Tuesday 26 November 2013

はい日本のみなさん夜空に注目!

満月とはいかんが綺麗なお月さん

はいみましたね

君と僕は今同じお月さんをみているわけだ

何十億年と言う悠久の流れの中のほんの一瞬の同じお月さんをみているわけだ

充分僕らはつながっているわけではないか

これはキセキ

アルゼンチンの人とは同じお月さんはみれんぞ!


でしたΘ




話はまったく変わりまして



Ⅰ:20th Century Boy

僕はそんなに野球詳しくはないんですが、今年(2009)の日本シリーズは北の雄「日ハム」と東の雄「巨人」の対決ですね。両方のファンの方には今月31日の札幌ドームでの開幕戦が待ちきれないことだと思います。

しかし一昔前だとこの日本シリーズはすべて東京ドームで行われていたんですよね。
上京当時、東京ドームで巨人戦と日ハム戦の料金表を見たときの不思議なせつなさは憶えております。

日ハムは北海道に行って大成功でしたね。僕もダイエーが福岡に来たときうれしかったですもん。
昔は九州にも西鉄とかプロ球団あったみたいですけど僕知らないし、僕にとってはダイエーが九州で初めてのプロ野球球団でした。
親父と二人でよく平和台球場にダイエーの試合を見にいってました。

ただ弱かった。

僕は「王さんの悪口を言う奴は豆腐の角からパワーボムくらって泣いてしまえ」とおもわず思ってしまう男なので、王さんがダイエー監督就任当時は辛かった。

ところで、PCのHDに録画してる「長嶋と王50年目の告白」と言う番組。もう4回くらい観ちゃいましたが、王さんはもちろん長嶋さんも「物凄い」って言葉を使うのが軽薄に感じられるくらい現役当時、物凄い努力や苦悩をされていたんですね。

僕は長嶋さんの現役当時を知らないので正直そこまでの思いいれはないんですが、長嶋さんの野球人生には感銘を受けましたし、病に倒れられてからの長嶋さんのあくまでも"長嶋茂雄"という自分の運命と闘う姿勢には「物凄い」エネルギーをもらいました。

そう言えば陳舜臣さんの「秘本三国志」という小説のラスト。五丈原での陣中、病に倒れ死を待つのみの諸葛亮の台詞として「私は運命を信じません」というのがあったよな。
「人は己の運命に打ち克つべきです」と。そうでなければ生きている意味がない。
例によって記憶頼りのあやふやなモンですけどネ。

古本屋で買った「回想」て王さんが現役引退当時だした自伝何処にしまいこんだかな?
番組観てたらまた読みたくなったんだけどな。




Ⅱ:月世界の白昼夢
 
山本直樹さんの漫画「レッド」第一巻を読む。
これは連合赤軍事件のお話。

この一連の事件の最初の死者がでたのが銃奪取を目的とした交番襲撃事件。

この交番、近所なもので、よく前を通りますが当たり前だが普通の交番。
のどかなもんです。


暇な時、たまった昔のビデオテープをPCを使ってデジタル変換。
ただ、もとがアナログなので、6時間録画したテープなら取り込むのにも6時間かかる。
だから基本的に違うことしつつ流しっぱなし。しかし、懐かしさも手伝いついつい見てしまう。

そうして思わず観てしまったのが、NHK特集“映像の20世紀”第4回「ヒトラーの野望」

もともと“映像の20世紀”は残された映像で20世紀を振り返ろうつう番組。
で、今回は恐慌後の世界に始まり、ナチスの台頭、WW2の開戦まで。

恐慌後にワシントンに集まった2万人の退役軍人を武力で鎮圧する陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーさん
ソ連を訪問するバーナード・ショーさん
ミュンヘン一揆の頃だか34歳当時のヒットラーさん
5・15事件直前の犬養毅さんの映像と肉声(一緒に映っている女の子は犬養道子さん?)
ドイツに宣戦布告するイギリス、チェンバレン首相の(本当に)悲痛なラジオ放送

