ところで、天平の黄金発見。
もともと陸奥に黄金があるらしいということはわかっていた気がするんです。
だからこそそういう探金?技術に長けている渡来系の百済王敬福を陸奥守に任命して調査させたのかなと。
と、思ったら、「考古学の旅」に著者である森浩一さんのお考えとして、その可能性がさくっと書いてありました。
砂金とかは”毛外の民”の人たちには、それこそ民話の炭焼藤太の話のように当たり前にそこにあるものだったのかも。
で、かれらはそこにこれといって価値を見出していなかった
「ああ、そんなもの、そこの沢に行けばいくらでも取れるよ」みたいな。
森さんも、大仏鍍金の九百両の中には蝦夷をかいして入手した、より北方の、もしかしたら(勿論現在の)北海道の砂金も含まれていたかもと。
「天平の時代」によると。
聖武天皇と藤原不比等の娘、光明皇后のあいだに生まれた唯一の男子で、生後一年で亡くなった某王がいた。
この男の子のために建てられた小さなお堂が後に金鐘寺(こんしゅじ)という小さな寺になり、この寺を前身として東大寺が造営されたそうです。
ちなみに、使用された鍍金は大仏のみで10,466両、約430kgとか。
さて、炭焼藤太の話。
「金?そんなん何が惜しいんだ?裏山掘ればいくらでも出てくんぞ」てな話。
あれは福島(信夫郡)の民話でしたが、「宮城の民話」を読んでいると、栗原という場所の話としてほぼ同じ話がのってました。
でも今とりあえずその本をざっと読んだだけですが、空海話はなかったな。
まあ、なんでものっているわけじゃないでしょうが、そこまでは高野聖もあまりこなかったのかな?
宮城は鎌倉幕府成立までは奥州藤原氏の勢力圏かな?
それが関係してるかな?
でも、白河の関を越えると、だもんな。
高橋千劔破さんの「名山の民俗史」によると。
福島と茨城の境にある八溝山(やみぞさん)。
ここは古くから砂金がとれることが知られていた。
続日本後紀、承和三年(836)の記事に。
"白河の八溝黄金神に奉げものをして国司に祈らせると常より数倍の砂金がとれ、遣唐使の資金がおおいに助かった"
そのような記録があるそうです。
そこから時代がくだりますが、「平泉の世紀」によると。
10世紀末、奥州が唯一の産金地で、国の金の需要はすべてそこからの貢金で賄っていた。
中国の「宋史・日本伝」にも、"東の奥州は黄金を産し"とあり、日本の黄金はその質のよさもあり日宋貿易の重要な輸出品になっていた。
しかし現在その貢金はほぼ途絶えている。
(この現在がいつを指すのかちょっとわかりません。
おそらく奥州藤原氏が東北での地位を確立した後のことではないかと・2013/11/21)
「源平盛衰記」の中に、平重盛(平清盛の息子)が陸奥国を支配(実際は奥州藤原氏)していた時の話として。
"気仙郡から1,300両の貢金があり、それを宋から来ていた商人をかいし、中国の育王山という霊山と宋の帝室にわけて送った"
そのようなくだりがあるそうです。
ちなみに「平家物語」では3,500両だけど、こちらは金の出所が書いてないんですと。
で、これはその事実から百年以上あとに書かれた文章ですが、奥州藤原三代清衡(二代基衡とも)は10万5千両(四トン超?)の砂金を宋の帝室に送って7千巻以上の一切経を平泉に輸入したそうです。
さすがに量は大げさかもしれませんが、この奥州金と中国の長い結びつきが、のちに黄金の国ジパングとして結実したのではないだろうかということです。
「宋史」成立は元後期ですが、その「日本伝」は984年に入宋した日本僧奝然(ちょうねん)がもたらした「王年代記」など日本側の資料をもとに記され、日本伝としての信頼性は高いそうです。
で、この奝然が渡宋の時同船した宋の商人の話で、公卿が彼にお土産に金をもたせたいけど、手持ちがないから奥州に貢金の催促をしたという話があるとか。
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