Thursday, 21 November 2013

⑮宴のあと

仲麻呂が宥和をはかるも、孝謙太上天皇と淳仁天皇の仲は決定的に決裂、二人とも相次いで平城京に帰った。

そして孝謙太上天皇は「私は出家した」として法基尼(ほうきに)と名乗り、「今後国家の運営は自分がおこなう、淳仁は天皇の日常の些事のみをおこなえ」と宣告した。
 
この淳仁天皇こそが仲麻呂の権力の裏書であった。
そして同じ月、後宮の女官の長だった仲麻呂の正室が亡くなった。


ん~仲麻呂が独裁者といっても孝謙太上天皇の一言で吹っ飛ぶんだからたいしたことは、というか、孝謙太上天皇自身の今後のことも考えると、天皇個人(ここでは太上天皇ですが)ではなく、天皇それ自体の権威が貴族のなかではまだまだ凄かったんですかね?
もちろん藤原氏も含め。本家の当主みたいな感じ?
 
(もちろん孝謙太上天皇による道鏡問題です・2013/11/20)

 
あと、これに限らず、歴史ではわりと都合よく人がいなくなる気がします。
そしてそれを機に歴史が動きだす。
 
もちろんそれが当然なんですけど。
だって歴史の流れのつっかえ棒になってた人がいなくなるんだから、動き出すのは当然だ。
ただ、仲麻呂のところだけでも、何か多い気はしますね。
それがすべて仲麻呂に有利に働いた、というわけでもなく。
 


この孝謙太上天皇の宣言で仲麻呂の権力の衰退はいよいよあきらかになってきた。
しかし半年後、(たぶん)あせった仲麻呂は次男に続き三男四男を参議に任命。
国の最高機関である太政官を血縁や自派でかためるという露骨なことをした。
これに対して同じ藤原氏の中からも仲麻呂を暗殺しようと思うものがでてきた。


このように藤原氏からも見限られつつあるなか、長く仲麻呂派が独占してきた官吏に反仲麻呂派が就任することがふえてきた。
 
764年、保良宮がある近江も、仲麻呂が信頼する女婿で按察使の御楯(みたて)が亡くなった後は反仲麻呂派の手中にほぼ落ち、京の僧や尼を管轄する官からも排除された。
 
同じころ、以前の銭貨とほぼ同じものに十倍の額面価値をつけた万年通宝が流通しはじめ物価が急上昇。
それに飢饉や疫病の流行がかさなった、特に近畿や近江はひどかった。
 
「これはすべて仲麻呂の悪政による」
 
そのような声が天下に満ちた。 
仲麻呂は追い詰められた。
 
同764年、自らを守る兵を集めるため、彼は国家の命令書を偽造。
部下の密告によりこの致命的行為が発覚、仲麻呂はついに挙兵した。
しかしこれは追い詰められたすえの挙兵だった。

この反乱は、つねに孝謙太上天皇側に先手をとられた。
仲麻呂は琵琶湖湖西の勝野という場所で最後の戦いを挑み敗北。
捕らえられていた妻子などと共にその地で処刑された。
ただ六男の薩雄のみが若年からの仏教修行を理由に命を助けられた。




で、ですね、「天平の時代」に大伴家持と仲麻呂の直筆という写真が小さくですが掲載されていてですね。
 
家持は文章で仲麻呂は署名のみなんですが、なんというか家持の大人の文字にたいして仲麻呂はなんとなく子供っぽい文字なんですね。
単純に上手い・下手かもしれませんが。


兄弟をも踏み台に、謀略の限りをつくして己の野望に邁進する仲麻呂。
そんな仲麻呂に追い詰められる大伴氏の長老として、「決して軽はずみなことをして罠にはまり大伴氏を滅ぼすことがないように」と氏族内の血気さかんな若者を諭す家持。


でも権力を握った後の仲麻呂は、疲弊していたふつうのひとびとの負担が軽くなるような政策を次々とおこない、もちろん人気取りということもあったでしょうが、本当に世の中をよくしたいという理想主義に燃えていたのかも。
そのためにも何が何でも権力を握らねばと。
 
ん?それを独裁者というか?(笑)

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