだったら偉い!

だって文字を発明・発見したおかげで世代を超えた知識の蓄積ができ、その積み重ねで現在の文明の発達をみることができたわけだし。いつまでも稗田阿礼(この人の時代は文字あったけど)頼り、つうか口伝では、そりゃなにかと限界ありまくりですわな。

ま、もちろん「地球を破壊しかねない文明なんて発達する必要はなかったのだ!」つう考え方もあるでしょうが、僕は「人間はそこまで馬鹿ではないだろう」と思ってしまうクチなんで。
ただ、文字による知識の蓄積でソフトは随分進化しまくったけど、それを利用するハード、つまり人間自身は何千年も前からたいして進歩してない気がしないでもないですよね。

差別、戦争、嫉妬、誤解、えとせとらえとせとら・・・
魔女狩りだって今でも普通に身近なトコでやってるしね。




Ⅶ:つがい

そういえばハトってさ、たしか求婚行動でオスが追っかけ、メスがとりあえず逃げる(ハトの集団よく見てると〈暇人〉確かにやってる気がする)らしいけど、いったん”つがい”になったらほとんど一生添い遂げるらしいね。

な文章をむかし読んだ気がします。

ええ”気”です。



・・・・・・・・・
 
 

20.それちょうだい 
 
 


いうわけで


まあつまりアレですよ、僕の”読んだ気がする”をもとにすんのも非常になんですが、司馬さんがいう、井筒さんの『本当の国際社会というものができるためには、人類は衝突という危機を経るべきだ』という考え。
つまり、異なる民族どうしの文化パターン・パラダイムの衝突という非常な危機を経ても大丈夫だ、人類はかならずそれを克服するという信頼。

んでもってここで司馬さんの「街道をゆく31・愛蘭土紀行Ⅱ」から引用させていただいて

『一つの民族が他の民族に歴史的怨恨をもつというのは、その民族にとって幸福であるのかどうか、わかりにくい。
「それは歴史を知らない者の謂(いい)だ。」という人があれば、その人はきっと歴史というものを別なふうに理解しているのだろう。
歴史は本来、そこから知恵や希望を導きだすべきものなのである。でなければ人類は何のために歳月をかさねるのか、無意味になる。』


え~

いいですね

いっちゃいますよ


絶望は答えではない




いうわけで




Ⅰ:ソコまででもこの映画は観る価値ありです

面白いです東宝特撮映画DVDコレクション第4号「海底軍艦」。

期待以上のワクワクドキドキな海洋(海底軍艦空飛ぶけど)冒険活劇です。


ただし

地上征服の野望に燃える海底国家ムウ帝国の強力時限爆弾攻撃により、地下に陥没していく東京丸の内ビル群。
時を同じくして突如として東京湾に現れるムウ帝国の潜水艦、その潜水艦より発せられる怪光線により次々と燃え上がる湾内の艦船。

あやうし東京!あやうし人類!!

そのとき、空を切り裂き飛来する謎の飛行物体。
それこそまさに人類の危機を救わんと飛来した海底軍艦「轟天号」の勇姿なのだ。

たたかえ海底軍艦!たたかえ轟天号!!

てトコまでだけど。


もちろん作品として面白いです。また繰り返し観ることでしょう。
でも、ちょっと最後駆け足すぎませんかね。あっさりしすぎというか。
序破急つうても急すぎです。

それにムウ帝国の守護竜「マンダ」。
登場シーンはカッコよかったのに!
巨大な竜が轟天号にからみつく写真子供の頃から見てたから、轟天号とのあいだにどの様に壮絶なバトルが展開されるのか凄く期待したのに!
思わず「幽霊の正体見たり枯れ尾花」って言葉が頭に浮かんじゃったじゃないか!

↑記憶に自信ないんでこの言葉ネットで検索しちゃったじゃないか!


でもこの「海底軍艦」、ちょちょっと資料を読んだら他の作品がぽしゃり、その代案企画として急遽製作が決定したもので、撮影期間は実質三週間だと。
だから特撮も物語も最後の方は駆け足、手抜きっぽくなっちゃったのかなぁ。
なんかデッサン描きをそのまま完成品として出してきたような煮詰めてない感じがちょっとしちゃいました。
ラストのムウ帝国爆発シーンは「おお!」と思いましたけど。

おしい!ホントにおしい!
終盤直前までの密度が最後まで持続されれば、最高に素晴らしい「ホラ話」になったのに!




小林哲子さん演じるムウ帝国皇帝。
メイク、衣装ともクレオパトラっぽいイメージだと思うんですけど、僕は安田靫彦さんが描かれた卑弥呼みたいだなと思いました。




Ⅱ:魔

まだまだ「海底軍艦」話でございます。ケチをつけつつ気になってしょうがない。
これが人相手なら立派な恋でございます。

この昭和三十八年公開の「海底軍艦」は明治三十三年に押川春浪さんが発表した「海島冐檢奇譚 海底軍艦」が着想もとになっているみたいです。
で、ちょっと検索してみたら、どうやら映画とは海洋の島で秘密裏に建設された"海底軍艦"つう以外の共通点はこれといってないみたいです。なにより「海島冐檢奇譚」の方の"海底軍艦"は轟天号ではなく、潜水艦「電光艇」です。


んで、今度は潜水艦を検索してみると。

へ~結構古くからあるんですね、潜水艦。
もちろん伝説としては昔からあるのは知っていましたけど。

17世紀前半に(たぶん不完全なんでしょうが)開発され、18世紀後半、アメリカ独立戦争でアメリカが初めて実戦に投入すると。んで19世紀中頃すぎ、これまたアメリカ南北戦争で南軍が使用し北軍の船を沈めたのが潜水艦として初めての戦果みたいです(移民の国アメリカは昔から兵器でも好奇心旺盛、新し物好きなんですかね)

んで、古来、新しい兵器が開発されるたびに繰り返されてきた思いでしょうけど、当時は潜水艦は卑怯な悪魔的な兵器だと西洋では忌み嫌われていたみたいです。(人殺しの道具の発達なんて忌み嫌って当たり前ですけど)
まあ技術的に、水面下の見えざる敵にたいする有効な対抗策がなかったんでしょうしね。

その潜水艦のもつ悪魔的な謎の雰囲気も押川春浪さんの"奇譚"のイメージ創りにはよかったんですかね。

たしか司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の中に日本海海戦(明治三十八年)での日本海軍のあまりの戦果(バルチック艦隊ほぼ全滅)に「潜水艇を使ったのではないか?」という疑念を白人社会に持たれたという話がなかったかな?(そこに人種意識が働いたかどうかは考えんときましょう)

でで、潜水艦の本格的実戦投入は第一次大戦のドイツ帝国だと。←「海島冐檢奇譚 海底軍艦」が発表された十五年後くらいですか。

このへんから有史上、人が人を一番殺したろう悪魔の二十世紀の開幕ですな。




Ⅲ:ほどほど

寒い雨の日が過ぎ、暖かい朝日を浴びると、心からお天道様の日差しの大切さを実感しますね。
でも日照りが無駄に続くと、今度はお天道様は怨嗟の対象。一転、雲を雨を嵐を渇望してしまうようになりますよね。
すべては程度問題ですか?
やっぱり目指すは中庸・中道。

ほどほどが一番。

でも三島由紀夫さんの戯曲「わが友ヒットラー」は、極右と極左を粛清し、政権を取った直後のヒットラーの「政治は中道であらねばなりません」(記憶による)て台詞で終わりますけどね。
ええ、もちろん歴史的事実を素材にした"Fiction"ですよ。


そういえば、潜水艦。
アメリカが実戦投入に踏み切るのが早かったのは、西洋で悪魔の兵器と忌み嫌われていたせいもあるんですかね。

その西洋からはみ出し、自分達の昔の祖国への独立戦争をやったアメリカだからこそ、積極的にそこ(空気)から逃れる事ができたとか。




Ⅳ:9番目

ところで11月。霜月。

神無月の時も思ったけど、もともとは旧暦の呼称で、現在は新暦の11月の別名としても用いていると。
どうなんでしょ。旧暦つうのは日本人の生活サイクルにかなり密着したモンだったんだろうし、その名称をそのまま安直に新暦にスライドさせるっつうのはいろいろ生活実情にあわないこともあるんじゃないのかな?

空調完備の快適現代日本人にはそんなことあんま関係ないか?

