ころも大仏建造の鍍金がなくなり挫折感が朝廷に満ちていたとき。
天佑神助、仏のめぐみだ、ありがたや、と、この年、天平感宝、天平勝宝、と二回も元号が改まった。
越中国守、大伴家持がこれを聞き一句。
すめろぎの御世栄えむとあづまなるみちのく山にくがね花咲く
そして三年後(よね?)の天平勝宝四年、陸奥国多賀城以北の諸郡の調庸(ざっくり租税ということで)は黄金で、と、制度化された。
ちなみに多賀城以南は従来どおり貢布で、そして、さらに北方の地帯は貢馬とされた。
これは「宮城の昔話」からだったかな?、そのころの昔話で。
昔々、坂上田村麿が東北地方の賊を征伐に向かう前、偉いお坊さんから尊い仏像のあまりでつくったという木彫りの馬をもらった。
さて、征伐にむかった田村麿たちが賊に負けそうになったとき、どこからともなく百頭の馬がやってきた。
そして彼らはこの馬にまたがり賊を退治した。
「名山の日本史」の著者の高橋千劔破さんは、ほとんどの伝説や史書が坂上田村麻呂や源義家を東北地方を平定した”英雄”としてを扱っている。
征服された蝦夷の側を征伐されてしかるべき”賊”としている。
しかし蝦夷からみれば、これは一方的な侵略で、賊扱いされるいわれなどないだろうと。
そういえば、「水曜どうでしょう」の四国お遍路をみて、ちょっと興味をもっていたんですが、四国の札所にもあたりまえに廃仏毀釈の嵐はきてますね。
石鉄蔵王権現が石鎚神社となった石鎚山の六十番札所横峰寺は明治六年に廃寺。
横峰寺とともに平安以来の石鎚山の山岳信仰の中心となった前神寺。
この寺は当時の住職が廃仏稀釈に激しく抵抗するも、原因不明の火災で焼失。
明治八年、石鎚山の中腹にあった本寺(という言い方でいいのか?)は廃寺となり、その名は山麓の末寺に移された。
ただしこの時、前神寺という表記を前上寺に変えさせられた。
そして三十年以上のち、明治四十二年にやっともとの名に復した。
明治六年に廃寺となった横峰寺も、別地で大峯寺と名を変えてようやく存続することができた。
そして同じく明治四十二年、こちらは元の境内を神社から譲渡され横峰寺として復することができた。
もちろん「名山の日本史」を読んでますが、横峰寺や前神寺が山岳信仰に深く関わった巨刹であるのにその歴史がよくわからないのは、この神仏分離の廃仏毀釈で致命的な打撃を受けたからだろうと。
でも、もとにムチャがあったわけですが、明治四十二年てのは日露戦の勝利も気分的に関係してますかね。
勝った、勝った、もう西洋の侵略にビクビクしている時代は終わった、これからは日本もどんどん発展するさ、細かいことはもういいだろう、てな感じで。
ま、そんな時、ま、適当に書いてそんな時もないもんですが、夏目漱石は、自作の登場人物の口を借りて。
(日本は)滅びるね
と言ったわけですが。
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