Friday, 15 November 2013

⑨再編

この反乱は当時の日本国の指導者たちに様々な"征夷"への教訓をあたえたようだ。

そのころの日本国の兵制は、その分国の住人が六十日程度の勤務を交代でくりかえす半農半兵だった。
しかしこの反乱を受け、陸奥国ではそれを令外(りょうげ・律令の外)という常備兵制に変えた。

そしてこの反乱の前、"征夷"の進展により、陸奥国の領域はすでに広大なものとなっていた。
日本国はそれを"征夷"の最前線と比較的治安が安定している地域とに三分割、それぞれに国司、そしてそれを統括する按察使(あぜち)を置いた。

しかし、この反乱では最初にその按察使が殺害された。
それにより情報や命令の伝達など指揮系統に混乱が生じ、当初、この反乱への対応が後手後手になった。
 
その反省をふまえ、反乱鎮圧後、日本国は陸奥国を再統合。
按察使というクッションを取り除き、陸奥国司のもと統一迅速に事態に対応できるようにした。


(陸奥?按察使から陸奥国司に名前が変わっただけでは?という気はします。
地区責任者はいたでしょうから。
下に少し記しているように、権限からなにから抜本的組織改変が行われたのかもしれません・2013/11/14)
 
 
 
令外の兵は主に東国の兵士から選出され陸奥国に派遣、鎮兵とよばれた。
それを統括する任を主として創設されたのが鎮守府という令外官で、その長である鎮守将軍はほぼ按察使や陸奥守(国司?)が兼任した。
これにより中央からの征討使が将軍ではなく大使と呼称されるようになった。
 
そして再統合された陸奥国を統治するかなめの国府兼鎮守府としてつくられたのが多賀城だった。 


(今読み返すと、なにかと言葉を放り出していて、自分でもよくわからない点も多いです。
按察使?は僕も思います、もしかしたらこの後、また組織編成が変わったのかも。 
あと、征討使という官職がもともとは地方軍の司令官だった?
その実際、そしてその役割の変化などは、今わかりません・2013/11/14)



さて、720年に発生した大反乱の傷もようやく癒えた、ということでしょうか、東国の兵士で構成された鎮兵は746年に一度廃止された。
しかし757年に復活され、800年代初頭まで廃止されることはなかった。
ちなみに、これら東国の兵士は天皇のそばにも侍し、その武力への貴種の期待は信仰に近いものがあった。


美濃以東から幅広く徴兵されていた征夷軍はこれ以降鎮兵が主力となり、その動員は、相模、安房、上総、下総、常陸、上野、武蔵、下野、八カ国にほぼ固定された。
これらは相模の足柄坂、上野の碓氷坂より東として坂東と呼称された。
 
鎮兵も含め、これが源氏vs奥州藤原へと続く戦いのはじまりでしょうか?


(だらだらと書いていますが。
 
「その分国の住人が六十日程度の勤務を交代でくりかえす半農半兵」
これがその国の治安維持の為の常備兵ですね。
常備兵"制"ではなく、めんどくさい書き方してますけど。

で、"征夷"のときにはそれとは別に美濃以東から広く兵を動員していたと。
その征夷軍の将軍が征討使でしょうか?
 
で、反乱後、臨戦体制ということで、あくまで征夷の最前線に限り、その長に権力を集中、兵も平等な負担よりも精鋭に重点をおいたと。
それが廃止されたのは中央目線での王化の完成による、ですかね?・2013/11/14)



ところで、この反乱で捕虜となった蝦夷は、伊予や筑紫など各地に分散して送られた。
これは東北の蝦夷勢力の弱体化を意図したものと思われる。
 
しかし同時に、現地蝦夷の待遇改善など、そのような点での日本国の反省もみられた。
また蝦夷の人たちのなかでの疫病の流行もあったようだ。 
 
それらにより、この反乱の後は日本国による陸奥支配は順調に進み、目立った征夷が行われることはなかった。
 
「もうそんな世ではない」 

746年、百済王族の後裔である陸奥守百済王敬福はついに鎮兵を廃止した。



しかし様相は一変する。

757年、法相宗の高僧徳一の父親といわれる藤原仲麻呂が鎮兵を復活。
彼は自分の息子を按察使や鎮守将軍を兼任の陸奥守に任命、版図拡大の征夷を再開した。
 
その後の政権にもこの政策は受け継がれ、774年から811年まで、ついに三十八年戦争といわれる蝦夷と日本の血みどろの征夷戦がはじまる。


ところで、鎮兵が廃止された746年から復活した757年までの間に奥州でなにがあったか?
 
 
すめろぎの御世栄えむとあづまなるみちのく山にくがね花咲く 
 
 
749年、ないといわれていたわが国初の黄金が陸奥で産出されたと陸奥守百済王敬福から公式に報告。
まるでOILのような黄金利権の影が(笑)

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