November。9番目。




Ⅴ:開拓

引っ越し後、未整理のダンボール片付けようとゴジョゴジョやってたら『愛国駅発行”愛国”から”幸福”ゆき』つう電車の切符が出てきた。

何だこりゃ?いったい何時のやねん?何もっとんねん?知らんぞ!ちゅう話ではありますが、いや別に乗っかってもいいですよ。

そうですか、僕、自分でも知らん間に”幸福”ゆきの切符入手しちゃってましたか。
しかも片道切符。”幸福”に着いちゃったらもう戻ってくる必要ないと。あっちで幸せにやってろと。
いやいや、いい話じゃないですか。で、この電車にはどちらにいけば乗れるんですかね?
と、非常に昭和のオッサンくさい展開をみせましたが、いや別に乗っかってもいいですよ。

だって、別に悪いこっちゃないですからね。

(注:これはたしか発泡酒かなんかのおまけみたいな感じでした・2013/11/07)


で、ちょっと調べてみたら、この幸福駅てのは北海道帯広市幸福町の広尾線の駅だと。
愛国駅ってのはどこでしょ?
え~と、北海道帯広市愛国町の駅ですか。

やっぱり、この地名からは、それぞれにそれぞれ分の理由があるだろうけど、明治以後の開拓者による開拓の地という感じを強くうけますね。フロンティア。新天地。その時代の空気の中での。

もちろんアイヌの人たちは、自分たちの天地として昔からそこで暮らしていたわけですが。
といいますか、これはうろ覚えで書いているのでかなり不確かですが、もともとは今の東北地方とかにも、自分たちの天地としてアイヌの人たちは暮らしていたんでしたか。どうでしたか。


さて切符ですよ。

『愛国駅発行”愛国”から”幸福”ゆき』

え~と、この切符の日付の一日後に広尾線は廃止になったのかな?


んで、もう何度か書いていますが、僕の祖父の子供の頃の思い出話。

『大正初頭くらいの冬のある日、家に遊びに来たアイヌの人達と家族皆で楽しく酒盛りをした。
本当に皆仲が良かった、助け合って暮らしていた。』

ええ、僕の中にもかつての開拓者の血は流れています。




Ⅵ:ざっくり

「メタ・ランゲージというものがどうしてもできなくては、さきほどの国際社会のコスモス化というものも成立しないと思いますね。各民族が、おのおの自分の言葉しか知らなければ、だめだと思います」

「だからといって、ほかの言葉を知ったって限界がありますから、それにはやっぱりメタ・ランゲージ的な文化パラダイムというものが成立しないとだめで、そこに哲学の使命があるんじゃないか」

「まあ、理想論でしょうが、そう思っています」

と井筒さんはおっしゃってますね。


ところでメタ・ランゲージとはざっくり”地球語”とおもいなさい。
文化パラダイムとはざっくり”日本人の常識””アメリカ人の常識””イラク人の常識”みたいなもんとおもいなさい。
国際社会のコスモス化とはざっくり”地球国・地球人”になることとおもいなさい。

ざっくりおもいなさい。



ちなみに

「古代ギリシアの思想を持ち込んでくると、実にはっきりと解明されるところが東洋思想には多々あるんです」

「歴史的に影響があったかなかったかには全然関係なく、思想構造的に必然的な相互照明の問題なんです」

「たとえば、真言密教の金剛界マンダラの成身会の『不生無礙常瑜伽』的存在地平の構造なんか、プラトンのイデア哲学やピタゴラスの世界像などを持ってくることによって初めてその独自の構造的整合性の成立が哲学的に可能になる、と私は思います」

ですと。

当然、僕には聞かんように。



・・・・・・・・・



21.おう、べつに台本があるわけではないんだから少々迷走したっていいではないか 
 
 


いうわけで



Ⅰ:すいません、地獄はどっちですか?

だいたい二年前ですかね。どうですかね。
僕はダイエットをして二ヶ月で14キロ痩せました
ただ最後に計った時の差が14キロだっただけで、実際は15~6キロかそれ以上は痩せていたと思います。
最後の方はものすごい上昇曲線で痩せるのが止まらなくなっていたんで。

さて、僕がとったダイエット方法はいたってシンプルです。食わずに運動。これだけです。確実に痩せます。誰でもできます。が、誰にも勧めません。死ぬかもしれませんから。

そもそもダイエットを始めた切っ掛けは何だったか・・・
たいして仲良くもない誰かに「最近太った?」って言われたことだったかな?
いまいち覚えておりませぬ。

僕はずぼらでいい加減で適当な人間ですが、ほんとうに変なトコだけ異常に意思が強いんです。
ある特殊な部分に限り”やる”と決めたら必ず”やり”ます。

で、ダイエットです。
調べると食事制限はよくない、適度な運動で落とすべきだと書いてあります。
でもせっかちな性格の、成果をすぐに目でみたい僕には、それではまどろっこしすぎるように感じられました。
なので食事制限かつ過度の運動で体重を落とす事にしました。

具体的には丸々一日くらい水だけ飲んで何も食べずに過ごし、胃に何も残ってない(気がする)状態にしてからある程度の距離を走ると。そうすりゃ、体の余分な脂肪とか燃やしてエネルギー作るしかねえだろうと。
もちろんそこには何の科学的根拠もありません。
”気がする”だけでやりました。

で、しばらくすると・・・

怖いですね~食欲って無くなるんですね~、一日食べないくらいじゃ全くお腹すかないもん。
一日どころかだんだんそのお腹すかない間隔が延びて行って(お腹すいてないけど蕎麦を一食とかは食べてました)、このまま何も食べなくてもいいんじゃんと思ったり。
ただ不思議なことに「あれ?真っ直ぐ歩けない」みたいな。

ちょっとだけ、ほんとうにちょっとだけ「餓死って楽かも?」と思っちゃいましたねぇ。
そうそう「補陀落渡海ってわりと恍惚の中で補陀落に着いてしまったのでは?」なんて罰当たり極まりないことまでちょっとだけ思っちゃいましたねぇ・・・

ちなみに二ヶ月目くらいで、さすがにコレはやばいと止めました。






Ⅱ:もう禁酒しよう。

夜、発泡酒飲むのやめよう。

一本(350ml)飲んじゃうと、別段眠くなくても即行寝てしまう。
したがって気づかないうちに変な時間に寝て、妙な時間に起きちゃうこともしばしば。
午後9時頃寝て午前1時頃起きたり。

で、「わ!しまった!寝る前にやらなあかんことあったのに」となる。
で、そのまま「寝ちゃったかぁ~まぁいいかぁ~明日があるさぁ~」とベッドの中でうつらうつら思うだけになる。

と言ってもわりとガッツリ寝てしまっているのでなかなか再び眠ることはできず、ボ~と2時間あまりベッドの中ですごした後、結果午前6~7頃起床。

もう禁酒しよう。
時間が無駄すぎる。みんなお酒が悪いのだ。

とりあえず炭酸水にしよう。たぶん体が欲しているのはアルコールではなく炭酸な気がするから。


さらば僕の無頼派人生。
ま、ビール缶一本分(350ml)の"無頼”やけどね。





Ⅲ:汚れっちまった悲しみに

え?これですか?いただき物ですよ。
今日、知り合いにいただきました。
え?物ですか?

