717年の遣唐使が(おそらく)長安での買い物の許可を皇帝に求め、"輸出規制品以外"という条件で許されたという記録があるそうです。
長安には世界の物産が集まる官営の市があるも、外国人はそこでの買い物は許されていない。
そしてこの三年前、714年には皇帝の勅で高級織物や黄金、鉄など(あと数点)輸出禁止されているそうです。
(この官営の市での買い物が許可されたのか?
正確なことは今わかりません・2013/11/26)
あれですかね、この勅による金輸出禁止を受けて国内での金探査が急務になりましたかね。
この禁止が正確にはいつからいつまで続いたのか?
どれほど厳格だったのか?
それは僕にはわかりませんが、唐からの金輸入がその時点で絶望的だったとしたら、大仏鍍金用の金枯渇への悲嘆と749年の発見時の聖武天皇の歓喜がよくわかるような。
その時の聖武天皇詔
此の大倭国は天地の開闢より以来に黄金は人国より献ことは有れども斯の地には無き物と念えるに聞看す食国中の東の方陸奥国守従五位上百済王敬福い部内の小田郡に黄金在りと奏して献れり此を聞食し驚き悦び貴び念おさくは盧舎那仏の慈み賜い福わえ賜う物に有と念え受け賜わり恐り
この717年の遣唐使は翌718年帰国。
「蝦夷と東北戦争」によると。
同年、陸奥国を現在の福島県域である石城国、石背国と蝦夷対策の最前線としての陸奥国に三分割。
翌719年、特定の国の守をして周囲三、四カ国を管轄させる按察使制度が発足。
そして720年、(小)陸奥国で史上初の蝦夷の大反乱がおきると。
ま、これはさすがに対応はやすぎですかね?
でも仮に749年以前から、日本の人たちが蝦夷の人たちから砂金を入手していたとしても、そこがその頃は蝦夷の"国"だったとしたら、聖武天皇がいう黄金は"大倭国は天地の開闢より以来、斯の地には無き物"てのと別に矛盾はしませんよね。
都からは、そこは漢土における匈奴の奥地みたいな感覚で。
(ちょっと時代感覚むちゃくちゃですけど)
そういえば、「遣唐使船」によるとですね。
マルコポーロより以前、イスラムアッバース朝に仕えたイラン人イブンフルダ-ズビフによって九世紀後半に書かれた「諸道路と諸国の書」の中に、"シーンの東にワークワークの地があり、そこには豊富な黄金がある"みたいな記述があるそうです。
さらに、印刷技術が発達する前、書物を手書きで写していた頃、日本が中国の書物を書き写した写本には似たような形の漢字への書き間違いが多い。
でも敦煌や西域の写本では同じ音の漢字への書き間違いが多い。
当時の日本人(貴族や官吏が主ですかね)には、すでに中国語は耳ではなく目から入っていたのだろうと。
さらにそういえば、これは記憶たよりで書きます、「街道をゆく」でだと思いますが。
最澄も渡唐時、通訳をつれていった。
で、この通訳の人、最澄と唐の僧侶の通訳、教義についての質疑とか、の仲立ちをした結果、最終的に、天台宗を日本にもたらしたのは最澄ではなく自分だ、という考えにいたった、という話を読んだような。
これに対する司馬さんの結論は。
"たしかにそうともいえるのかもしれない。"
"ただ、別の考え方をする人なら、決してそうはおもわない、というだけのことだ。"
だったような。
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