など、見所てんこ盛り。そりゃ観ちゃいます。

中でも一番印象深いのはチェンバレンさん。
世界史の授業で習った印象では、ヒトラーにいいように利用されたお人好しの無能なおじさん。
他の国の領土のドイツへの割譲とかもあっさり認めちゃったり。

でもこのラジオ音声を聴いていると、この人はこの人なりに、一国の利害を代表する首相という立場の中で必死に平和への道を模索していたんだな、てことは分かる。採った方法の是非は別にして。
授業の二、三行の文字だけじゃ分からないことを、この肉声は教えてくれる。

(注:言葉はわからなくても、その無念さは本当に伝わってくる"音色"です・2013/11/25)

しかし映像はほとんど白黒。
たまにカラーがあっても古びててやはり時代性は感じます。
風俗とは別のところで。
こりゃ歴史だなと。


もしも百年後“映像の21世紀”って番組ができたらどうなんだろ?
今のデジタルの画像は百年後にみても何も変わらんだろうし。
たとえば今の永田町の政局だってサッカーの試合だって百年後も変わらぬ臨場感。
とくにスーツとかフォーマルな格好は百年後もそう変わらんだろうし。

これは歴史か?白昼夢か?

まあ映像そのものが今とは根本的に変わってるのかな?
2次元から3次元とかに。

しかし劣化しない(コピーすることも含め)ってことは怖いことかも。

アナログ世代が思うに。



Ⅲ:そういえば

「ったく、くだらねえ。こんなクズ誰が観るんだよ!」と思わず言ってしまう作品ってありますよね。映画にしろ、テレビドラマにしろアニメにしろ何にしろ。
で、やっぱり僕にも「こんなクズ誰がみるんだよ!」と言ってしまう作品が間々あります。で、僕はそう言いながらがっつり観てしまう作品も間々あります。「くだらない×2」と言いながら延々観てしまう作品が。

一応「どこまでくだらないか確かめるために観ているんだよ」という(自分への)説明も用意はしているんです。
が、果たして本当にそうなんだろうか?
いや、確かに「くだらねえな」とは思ってる。それは間違いない。しかし「誰が観るんだよ!」はどうだ?う~ん、これもそうは思ってはいるか?だって、本当にくだらない。観るのは人生の浪費以外の何者でもないだろう。

しかし僕は観てしまう。
誰かに詰問されている訳でもなく、僕がそれを観ているコトを誰にも知られていない状況下においても、「どこまでくだらないか確かめるために僕は観ているんだよ」と自分に言い訳をしながら観続けてしまう。

いったい僕は何が怖いのだろう。
何から目を背けたいのか。

それは謎でも何でもない。答えは答えとしてそこに在る。言葉は時として本質を隠蔽する。暴くのは誰だ。裁くのは誰だ。罪びとは誰だ。罪とは何だ。

この話の流れは何だ。




Ⅳ:弦楽のためのアダージョが好き

サミュエル・バーバーさんが作曲した「弦楽のためのアダージョ」が好きです。
この曲は死者を悼む、送る時に使われることが多い、感傷的な雰囲気を纏った曲です。

この曲は、聴く者に人の世の、哀しさ、虚しさ、辛さ、醜さ、愛しさ、そして儚さ、あらゆる感情を呼び起こさせます。
悲劇的なドラマの静謐なラストシーンに使われることが多いのもうなずけます。

しかし私がこの曲を好きな理由はそこじゃありません。

光がみえるからです。

この曲は、その音にこめられた確かな人の意思で、汚泥にまみれた人の世の、深い絶望の底の底に、希望という小さな小さな松明が灯っていることを確信させてくれるからです。

絶望は答えではない。

だから私もたとえ夕食のチャーハンを作るのに失敗したからといって、人の世に絶望はしません。
不味いだけで食べれるじゃないか。前みたいに食べた直後に頭痛がしたり、吐き気がしたりしないじゃないか。完食できたじゃないか。失敗するのをみこして作る量を少なくしたのはご愛嬌さ。
大丈夫、進歩してるさ。