ん~黒糖焼酎って書いてありますね。
原産国はタイ王国と...
原産だから黒糖を向こうで作ってるってことですかね?
焼酎つうたら僕の中では芋焼酎ですけど、焼酎つうものは日本独自のものなんですかね?
そこら辺、昔「美味しんぼ」で読んだ記憶あるけど全然憶えてませんね。どうなんでしょうね。

え?何ですか?え?ああ、確かに言いましたよ。酒は飲まないぞ~って。え?だって、そりゃいただきますよ。是非にって言うのを無下に断わるのも相手に悪いじゃないですか。え?何ですか?いただく時随分嬉しそうな顔してた?そうですか?僕は生まれつきヘラヘラした顔してますからね。そう見えてしまっただけなんじゃないですかね。え?何ですか?で、どうするか?何をですか?え?黒糖焼酎を?そりゃ、せっかくいただいた物ですからね。え?何ですか?あげる?何をあげるんです?手ですか?え?違う?黒糖焼酎?黒糖焼酎をあげてどうするんです?もう。はい!あげましたよ!え?違う?左手であげちゃ駄目でした?僕、左利きなんですよ。じゃあ右手で。え?違う?ああ両手ですか。そりゃまたご丁寧に。え?違う?え?ええ?駄目ですよ!人からいただいた物を誰か他所の人にあげるなんて、そんな両者に失礼なことできるわけないじゃないですか!僕は九州男児ですよ!つうか、そもそも、僕、酒飲まないなんて言いましたっけ?言ってないんじゃないかなぁ。僕が飲まない・・・だから飲まないなんて言ってないな。僕が「夜」「家で」飲まないって言ったのは発泡酒だけで、焼酎を飲まないなんて言った記憶はないなぁ。うん、言ってないなぁ。え?何ですか?今ですか?まさか!焼酎をチビチビやりながら、キーボードを打ったりなんてしていませんよ。






Ⅳ:禁

アレはいつでしたかね。まだ20世紀だったのは間違いないんですけどね。
ある日の朝、起きたらフと思ったんです。「俺の人生にタバコは必要ない」と。

で、それいらいタバコは吸っていないんです。
それまでは一日に一箱半くらい吸っていました。

まあ禁煙を始めた最初の何日間かは、タバコを一本吸う感覚で缶コーヒーを飲んだりしちゃいました。
でも徐々にタバコを吸うように飲む缶コーヒーの本数も減り、禁煙一ヶ月目くらいには居酒屋で友人(♂)に「もうこんだけ吸わなけりゃ大丈夫だよ、一本吸いなよ」と目の前にタバコを差し出されても笑って拒絶し、だんだん空間に漂うタバコの煙や服に付いたタバコの臭いが気になるようになり、周りには「禁煙なんて楽勝だよ」とうそぶいていました。

が、ちょうど禁煙三ヶ月目くらいのコトです。いきなりきました。

僕の目の前に座ってタバコを吸っている知人の、そのタバコを口から奪おうとしてしまったんです。←僕的には体が勝手にって感覚でした
そっからしばらくは本当にきつかったですね。タバコ吸いたくて吸いたくて。
それまではそんなことなかったのに、タバコを吸ってる夢も見るようになって。
で、「わ!吸っちゃった!」と慌てて飛び起きることもしばしばで。←よく言われることですが、これはマジあります

もちろんタバコを吸わないってのは”決めたこと”ですからね。僕は耐えましたよ。

でもこれもフラッシュバックの一種なんですかね。本当にある瞬間にいきなりきましたからね。ナンかのナンかな残留物質がナンかのナンかな中枢神経系にナンか作用して、ナンかのはずみにナンかな現象を引き起こすんですかね。

そこんとこ、どないナンでしょ。


まあ僕はタバコは吸うというより、もともとフカすって感じだったから、やめるの比較的楽だったのかも。




Ⅴ:そこんとこ、どないナンでしょ

今年(2009)も早いモンで残り一週間となりました。

一週間といったら四週間の0.25倍、九週間の0.111111...倍、四日の1.75倍じゃないですか。
まったくもって月日の流れは速いものです。
もしかしたら兜率天さん達の世界もたいして悠久ではないのかな。

で、昨日ジッポをいただきました。が、今も今後も僕がタバコを吸うことはないと思うので、正直僕には不要なものでございます。
ならタバコ吸う人にあげりゃいいんだろうけど、僕は人にいただいた物を別の人にあげるって行為にはどうにも抵抗があるんですよねぇ。まあ、そんなら最初からもらわなきゃいいだけの話なんだけど。

でで、ちょっと喫煙者の人等にタバコ値上げについてリサーチした所、みんな「関係ない、吸う本数は減らさない」って言いますね。(注:たしかこの頃タバコ料金が値上げされる寸前でした・2013/11/08)
もしかして、お金吸い上げる方からしたらこれはいい方法なのかな?四百円がタバコの値段として当たり前・常識になった所で今度は五百円にすると。そしたらやっぱり「関係ない、吸う本数は減らさない」となるのかな?喫煙者の急激な減少を招かずにお金は余計にいただきますよ、と。

ちょうど忍者が木の種を植えて、毎日小さい芽の頃からその上を跳び、徐々に成長するもその上を跳び続け、最終的には巨大な大木をひとっ跳び!みたいな。

は、もちろん冗談です。
人間どこかで跳び越せない限界がくるように、出せるお金にも限界はくるでしょう。
それにタバコにかぎらず、長い月日をかけての物価のある程度の上昇なら世の中的にあってしかるべきコトかもしれないし。ただ、今後は逆に価格が値下がりしちゃったりするコトも多くなるんですかね。

そこんとこ、どないナンでしょ。





Ⅵ:生姜最強

思い出したぁ!

何故に僕が補陀落の幻影をそこに見てしまう、二ヶ月で14~6キロ痩せるダイエットをしようと思ったのか。

いえね、あれですよ、はい、免許、そうそう免許、運転免許、あれの更新、そう更新、あれで運転免許せんた^、あ、打ち込み間違っちやった、あれ?これ打ち込みか?いや、これ、この現在、打ってるの、あ、打ち込む棚、いや、だな、うん、あってる、で、そうそう、えっと、何の話だっけ?え~と、ほいほい、あああれだ、更新、そう免許のね、だからさ、おう?センター、運転千古、違う、運転選挙、だから違う、運転免許センター、そう、センター、ん?何で運転免許センターなんて話がでてきたか?そうだね、普通、近くの警察署とかで免許更新できるよね、いやさ、実はさ、直近の免許更新の時期にさ、俺、自分の免許証紛失しちゃってさ、それであわてて近くの交番にいって聞いたらさ、運転免許センター(運転免許試験場か?)に行って免許更新の前に再交付の手続きしてもらうしかないね~って言われてさ、でさ、場所聞いたらさ、結構どこも遠くてさ、え~面度くせ~とか思っちゃったけどさ、ま、俺が悪いからね、しょうがないかとテクテク行ったわけよ、もちろん、テクテクだけじゃ着かないよ、途中、切符を買ってね、ガタン、ゴトン、と、行ったわけよ、もちろん、ガタン、ゴトン、しただけでも着かないよ、そこからまた、テクテクと行ったわけさ、うん、でね、結構、いろいろ手続きに時間がかかってね、あと無駄な金も、ま、俺が悪いからね、しょうがないかと待ち、金も出したのよ、いや~ほんと、いい勉強になったよ、君も気ぃつけり、でね、ま、その再交付の手続きさえ終わってしまえばね、俺、免許ゴールドだからね、もう、講習なんてあっというま、すぐに終わっちゃうのよ、んで、めでたしめでたし、と、運転免許センターを後にして、無事帰路についたってわけよ、もちろん、テクテク、ガタン、ゴトン、テクテク、の、コラボでね、ん?そのまま帰ったかな?あのあと近くのファミレスで何か食って帰ったのかな?どうだったかな?いまいち憶えてないな、で、何の話だっけ?え~と、ああ、そうそう、孟徳、なんちゃってな、あれ?何ひいてんの?あれだよ、曹操孟徳、三国志の主役の一人じゃん、知らないの?あれ?なんでさらにひいてんの、おかしいな、で、何の話だっけ?ああ、そうそう、涙そうそう、なんちゃってな、おい!だから帰って来い!そんな遠くにいったら大声で話さなけりゃいけないだろ、周りの人に迷惑だろ、ほら、もっと近くによって、で、何の話だっけ?おい!話す前からお腹いっぱいって顔するな、俺は君が思ってるより42倍Sensitiveなんだぞ!で、何の話だっけ?ああ、そうそう、更新した運転免許証の自分の顔写真を見てダイエットしようと思いました。





Ⅶ:そうそう、朝はご飯と梅干と味噌汁で

最近、食パンはマーガリンが腹にもたれるのだ。

もたれる感じは、↑の文章みたいな感じ。



・・・・・・・・・
 
 

22.rock'n'roll
 
 


いうわけで



Ⅰ:you may dream

有線放送だと思うのですが、アイドルの人なのかな?どうなのかな?そこらへん本当にうといんですが”あなたのこと思うと、すごく胸が熱くなるの~♪”と、Sheena & The Rokketsさんの"You May Dream"のカバーが流れていました。
名曲はこうして受け継がれていくんですね。
僕はいいことだと思います。



そーいえば

Charさんが、鮎川誠さんとテレビ番組で共演された時、「(鮎川さんは)どうしても先輩って感じがしちゃう」と言われて、それにこたえて鮎川さんが「ギターはね、先輩、後輩ないからね」「スゲぇ奴は若くてもスゴイし」と。

