Tuesday 26 November 2013

⑳費用

「帰化人と古代国家」によると。

で、おそらく最後の遣唐使の時の記録だと思うのですが、砂金大一両は小三両にあたり、銅銭として九貫四百文にあたったそうです。
この時入唐した僧円仁は滞在中途で日本から砂金の補給を受けているとか。


で、ちなみに唐から支給されていた絹二十五疋と時服は一人につきですが。
ネットで調べたら、一疋で二反。
もしかしたら時代により規格に変動があるのかもしれませんが、現在だいたい20メートル強くらいみたいです。


(一疋20メートル強とすると、絹二十五疋で500メートル以上?
随分、長いような、とも思いますが、生活費と考えるとそうでもないのか?・2013/11/24)


で、これまた時代によりその重さに変動はあるみたいですが、銅銭千文(枚)で一貫だと。
で、当時の唐の一文が現在の日本円でいくらくらいかというのは?です。


(つまり砂金大一両が9400文。
が、そもそも"砂金大一両"がなんでいきなりでてきたのか?今となってはよくわかりません。
と、書きましたが・2013/11/24)


あ、遣唐大使が帰国に先立ち、留学層に東絁三十五疋、砂金二十五大両などを学問料として与え、円仁ら長安にこれから行こうとするものにその資として金二十大両を与えた、とちゃんと書いてありました。

あと、先に書いた、留学中の円仁らに学問料として新たに届けようとした砂金二百大両が行方不明になる事件もあったみたいです。

(留学期間は二十年以上てのが普通だったはずです・2013/11/26)


留学僧惟暁(ゆいぎょう)らは法衣を作った料としての絹と縫手の功銭として計一貫七百文を支払い、惟正(ゆいしょう)らも坐具を作るための絁と作手の功銭に五百文を支払った。
ただそれが何人分とかは、よくわかりません。

で、遣唐大使も寺の一閣の修築料として銭五十貫を寄進したりしてるみたいです。



東野治之「遣唐使船」によると。

804年の遣唐使では大使副使以下砂金を支給されて渡唐している。

額は大使二百両(もちろん大でしょう)、副使百五十両で、つぎの838年の遣唐使でもほぼ同額があたえられていて、おそらく制度化されていたのだろうとのことです。

で、現存する資料での確認はできないが、この支給制度はそれより遡るかもしれないと。



ところで、大仏造立時。
唐から黄金を輸入するための遣唐使が計画されたという伝承がある。

しかしこれは一概に伝承とは言えず、正倉院文章に746年に遣唐使を任命したと読める記載があり、懐風藻という漢詩集の中にちょうどその頃石上乙麻呂という貴族が遣唐大使に任命されながらとりやめになったという記事があるそうです。


749年、国内で黄金が発見された。

正史を読んでいるとこの発見は本当に突然のようだが、おそらくもっと早くから黄金の探索を全国規模でおこなっていた可能性がある。

敬福も黄金発見まで通算六年以上陸奥の国司を務めている。
遣唐使が中止になったのも国内での産金の目処がある程度ついたからではないかと。

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