今度はもうちょっとちゃんとレシピを読もう。
男の手料理だと目分量はもうやめよう。
隠し味だと考え無しにソースとか入れるのはやめよう。

うん、以後気をつけよう。
だってほら、世界はこんなに美しい。



Ⅴ:迷羊

ひさしぶりに北野武さんの「HANA-BI」観ます。
「ソナチネ」も観たい気分なんですが、現在僕にそこまでのパワーがなく。
つうと「HANA-BI」にパワーがないみたいですがそういうわけではもちろんなく、「門」と「三四郎」で今は「門」を読みたい気分なんです。

僕は三部作のなかでは「門」に一番ひかれます。
何度も読み返したのはまちがいなく「それから」ですが。

と書いていたらふと思いました。
僕は以前『日本は滅びる』と言ったのを「こころ」の"先生"だと書いた気がしますが、あれって「三四郎」の冒頭"三四郎”が上京する汽車のなかでの話ではありませんでしたか?どうでしたか?

あれれ?




Ⅵ:そうそう

『そう言えば陳舜臣さんの「秘本三国志」という小説のラスト。五丈原での陣中、病に倒れ死を待つのみの諸葛亮の台詞として「私は運命を信じません」というのがあったよな。
「人は己の運命に打ち克つべきです」と。そうでなければ生きている意味がない。』

つう文を以前書いたんですけどね、ちょうど整理してたら「秘本三国志」の最終巻が出てきたんでパラパラと拾い読みしてみたら、何処にもそんな台詞は"無い"ですな。まったく"無い"ですな。


で、そんな訳で、そこのトコを『そう言えば陳舜臣さんの「秘本三国志」という小説に諸葛亮の台詞として「私は運命を信じません」というのがあったよな。』に修正します。

いやね、たしかね、たぶんね、その小説の中にはあったのよ、諸葛亮の台詞として、そういう言葉が。

ま、もし無かった時は僕の創作だったということでいいではないか!
あの話のオチにはこの一文が必要だったのだ!



で、子母沢寛さんの「新選組始末記」。

この本は、子母沢さんが当時まだご存命だった新撰組隊士の方や遺族の方に直接取材されるなど、非常に興味深いエピソードがてんこ盛りの面白い本です。
でも、その記述スタイルからこの本は"ノンフィクション"という印象を読む者にあたえてきましたが、実はかなり(関係者の証言も含めて)子母沢さんの創作がまじったある種"小説"ではないかと最近(でしたか?)疑問を持たれています。←板橋の刑場(埼京線の板橋駅んトコですね)で首を切られ処刑された近藤勇の胴体を親族が掘り出すエピソードとか。

が、たとえそうであったとしても、この「新選組始末記」には武士の世の最後を駆け抜けた若者達の青春の真実が息づいています。
それがどんなに血塗られたものであったとしても、視点によってはたんなるテロ集団、内ゲバ集団だったとしてもです。

会津藩家老山川浩さんが明治後に書いた(一説には弟で東京帝国大学総長の健次郎さんが書いたとも)、会津藩の京都守護職時代の記録である「京都守護職始末」に「新撰組、規律厳粛、志気勇悍、水火と雖も辞せず、後諸浪士来附するもの頗る多く、守護職の用をなせる事、亦甚だ多し」と書かれた誠の志が「新選組始末記」の中には確かにあります。


え~~と。

だ・か・ら、僕が少々記憶違いしていても、なんなら創作しちゃっていたとしても、別にいいではないか!
「真実」は「事実」の中にだけあるわけではない!と、話の流れを持っていこうと現在画策中です。

とは言うものの、亡国の臣、山川兄弟が(あえてそう書きますが)「京都守護職始末」にこめたろう、「真実」は作られた「事実」の中にだけあるわけではない!という想いを考えると、あんまり軽はずみなこと書くのも・・・。




Ⅶ:love

木村東介さんが主人をつとめる文京区は湯島、古美術の羽黒洞をジョン・レノンさんと小野洋子さんが訪ねてきたときのことを木村東介さんご自身がエッセイに書かれています。

木村さんは明治生まれで、ジョン・レノンさんのことはよく知らなかったらしいです。
だから成金のガイジン(という言い方はなさってませんが)に自分が精魂こめて集めた美術品を売りたくはなく、最初はなるべく二流品を見せようと思ったそうです。