これあれですな。「文章はね、先輩、後輩ないからね」「スゲぇ奴は若くてもスゴイし」に持っていけますな。ま、僕は若くはないですがね。
と、朝から増上慢にふんぞりかえったトコで、実は最近、料理とともに文章もちゃんと勉強してみようかな?とちょっと思っています。←注:現状思っているで止まっております

ここでの僕の"On My BEAT"な文章も、正直自分でも悪くないと思いますし、まったく嫌ではないです。
ま、たま~に、かなり豪快に実験失敗したり、富士の樹海に迷い込んじゃったりもしますが、それも含めてこれが僕ですもん。僕という人間がよく出ている文章だと思います。

やっぱり僕は自分が文章を書き始めてわかったこととして『文章はそれを書いた人のすべてをさらけ出す。決して隠せない。上辺だけ取り繕ったりなんだりしてもまったく無駄』だと思います。
表層的に何を書こうが、その人の心は隠しようがなく出ちゃうと思います。
もちろんそれが”良い”とか”悪い”とかの話ではなくて、その人の心は隠しようがなく出ちゃうと思います。

まあ、そうはいっても、やっぱり最終的には個々人の感性というはっきりとは捉えようもないトコの話に落ち着いてはしまいますが、でもそこに惹かれちゃうと、そりゃうわべの見た目に惹かれるのとは比べようもなく強いですよね。

んで、話をもどしまして、この我流極まりない”僕”な感じの文章の基礎は一応出来てきたかな~と思うんです。まあ、そうそう揺らがんだろうと。

だから、ちょいとここいらで(所謂)ちゃんとした文章作法つうのも知識として仕入れようかな~と。
今までは知らんから使えなかったけど、それを知っているけど使わんに持っていきたいな~と。

した野望をもつ今日この頃。←注:現状もった状態で止まっております


で、もう大昔、十代の頃、博多は天神の地下鉄の駅でやってきた電車に乗り込もうと身を乗り出したら、開いた扉の向こうに鮎川誠さんとシーナさん。
お二人は直ぐに脇によけた僕の目の前をサッと階段のほうに歩いていかれて、もうそれは本当に一瞬のことではありましたが、「かっけぇ~~」と思ったあの時の僕の思いは永遠です。

(注:この文章中の注は2010年当時・2013/11/09)




Ⅱ:ask

ちなみに明日でここ歴実質一年。つまり僕の文章歴もはれて一年。
いや~”手習い感覚で書いてます”でスタートして一年もよう続きました。書きました。
ま、いまとなっては無茶苦茶なげやりなふざけた文章(ですらなかったり)になっとりますが、これで金取っているわけではないので別にいいでしょう。

ただ僕は、別に人を傷つけたり馬鹿にしたくて、このふざけた文章を書いているわけではないんです。
正直、自分でもかなりタチの悪い存在・文章に現状なってしまっていると思います。

もちろん基本的に悪意はないんです。悪意では書いていません。ふざけては書いていますが。
つうか悪意のある文章なんて、まあこっちに向かって刃物振り回しているようなもんですから切られりゃそりゃ痛いですけど、不意打ちみたいなのでなきゃそんなに気にするほどのことでもないと思います。
うまい具合に自分のコンプレックスをつかれたって、なんといってもコンプレックスなんで「んなこた自分が一番ようわかっとるわ」つうだけの話だと思います。
それに悪意って思考がチャートみたいにパターン化してますから、単純に慣れ、飽きるつうのもあると思います。

でも僕のこのふざけた文章は悪意が無い分、僕の文章に好意的な人を選別して、その内側にウイルスみたいに入り込んで、内側からその人を傷つけたり、馬鹿にしちゃったりしてしまっている気がするんです。

で、この僕の今のスタンスが変わらない限り、この構造は変わらないのかなと。
陳腐なフレーズですが、やっぱりこのネットをかいしての人間関係ってのはどうなんだろうと。
相手を嫌いになる機会がない関係性てのは危険ですよ。
結果として、僕はどんな悪意の文章よりもよっぽど悪質な文章を書いてしまっているなと。

だってさ、外側の”悪意”なんて、それがどれだけ強力で悪質なもんであったとしても、己の内側のどうしようもない”好意”のタチの悪さ、苦しさ、に比べたら屁みたいなもんじゃない。

なんてことも文章歴一周年で考えたりもするわけなんです。
どうしよう?みたいな。
僕が適当に何か書くたびに最終的に見知らぬ誰かを傷つけるのは本意ではないですから。

ただ考えているだけですけどね。


そういえばThe SmithsというUKのバンドの曲に”Ask”てありました。

もしもこれが愛じゃないとしたら、これは爆弾だから、僕達を結びつける爆弾だから




Ⅲ:save me

Won't You Please Save Me
Won't You Please Save Me

凍えそうなこの祈りを
やりきれないこの思いを
壊れかけたこの心を

永遠の国の天使にささげよう



いえね、布袋寅泰さんの東大寺でのライブをみてるんですけどね。
まあ”Me”はどこまでいっても”Me”だけど、それが”Me”であるかぎり、それはつまり”All You”ってことだから問題ないんですね。

ただ東大寺も大仏も、ま、そりゃ、天平の昔から、たぶん今だって、想像だけど、もちろん僕の勝手無責任な想像だけど、たぶん、戦乱での焼き討ち消失とかとも無関係に、こう、その、造られたときから、人間のやることですし、昔は今なんかとは比べ物にならないくらい政・国家権力、という言い方でいいのかはわかりませんが、と密着していたでしょうし、別に密着しなくても、だから、人間のやることですし、内部での権力争いなんてものも、人間、女性はわからないけど、男はわりと好きで、これがまた楽しくて、わざわざ敵をつくったり、わざわざ誰かを嫉んでみたり、派閥つくったり、陰謀はりめぐらしたり、ほんと思いのほかこれが楽しくて、それが生きがいになっちゃう人もいたり、ま、お坊さんだって人間ですから、そうであっても別に普通のことで、内部の人間関係がドロドロでもおどろくことではまったくなくて、もちろん、そうだ、といってるわけではなくて、話した事も、どころか、会った事も、どころか、みたことも、一切何の交流も無い人の、そんな赤の他人の人格攻撃とかできちゃう人ってある種凄いな、よっぽどモノが、見えないモノが見えているんだな、感心しきり、とも思うけど、何もみえない、何も知らない僕がそんなこと言えるわけもなく、ただ、何となく、東大寺も大仏も、この世に存在しているのだから、僕や僕のまわりがそうであるように、歴史の積み重ねの中で、ただ、あなたたちだけがbeautiful onesでいられたわけはないだろう。

ともおもうんです。

おもっちゃうんです。


でもそんなん問題ではないんですね。

だって

千年以上の間、身分を問わず、もちろん、政治遊びやお寺内部での権力闘争をやっていたのではなかろうか、というお坊さんたちも含め、合戦で敵味方にわかれて殺し合いをしただろう人たちも含め、すべての人たちを含め、幾度か戦乱で消失したこの大仏に、凍えそうな祈りをささげてきた沢山の人たちの心は真実だから。




Ⅳ:trash

活字本多いんです。我が家は。

高校卒業くらいまではほぼ漫画しか読んでなかったけど、その後は割と活字の本も読むようになって、漫画ももちろんずっと読んでて、で、良いんだか悪いんだか、僕は自分が文章を線じゃなく面で読んでるってことに気づいて、漫画と同じ読み方で、妙にスピードが速くて、んで、暇人で、千切っては投げと一日にやたらと量をこなすようになって、そんでもって、昔から僕は”すてれない男”で、気づいたら、僕の家は溢れかえる本でえらい事に。

というわけで今回、引越しを機に、痛みがひどい本はバッサリすててしまおうと思います。
すっきりさっぱりして新しいトコに移ろうと思います。

思います、思いますが、考えてみれば、みなくても、今回のすてるリストにのっかる”痛みがひどい本”とは僕が本当に好きで愛読した本ばかりなんですよね。

外出時にズボンのポッケに入れ、暇を見つけては読み、お風呂に入りながら読み、ベッドに寝転んでは読み、そのまま本を下敷きに寝てしまい、起きたらまた読み。
結果、本当に好きな本になればなるほど、何度も何度もそうして読み、もう見た目ボロボロなんです。
カバーがないのは当然、表紙も破れちゃってたり、コーヒーの染みががっつりついてたり。

