Wednesday 27 November 2013

⑳海

安史の乱。
どうもこの乱勃発直後は、日本にその情報はまったくもたらされなかったようです。

乱勃発から三年後、渤海国から帰国した小野田守により、"官賊両方からの強い援軍要請への対応に渤海国が苦慮している"等、初めて乱の情報が日本に伝えられたそうです。

で、白村江の敗戦が頭にありましたかね、その波及をおそれて大宰府に厳戒態勢をとらせたと。
もしかしたら幻となった渤海国との新羅挟撃計画は能動的作戦計画ではなかったのかも。


そういえば、いきなり話はかわりますが。

遣隋使小野妹子を送って来日した隋史裵世清(はいせいせい)は晋以来の名家の出で、唐に変わっても順調に出世しているんですと。
あれですかね、帝国内の実力者が内側から帝室を倒すのか、まったく無縁なところからやってきて倒すのか、変わり方もちょっとはその辺に影響するんですかね。

確か隋を滅ぼした唐の李氏は、もともと隋の煬氏と共に北周(隋に滅ぼされた)の有力貴族で、姻戚関係にあったはずです。



で、また話はかわりますが、遣唐使船の強度の話です。
僕だけではないと思いますが、遣唐使船はよく難破してるイメージがあります。


で、これは中国や朝鮮とくらべての、当時の日本の造船技術の未熟さが遣唐使の遭難の多さにつながったといわれている。
技術の未熟は確かにそうかもしれない。
しかし、中国が船での遠隔地貿易にのりだすのは唐末以降のことで、この当時、外洋航海、しかも定員百人以上の大型船を作る技術は、もしかしたら中国や朝鮮にもなかったのかもしれない、とのことです。


渤海から日本への使節船は多くて百人程度。
新羅使も一隻百人くらい。

しかし、例えば777年の日本の遣唐使は五百人以上が四隻に分乗。
つまり一隻平均百二十五人オーバー。

そして帰路の嵐。

行動をともにした二隻のうち、唐の使節が分乗した第一船に船が二つに割れるなど被害が集中したのは、百六十人の乗員と答礼品などその荷、重量過多に原因があったかもしれないと。

で、さらに、遣唐使は何故か渡海に有利な季節風が吹く秋を無視、わざわざ台風シーズンの夏を選んで日本を出発する。
これは気象の無知からではなく、長安での正月の朝賀の儀に参列するよう唐側に期待されていたからかもしれない、とのことです。

その時期に日本を出発すれば、ちょうどいい頃合いに長安に到着する。
さらにそこからの渡航の前倒しは、保護接待する唐の負担が増える。

日本と渤海とは上手く季節風を利用して行き来していたそうです。


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