「いくらか?」「二百万」「OK」「いくらか?」「四十五万」「OK」「いくらか?」「五十万」「OK」といった会話を何度か繰り返したあと、レノンさんの目は棚につんである箱行のいいものにとまります。
「これはなんだ?」
「これはあなたには無理で、日本の俳聖といわれた芭蕉という人の短冊である。中にかいてあるのは俳句というものだ」
しかしレノンさんは熱心に木村さんに中をみせてくれと頼んできたそうです。
それならばと木村さんは箱から出し、床にかけます。

「古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉」

「いくらだ?」「二百万」

するとレノンさんはすぐに「分けてくれないだろうか?」と恐る恐る聞いてきたそうです。
木村さんが「貴方が欲しければわけてあげてもいい」と言うと、途端に目を輝かし「すぐに軸をはずしてくれ」と言うので、丁寧に巻いて二重の箱に収めてレノンさんに渡すと、レノンさんはその箱を抱きしめて離そうとしません。

そして、「ロンドンに帰ったら、この軸のために日本の家を建て、日本の茶席を造り、床の間にこの軸をかけ、池のある庭を造って日本のお茶を飲む。そしてその日から自分は英国人ではない、立派な日本人になり、日本人の心になって、この芭蕉や白隠や仙涯を見て楽しむから、私に譲ったことを嘆かないでくれ」と、レノンさんは心から木村さんに頼んできたそうです。

実はこの木村東介さんのエッセイ「ジョン・レノンと歌右衛門」は題名にあるようにここから話の核心に入っていきます。
もし興味のある方は講談社文庫「ビートルズってなんだ?」に収録されているのでそちらで・・・。



でも、僕がこのエッセイで一番好きなエピソードは、(おそらく)呼んだタクシーを待つ間、店(木村さんの自宅?)を出でバスの停留所の石のあたりにレノンさんが腰掛けていたら、若い女の子達がみんな不思議そうにレノンさんの顔を見みながら通っていくってくだりです。

そりゃ1971年1月20日の昼下りに、東京は文京区湯島の天神下付近のバス停留所のトコにジョン・レノンが普通に腰掛けてるとは中々思えませんよね。←結局、木村さんが戻ってきた女性に「あの人はジョン・レノンか?」と聞かれて「そうだ」と答えるとたちまちサインを求める女性が増えてしまったみたいです





Ⅶ:夏に放送されたのを録画しといた「若い広場・矢沢永吉からのメッセージ」を今日観ました

え~と、このインタビューが収録されたのは80年の1月で本放送が2月ですか。もう30年前と。

すごいな~言ってることがまったく古くなってない。おそらく今から30年後もまったく古くなっていないでしょう。
つうかまったく言ってることにブレがない。
「本質」をグワッと鷲掴みにしちゃうんだろうな。

しかし、インタビュアーの中部博さん26歳の「選挙に出ようと思ったことあります?」との質問に「金儲かる?ソコ」と笑って返した30歳の矢沢さん、マジでシビレます。





Ⅷ:そういえば

以前、一回ずつ、もちろんお二方に一度もあったことがない人に、時系列で書いて
 
君はある意味、ジョンレノンだからな
君はある種、長嶋茂雄だからな

と、いわれたことがあります。
が、そこは少しあやふやで、もしかしたら

君はある種、ジョンレノンだからな
君はある意味、長嶋茂雄だからな

だったかもしれません。
これでわかることは

ジョンレノンさんは、ある意味、長嶋茂雄さん
長嶋茂雄さんは、ある意味、ジョンレノンさん

長嶋茂雄さんは、ある種、ジョンレノンさん
ジョンレノンさんは、ある種、長嶋茂雄さん

て、ことですね。




Ⅸ:では、本日のお別れに

Nick DeCaroさんで“Under the Jamaican Moon”

聴いてると、心にお月様。

プカプカです。

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