で、あんまり読んでもピンとこなかったり、なんか家の本棚にあったら偉そうかな?という思いで購入した「誰対策?」な本はそりゃもう綺麗なもんなんです。だって買ったっきり手にとらんし。

う~ん、やっぱり処分するなら逆だな。物凄く見た目が汚い本棚になっちゃうけどまあいいか。「誰対策?」はもういいだろう。自分ちで自分を偽ってもしょうがないわ。

やっぱりこのグチャグチャボロボロな坂口安吾さんの「暗い青春」はすてれんよ。




Ⅴ:"heroes"

僕、僕は王になる
そして君、君は女王に

てヤツですね


僕、僕は思い出す
壁際に立たされ、そして銃が僕たちの頭を撃ち抜いた
だから僕たちはキスをした
けっして堕ちることのないように
そう、恥辱とは彼らの側にある

てヤツ

つまり

誰も僕たちを助けてはくれないけれど
僕たちは嘘をついているのかもしれないけれど

でも

We can be Heroes,Just for one day

てヤツですね


ま、かなりざっくりですけどね





Ⅵ:ロックンロール

え~あくまでいつものように僕の個人的見解ですが

ジョンレノンさん

かなり根性が悪いような



いいますか

意地が悪いような



いいますか

そういうことはなくても

まあ

かなり

クセがある人だったような気があくまで僕はします

でも

たとえば

あくまでいつものように僕の個人的見解ですが

ほんとうにもうしんから”愛と平和”な性格のいうことない素晴らしすぎる人格の人が”愛と平和”な曲を作り歌ったところで

そりゃ

まあほんと

きれいで

うつくしいもんかもしれんけど

んなもん

もうたんなるお花畑で

よくてなんかの広告塔

わるけりゃなんかの進軍ラッパ



なるだけな気がします

えっと

あくまでいつものように僕の個人的見解ですが

だから

僕は

根性が悪いような

意地が悪いような

もしかしたら

ほんとうにもしかしたら

”愛と平和”なんて

一切信じていない

それでもなお

自分の

根性が悪いような

意地が悪いような

もしかしたら

ほんとうにもしかしたら

”愛と平和”なんて

一切信じていない

でも

そうであっても

”愛と平和”を願い歌う

僕はコッチをしんじます

ええ

もちろん

根性が悪いような

意地が悪いような

もしかしたら

ほんとうにもしかしたら

”愛と平和”なんて

一切信じていない



みつめたうえでのことでしたら

商売まじりでも

僕はかまいませんよ

だって

お金儲けも大切です


John Lennon
19401009 - 19801208




Ⅶ:rock'n'roll suicide

we are not alone

誰も孤独じゃない



・・・・・・・・・



23.なにかと勢いは大切です
 
 


いうわけで




Ⅰ:ワルキューレの騎行

芥川龍之介さんの「蜘蛛の糸」

話のスジは書かなくてもいいですよね。
僕はこの話を読む度に心に引っかかるトコがあります。
つうかお釈迦さんに問い質してみたいコトがあります。

お釈迦さん、あなた最後のオチ最初からわかってたでしょ?
わかってて天国の蓮の池深く、蜘蛛さんがたらした糸の先の先、地獄をのぞいていたでしょ?
それとも犍陀多さん(一応主人公)が後から後から登ってくる人たちを蹴落とそうとすることもなく、つつがなく地獄から亡者さん達が這い上がってきたら皆助けたんですか?
延々のぼってきますよ!
そんなもん、みんな逃げたいでしょ?
延々ですよ!

犍陀多さんが天国までのぼってきたら、「偉い!よく蹴落とさずに我慢した!感動した!」とそこでプッツンと糸切って、他の人たちは地獄へまっ逆さまですか?
そんな無慈悲な・・・

そう

「お釈迦さん、あなたドSでしょ!?」と思わずそう言いたくなります。



ただ、いくらなんちゃって仏教徒の僕とはいえ、そんなにお釈迦様にケチつけて大丈夫かい?とも思いますね。

しかし、この「蜘蛛の糸」、実はポール・ケーラスさんてアメリカの方の「カルマ」って作品が元ネタらしいから大丈夫。お釈迦様関係な~し。
ポール・ケーラスさんの「カルマ」→それを訳した鈴木大拙さんの「因果の小車」→芥川龍之介さんの「蜘蛛の糸」って流れみたいです。

・・・ん?ポール・ケーラスさんて東洋学者なの?なに?これ、やっぱりもともと仏教(東洋?)の思想をもとにしたお話なの?あれ?登場人物(か?)自体がほぼ一緒なの?お釈迦さまも登場?ん?


だがだ!


だいたい僕、「仏教(東洋?)」とかサクッと書いちゃったけど、ポール・ケーラスさんが「カルマ」を書いたのは19世紀後半?20世紀初頭?書かれた当時の西洋アカデミズムでの「東洋」の定義は?「東洋」の範囲は?もちろん今(現在)とは違うでしょ?そンな中でもいろいろ学者さんの中での対立軸はあったんでしょ?そもそもポール・ケーラスさん、ざっくりアメリカの東洋学者と書かれているけど原文(英語でしょ?)では東洋学者はどういう綴りなの?現在も東洋学者というものがアチラにあるのならその「東洋学者」と同じ綴りなの?当時としても「東洋」=「仏教」なわけもないよね?老荘思想などの混在も?もしや動物学者みたいなノリじゃないよね?それは穿ちすぎ?やっぱりポール・ケーラスさんの思考の重心は大陸にあったの?対露戦後?第一次大戦後?アーネスト・フェノロサさんのように、少なくとも一時期はその重心は日本にあったの?実際問題、「カルマ」が書かれた当時、アジアと日本の間に文化的「差異」はあったの?なかったの?あったならそれは「断絶」なの?「誤差」なの?そもそも今、僕思いっきり己の話の筋に都合良いように話を持っていってるんじゃないの?

え~と「カルマ」って言葉自体がサンスクリットの仏教用語?
綴りは違うけどスペイン語や英語にもあると?
でも語源はおんなじトコからでてるのかな?どうなのかな?

もしかしてこの「お話」(説話かな?)さらに原典があるんですかね?



人間、自分のあずかり知らぬトコでミソつけられるコトはよくある話ですが、ワーグナーさん、その死後にヒトラーさんに愛でられたのはやっぱりミソですかね?
ワーグナーさん的にもその思想に微妙な部分はあったみたいですが、だからこそなのかもしれませんが。
そこンとこは、当時の「神々の黄昏」的な(かどうかは知らんが)「ヨーロッパの落日」的な(かどうかも知らんが)社会的背景もいろいろ絡みあってるだろうし、これ以上話長くするのもなんなんで、はい、放り投げます。

ええ、もちろん僕のいいところですよ。




Ⅱ:蛾

以前、日本有数の通勤ラッシュ路線の沿線に住んでいたことがあります。
だから朝晩電車に乗ろうもんならもう戦いです、乗るのも乗ってるのも降りるのも。

あれはどうなんでしょ?
皆さん生活があるんだからもちろんしょうがないんだけど、もしちゃんとその路線利用者のここ何十年かの平均寿命調べたらエライことになるかも、だって移動式苦行の場ですからね、なんのカルマ落しやら、もちろん適当に書いてますが。

これから日本は人口減少期に入りますが、そうすると通勤ラッシュつうもんは無くなっていくんでしょうかね?
それとも今よりももっと都会に人が集中するようになって、田舎の過疎化がより深刻になるんですかね?
日本人は明かるい光がお好き?
蛾じゃねえんだからと明るいトコが大好きな僕が心の中で言っときます。

人口の減少と機械化による必要人員の削減などの科学技術の進歩がうまい具合にリンクすれば、新しい社会モデルを創出できるのかもしれないけど、それは難しい、昭和の漫画の中の夢ですよね。

もちろんネオナチみたいなのもいりませんが、この問題はこれから顕在化してくるんでしょうね。




Ⅲ:日本

そういえば昔、新宿駅に到着する間際、ぎゅうぎゅう詰めの電車の中で、後からサラリーマンのオジサン(たぶん50代)におもいっきりゲ○をぶっかけられた事がありました。
さすがに僕も怒髪天をつき(ゲ○まみれ)、新宿駅で降りて直ぐ「何してんだこの野郎!!」と怒鳴ろうかと思ったら(ゲ○まみれ)、「すいません」と謝ってこられたその方のあまりの顔色の悪さに(二日酔いとかでは絶対に無い)、「もぅ、気をつけてくださいよぅ」となってしまいました(ゲ○まみれ)。

でも大丈夫だったのかな?
その後「とりあえず病院に行かれたらどうですか?」と言わなかった自分を悔いたぐらいでしたから・・・

もちろん僕もその後大変だったんですよ。
新宿駅のトイレの手洗い場で後髪に思いっきりついたゲ○を落とし、クリーニング屋さんにゲ○まみれの服を持っていき。
ああ、もちろんその方は「受け取ってください」とお金を出されたんです。
でも、ほんとうにそのあまりの顔色の悪さに思わず「いいですよ」と言ってしまいました(やっぱりゲ○まみれ)。

大丈夫だったのかな?




Ⅳ:サバイバル

僕は何かについて興味を持った時、なるべく自分とは考え方が違う、反対の人が書いた物を読むようにしてます。
似たような考えの人の文章を読んでると「そうだ!その通り!」と非常に心地よく、だから僕が昭和のオッサンなら思わず膝でも打ちたくなりますが、段々虚しくなってきます。その人が書いた文章の内容が虚しいというわけではありません。

でも、単なる罵詈雑言、あげ足取り、電波は論外ですが、自分とは違う視点での考え方のほうが、色々気づかされ教えられることが多いのは事実です。もちろん「この反対意見は読む価値がある」と自分で選択するときに、どうしても自分の視点というフィルターは通さざるを得ませんが。

ま、つうても現実に何か目的をもって集団行動する時は、さすがに考えが真逆はつらいですよね。
うろおぼえだけど、軍隊とかの小部隊でも優秀な独立した個人の集合体よりも、普通の人たちが全員で足りないところをおぎない協力する関係であればあるほど、戦場での全員の生存の確率が高いというデーターがあるんじゃなかったかな?遭難とかのサバイバルでのデーターだったかな?

どうだったかな?




Ⅴ:it's a man's man's man's world

源義経は実は平泉では死んでいない!
平泉で死んだのは義経の身代わりで、本人は海を渡り蒼き狼チンギス・ハーンとなったのだ!

流石に今、この話をまともに受け取る人はいないでしょう。
では平泉で死んだのは義経の身代わりってトコまで一緒で、義経主従がExodusしたのは大陸ではなく蝦夷地って話なら?

ま、ありえなくはないですよね。
だいたい僕は義経さんがあはれ自害なさるトコなんか見ていないし。
義経は平泉で絶対に死んだんだ!とは僕にはとても言えません。

が、やっぱり義経さんは平泉で死んだと思います。平泉で死んでいて欲しいです(失礼な言い草ですが)。
もし首尾よく義経さんご一行が平泉から脱出できていたとしても「それだけ」です。歴史からは消えています。
もちろん生きているってだけで素晴らしいことです。もし僕が当時の義経さんの立場で平泉にいたら何が何でも逃げ出すことを考えたでしょう。最後まであきらめませんよ僕は!
でも義経さんは自身の天才で歴史を変えた男です(その天才が最終的に身を滅ぼすモトになったのですが)。

もちろん豊臣秀頼さんが燃え盛る大阪城を脱出し鹿児島で余生をまっとうしていてもいい。
西郷隆盛さんが政府軍による鹿児島城山の重包囲の中から脱出しロシアに渡っていてもいい。

でもやっぱり英雄には英雄にふさわしい「死処」があると思います。


時代の勝者によって書かれた「正史」が常に正しいわけではなく、時代の敗者や民衆の伝承などによる「稗史」の中にも真実があるというのは、まったくそのとうりだと思います。
とくに中世までの「正史」なんて時の権力者の思いのままだったでしょうし。

でもある程度、通説(「正史」ではない)と言われてる物を知った上で、異説を楽しんだほうがいいかな?と僕は思います。
通説ってのは研究者の方たちがいろんな議論を尽された(学閥とかもそりゃいろいろあるんでしょうけど)上で通説と呼ばれるモンになった訳で。
また通説自体、日々の研究で変化し続けたりしてますし、新たな新発見で一気にひっくり返ることもあるんでしょうが。


それに「騙されるな!気をつけろ!」って大声で叫んでる当人が山師、詐欺師ってこと世の中じゃ普通にありますからね。
これは別に歴史話に限ったことじゃないですが。





Ⅵ:ロケットパーンチ!と叫んでみたい気もありました

これは秘中の秘なんですけどね。
極秘、極まりないんですけどね。

僕は小さい頃、「ムー」を楽しく読んでいました。←知らない人は自分でしらべよう
なんなら今でも楽しく読めるかもしれません。いや読めるでしょう。読んではいませんが。

そうなんです。
僕は異説、奇説、怪奇現象、心霊現象、超能力・・・大好物だったんです。
僕もバビルの塔に住んで三つのしもべに命令したいトコだったんです。
「超能力少年」と呼ばれてみたいトコだったんです。

ところでこれは以前書いた文ですが『僕は何かについて興味を持った時、なるべく自分とは考え方が違う、反対の人が書いた物を読むようにしてます』なんです。

僕は世の摩訶不思議が大好物です。これは一生涯なおりません。
だからこそ、それらを半笑いで否定する「世の常識」「歴史の通説」をちゃんと知らねばならないのです!!
孫子にいう「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」 なのです!!

ま、それはさておき「世の常識」「歴史の通説」を知る努力をして損はないと思います。
「歴史の通説」なんて成立までにどれだけの知性が投入されたことやら。

だから「歴史の通説」なんて成立までにどれだけの学閥による諍いがあったか、学閥内部での権力闘争、政治があったかってトコは今回は見ない方向で。




Ⅶ:未来の夢

今(20091102)となってはちと古い話だけど、小学館の学習雑誌「小学五年生」「六年生」休刊へですか。
これは昨今の不況のあおりもあるんだろうけど、僕が子供の頃みたいにクラスのみんなが読んでる(定期購読だったかな?)みたいなそんな時代じゃもうないんですかね。

でも時代の流れとはいえ、そこで漫画描いてる漫画家さんはどうなるんだろう?
そういえば「あさりちゃん」ってまだやってるの?

と思いちょっとネットで調べたら「あさりちゃん」やってますな。
で、設定ではあさりちゃん小学4年生と・・・セーフか?


携帯にしろネットにしろ「あんなこといいな。できたらいいな」と子供の頃想像していた「未来の夢」はどんどん実現していってますよね。ふとした折に過去を振り返ると随分便利になったもんだと実感します。
でもそれらは今の子供達には生まれた時からある、あって当たり前のモンなんですよね。
僕が夢想した「未来の夢」を当たり前のものとして捉える世代に接すると少し不思議な気もします。

でもそれは一緒か?
僕が子供の頃にも、かつての子供達の中で同じような想いを持った人はいたのかな?
今の子供達が、かつての子供達になった時も、将来の子供達に対して同じ想いを持つのかな?
何時からだろう?そういう想いをかつての子供達が持つようになったのは。

ま、他人がどう想うかなんてそんなん僕にはわからんから、あくまで自分がということで。
もし江戸時代に僕が生きていたとして、子供達にそういう想いを持つかな?
たぶん持たんよな?
最初期なら太平の世を生きれる子供達を羨ましく、幕末なら先が見えない時代を生きねばならぬ子供達を哀しく想うことはあるかもしれんけど、これは全く別の話だし。

高度成長期以降かな?
明治維新以降かな?
何時以降なら僕はそんな想いを持つかな?

が、「未来の夢」といっても実現してしまうとただの現実。
自分がかつて夢見ていたことを忘れちゃうこともしばしば。



・・・・・・・・・
 
 

24.Θ
 
 


いうわけで



Ⅰ:手串

ちがうな

手具し

さらにちがうな

”ぐし”で変換するから駄目なのかな?

テク氏

あれ?どちらの国の方ですか?



よし

ん?

クシって漢字これだよね。

え~と、こーゆーときはホンとネットは便利やねぇ。

よっしゃ、画像検索したらクシが沢山でてきたから大丈夫でしょう。

と、ゆーわけで、手櫛

なんかイメージと違わない?

と、ゆーわけで、手ぐし

あ、これだね!

いえね、今、僕の髪の毛、特にうしろ、手ぐしもまともに通らない状態なん。

あたたた

ってなる

区摂家だし

あれ?どちらの貴族の方ですか?

癖っ毛だし

う~ん、漢字として微妙な感じか?

癖っけだし

こりゃ、何か意味不明だな。

やっぱり毛は残して

くせっ毛だし

いまいち?

クセッ毛だし

もーよーわからん

とにかくそんな感じなん






Ⅱ:ニャー

おい!ノラの茶ネコ。
最近現れた黒猫に喧嘩に負けてここから追い出されそうだからって俺の家の前でニャーニャー鳴いて俺を呼び出すな。
俺に黒猫を追い払わせるな。自分でなんとかせい。
たしかにキミとは長いつき合いだ。しかし俺は黒猫に何の恨みもないし、怨まれるのも黒猫だけにちょっと怖いじゃないか。
猫の恩返しをうけることはやぶさかでないが、黒猫のお礼参りはバケ度数高そうで迷惑千万。
だいたいキミはノラのくせにメタボ気味だぞ。

といってやりたい今日この頃。
ニャーニャニャニャーニャーニャニャニャーでいいのかな?



Ⅲ:darling i love U

Ben E. Kingさんに”Stand By Me”という曲があります。

んで”田舎の少年たちのひと夏の冒険物語”「Stand By Me」て映画のエンドロールでこの曲流れて、んでで”so darling darling stand by me~♪”てトコ、確かこれまた不確かですが「だから友よ、僕のそばにいて」て字幕になっていたと思います。
映画の内容を考えると「だから愛しい人よ、僕のそばにいて」とかにするよりもわかりやすいですかね。

んでいきなり「EV・cafe」の村上龍さん・坂本龍一さん&柄谷行人さんの鼎談の中で坂本さんが『それから(英語の)アイ[Ⅰ]っていうのが一種非常に機能的じゃない。「私」でもないし「僕」でもないしさ。日本のアイっていうのは、たとえば川端康成みたいに、ほとんど日本の国土そのものみたいに拡散するでしょ』と。


英語の「darling」もなかなかですな。

て、問題ではない?

つうか、これもやっぱり日本の"アイ"の恐ろしさってコトですかね。

ブラックホールのように何でもとりこみますよと。




Ⅳ:いえね

別にいいんだけどね。
いや、決してよくはないんだけどね。
ナメクジ君よ。
ここは僕の部屋なのね。別に君が嫌いってわけじゃないんだよ。そこは誤解しないでほしいんだ。
でもさ、付き合う上でさ「親しき仲にも礼儀あり」って言葉あるじゃん。あれって真理だと思うんだ。
俺は君の事、何も知らないじゃん。ホントに君がイヤってわけじゃないんだよ。
でもさ、知らないあいだに部屋に上がりこまれたら、やっぱり戸惑っちゃうんだ。それって俺だけじゃないよね?
だから、ごめんね。
また今度ね。

ちょっと三重にしたスーパーの袋でくるむけど怒らないでね。

でも君、何時来たの?
先までいなかったよね。
だからびっくりしちゃったんだ。
だって見てると全然動いてないのにさ。
もしかして君、「だるまさんがころんだ」の天才かい?




Ⅴ:おはよう

はx6つ

hsxぐ



はぅて



はって



とうちゃく


♯くk

音楽聴きながらねと




ねようり

ねようと

おもったら

んsんs

なんぁ

なんか


mでが


めがさえtれ


さえて

ぜんぜんねむえれん


ねむれんで

ねむうて






t2

っへ










Ⅵ:一文字入魂






Ⅶ:ニャン?

ニャニャニャニャー、ニャニャニャニャニャー、ニャニャニャニャニャニャ!
ニャニャニャニャ?ニャニャニャ?
ニャ!
ニャニャニャニャニャニャニャニャン。
ニャニャニャニャニャァ!!

いえ、決してラリッてるわけではありません。

ノラ猫同士の喧嘩に呼び出され、ノラ猫に鉄人28号扱いされる哀しい男の叫びです。




Ⅷ:だからヤモリ君よ

そこに何があるんだい?
本当にいつも同じ時間に、窓の同じ場所にへばりついてるけど。

おっ!後ろ足滑らせてやんの。

あわてて踏ん張ってる姿、こっちからみたら結構可愛いぞ!

でも、そういうお茶目な一面は彼女にみせなあかんだろ?俺にみせてどうする?

もしかして君は同性にときめくタイプかい?

でも残念だ。俺は♂には興味ないし哺乳類。
爬虫類の君とは越えられなさ過ぎる壁があるのだよ。

来世、お互いカマキリにでも生まれ変わったら、そん時考えような。

ただし、俺が♀な。




Ⅸ:しかし

最近、ウチの周囲では「ニャー」「フギャー」と頻繁にネコファイトが繰り広げられています。
ネコ社会には不案内ですが今って恋の季節?それとも単に抗争の季節?
彼等の間に仁義はあるのか?
敗者への愛はあるのか?




Ⅹ:おやすみ

ねまさう

ねます

おきません

おやすみなさお

おやすみなだい

いおやdすいむgfd


おやsづむなさい


おやsづみなsだい

おやすみなだい


おやdすみなdさう



おやすいみなsだい


おやすみなさうい

おやすみなdさい

おやすみなさい






Ⅺ:一絵文字入魂





・・・・・・・・・



25.お茶ばのむとです
 
 


いうわけで

Ⅰ:たんぽぽ娘

武蔵野の面影を残すとはこのことでしょうか。
大鎧を鳴らしながら悠然といく坂東武者の騎行が偲ばれるってほどではありませんが、僕の家のまわりは都内としてはさほど人工性を感じさせない(錯覚だけど)緑が多い場所だと思います。
ビルとアスファルトの世界を離れ、夜の散歩の道すがらに畑や雑木林ごしに月をながめていると、ふと今という時代を忘れてしまうこともあります。
瞬間なんですけど自分の頭の中から「時間」という概念が消え去るんです。
もしかしたら、タイムマシン、時間旅行が実現するとはこういう事なのかもしれません。



したがってウチの周囲はなかなかどうしてな虫の多さです。
夏に、特に夜、気を抜いて窓や玄関を開けっぱなしとかでしばらく放置してしまうと「あれ?天照さま天岩戸にお隠れにでもなりました?」つう勢いで家の中で虫達の饗宴がはじまってしまいます。
まったく、光がそんなに好きかい?闇を恐れるな。出てけ!って感じです。

だから夏の日差しも弱まり秋も徐々に色をつけ雪を踏み鳴らす冬の足音さえも聴こえる気がする季節になると、虫さんご一行も自然とご退場してくれるので「ホッ」と一息です。

だが、まだ気を抜けません。
季節のせめぎ合い、日によって寒暖の差がはげしく、寒い日は大丈夫なのですが、少し暖かい日になるとすぐに虫達が「おひさ」と呼ばれず飛び出てジャジャジャジャーンしますから。

で、小学生低学年なみの疑問です。
寒い日は虫さんたちのお姿まったく見かけませんけど何処で何してるんでしょ?
少し暖かくなるとすぐに出てくるのに。
アレってある気温以下に寒くなったらとりあえず成虫はみんな死んじゃうんですかね?
で、ある程度以上の気温になったら残した卵が孵化して速攻(とこの漢字使うのが一番気分にあうん)成虫になるんですかね?

で、飛躍です。
↑の虫話は適当に言ってますけど、基本的に虫の生涯は短そうですよね(ちょっと調べたら無茶長生きの虫もいるみたいだけど)。
で、虫さん的には人間基準の時間軸ではなく、自分が所属する種の時間軸の中での自分の虫生が短いという認識はあるんですかね?
「え!もう終わり!?」とか思うんですかね?
たぶん思わないですよね。別段短いという認識もないですよね。あたえられた生をちゃんと最後までまっとうしようと頑張ってますよね。捕食したりされたり、手でつぶされたり、バルサン焚かれたりする中で。


そういえば、これも薄~い記憶の引出の中から出してきたモノですが、生物はそれぞれの寿命の長短関係なしにそのスピードが違うだけで一生で脈打つ心臓の鼓動の平均数は一緒だ、みたいな話なかったかなぁ。

んで「~ったかなぁ」前提で話を進めるのもなんですが、だから人間基準で寿命が長い短いと思っても、その生物の身になれば何等人間と変わらぬ時間が流れているんですかね。


ま、寒くなり世界から一度消えた虫たちが、少し暖かくなると何処からかまた湧いてくる不思議を感じると、"無"から"生"を生み出そうとする中世の錬金術師達の野望もちょっと理解できますね。


ちなみに「たんぽぽ娘」つうのは僕は高橋克彦さんのエッセイではじめて知った、現在絶賛絶版中のSF小説ですが、ざっくりあらすじを書くと

あるおっさんが未来からきたと言うたんぽぽのような不思議な娘と出会い、淡い恋のような交流を持つも、その娘は「もう帰らねばならない」とおっさんの前から永遠に消えてしまう。でもおっさんは気づく、あのたんぽぽのような娘は私とともに人生を歩んできた私の妻ではないかと

みたいな




Ⅱ:兜率天の巡礼

修二会(しゅにえ)。

今ちょっと調べてみました。
ちゃんとした起源ははっきりしないけど、仏陀の故郷の正月にあたる(といわれる)旧暦の二月に仏を供養する目的で始められたものですと。

ほ~修二会って結構いろんな寺院で行われているんですね。
いえね。僕が知ってる修二会は"お水取り"といわれる奈良は東大寺の修二会だけでしたからね。
といってもそれも実際には見たことなく、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」の中の「奈良散歩」を読んで仕入れた知識ですけどね。

で、えっとですね、時は天平勝宝三年、奈良郊外の笠置山で厳しい修行中の実忠和尚さん。

この実忠和尚さん、山中で不思議な洞窟を見つけ、中に入ってみるとそこはなんと兜率天さん(人称でお願いします)たちが暮らす天上の世界!!
んで、そこではちょうど兜率天さんたちによる懺悔の行法がおこなわれており、しばらくするとそこに観世音菩薩が出現!!

「なんね!」と、びっくり感激した実忠和尚さん、是非人間世界でもこの奇跡を再現したいと思います。
なので兜率天さん達に「おいたちもこん行法ばやりたかとばってん。どがんすればよかとね?」と聞きます。

でもある兜率天さんに「悪かばってん、兜率天の一日は人間世界の四百年やけんね、君らがやるとはちょい無理っちゃなかね。行法ばやるには人間には時間がたりんたい」とさとされちゃったらしいです。

「いやばい。やりたかばい」和尚さんあきらめません。
それならばと兜率天の世界ではゆっくりとした所作で行われている懺悔の行法を、走りながらすばやく繰り返し行うことで問題解決、その行法をつつがなく人界に再現しようとしたのが"お水取り"東大寺の修二会の始まりみたいです(よね?)。

で、東大寺から各地へ修二会の儀式はひろがっていったんですかね?


さて本題。昨日の続きです。

兜率天さん、いくら一日が人間世界の四百年だといっても、自分等的にはただの一日ですよね。
たぶん天上界から下界を見ると、人間の行動が僕等にとっての小さな羽虫みたいに異常にチャカチャカしてすばやく見えるだけで、兜率天さん自身にとっては一生の長さの感覚は僕等人間と何等変わらないんじゃないですかね。

あれ?そもそも兜率天さんって寿命あるの?
天上人といっても懺悔の行法するくらいだから悩みも苦しみもあるでしょう。

永遠の苦悩・・・

だからそのための行法。
観世音菩薩の降臨なのだな。



「助けて~ドラえも~ん」は確実にのび太を駄目にしてますよ!!


ん~
でも永遠はきついわな。
だってわからんもん。
宇宙だって果てはあるだろうに、それだって想像できんのに。果てがない世界って・・・

ま、何かしらのリセットボタンは必要ですね。


ちなみに兜率天(とそつてん)さんたちの寿命は人間の四百年を一日として、四千歳だって。





Ⅲ:「天なお寒し自愛せよ」©山内容堂

最近、地球も体調をこわしちゃってるんですかね。

結構強い地震が福島であったんですね(20100314)。東京では、というか少なくとも僕は、まったく気づかなかった。
でもテレビをみてもこれといってその話題はやってないから大丈夫なのかな?
とりあえず福島の友達にメールでも送るか?

↑コレ、こういうの、「地震大丈夫?」みたいな気軽な感じの安否確認。阪神大震災のように真に大変な時には迷惑になったりするんですかね。まあ、そこに心配はあるんだろうけど、基本興味本位なメールが集中しちゃって、本当に大切な人からのメールや情報が届きにくくなったりしちゃうのかな。

あれ?
ラジオは地震に強い感じするけど(イメージで)、メールとかネットは被災地では使えなくなるのかな?耐震とかそこらへんも考えて機器も施設されているのかな?モノには限度はあるだろうけど、どれくらいまで耐えられるものなんだろう・・・

で、話は変わりまして、地球さん。
全く休まずにクルクル自転しながらグルっと太陽の周りもまわって、なおかつこの広大すぎる空間の何処かへか移動し続ける。僕等の時間感覚では、いやアナタの感覚でもゴールは無いでしょう。辿り着くことは無いでしょう。
大変なのはわかる。でも、ちょっとは休めば?回るのも周るのも少しサボればいいじゃん。とは決して言ってあげられない。
こちとら自分が大事だからね。

でもあまり無理すんな。お体にはお気をつけて。




Ⅳ:為

しかしなんですね、地球も”賃貸物件”と考えたほうがいいのかもしれないですね。
未来からの永遠の借り物、僕等のモノではない。人間のモノではない。
だから、その借りてるお金や維持費は払わなきゃいけない。地球にたいして。
もちろんそのお金は”地球の為”に使ってもらう。

つうてもこれ難しいかな?

世界的同意が出来たとしても、地球さんが各々から直接お金を受け取るわけもないし、間に集金システムを挟むと、即行、不透明な金の流れって奴になりそうだし、”地球の為”つうのを己のトコに引き寄せた、偏った特定の集団などに利用されることなく、ピンハネも無しに、純粋に大家である地球にお金を払うっつうのは。

ただ兜率天レベルとは言わんから、せめて今の子供たちの子供たちくらいまでの地球の未来は今の大人が作ってあげないと。




Ⅴ:偽

偽善かもしれんけどね。

子供の頃、近所の川は沢山のゴミが浮き、妙な泡がたち、嫌な臭いがしました。
これは別に僕のトコだけじゃなく、日本全国、当時の街中の川はそんなもんだったと思います。

スモッグという言葉もまだ日常的に聞きました。
有機水銀・・・沢山の痛ましい出来事もまだ皮膚感覚をともなった痛みとしてありました。


そして今、例えば台風一過の東京の早朝、澄んだ空気、見晴らしのいい高台の場所、はっきりと見える富士山、素敵です。
もちろん街が目を覚ますと、それはすぐに靄がかかったようにぼやけてしまいますが、何も見えないというほどではありません。結構遠くまで見えます。

僕は散歩が好きです。
街中の川べりの遊歩道を歩くこともあります。
「水が澄んでいる」とまではとても言えませんが、「ゴミが浮いてない」ともとても言えませんが、別に妙な泡はたっていませんし、嫌な臭いもしません。
これは別に僕のトコだけじゃなく、日本全国、現在の街中の川は大概そんなもんだと思います。
もちろん”すべて”とはいいません。

たぶん政治家も頑張ったんでしょう。
官僚も頑張ったんでしょう。
企業も頑張ったんでしょう。
なによりそれらも含めて人間が頑張ったんでしょう。

もちろん権力闘争もしたでしょう。
金儲けもしたでしょう。
ずるいこともしたでしょう。
あくどいこともしたでしょう。
別に政治家や官僚に限らず、人間社会、皆何かしらしたでしょう。

で、その結果の一部が空気や川。
もちろんまだまだこれからでしょう。
スモッグも無くなったわけじゃないし。

でも今を生きる日本の人間全部(日本人たぁ書きませんよ)の思いの総和の表出が現在の日本の空気や川なら、僕は”人間はまだすてたもんじゃない”に一票です。

が、世界はどこも同じ時間が流れているわけではないので、もちろんまだ終わった問題ではないですね。
この国の経験を生かせればいいんですけどね。

それにそれが起こった構造を決して忘れてはいけないこともあるし。
それは形をかえて現在もどこか見えないトコで胎動しているかもしれないし。




Ⅵ:そうそう

「向かって右!」

と言われると

え?どっち?てなる



・・・・・・・・・



んでは

またたたたたたたたたたたた

お前はすでに読んでいる★m9( ̄▽ ̄φ)



おいといて

また

かならずおあいしませう

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