Saturday, 16 November 2013

⑩とこよのくに

「仏教民俗学(本)」によると、古代、常世(とこよ)とは神道のテリトリーであり、海の彼方にある不老不死の国と考えられてきた。
かつ常世は常夜でもあり、死者の国でもあった。
 
彼岸は仏教的世界観で此岸(しがん)、煩悩?に対するアチラ側、悟りの岸、であったが、いつからか生のアチラ側、死の岸、ともなった。
そう、彼岸は日本で変質し、インドの仏教徒が思考した悟りの岸とは異なる意味をもった。
そこにはまた、神道と仏教の出会い以外に道教の影響もあっただろう。

 
浦島が助けた亀に連れられていった海の彼方の常世の国、竜宮。 
 
 
日本の記紀神話では、この竜宮には蓬莱山(とこよのくに)という字があてられていた。
彼岸も常世も生であり死であった。


古来、日本人は人が死ねば霊魂は山にのぼり浄められて祖霊になると信じていた。
(ここにひとつの区切りをいれるべきかも)
山中の地獄谷や賽の河原を抜け、山頂の極楽浄土へのぼっていくと信じていた。

例えば、仏を信じる者の臨終の場に、如来が極楽へと迎えに来てくれる場面をえがいた阿弥陀来迎図。
そのほとんどは(逆に)山の斜面を如来がおりてくるものだ。


浄土。

インド仏教が思考した浄土は果てなく遠い西方の地にある楽園というものだった。
これが仏教渡来以前から日本にある、死者の霊がのぼる場所であり神がおりてくる場所でもあるという山岳への信仰と結びつき、変容。
おそらく平安中期には身近な山の中にこそ浄土は存在するという観念を成立させた。


浄土平。
 
ここはどちらかといえば、山中の皆金色な紅葉の極楽浄土を抜け、山頂の賽の河原へのぼっていってしまう。
そんな気がします。
と思ったら、霊山は必ず浄土が原とか地獄谷とか賽の河原とかの地名をもつとか。
浄土平に地獄谷や賽の河原が地名としてあるかどうかはわかりませんが(地獄谷ぽいつばくろ谷なら)、なるほど。

かんがえてみたら別に荒涼とした場所が山頂というわけでもないし、一切経山てのはまだよくわかりませんが、たとえば、荒涼とした地獄を抜け、不老不死の楽園蓬莱山(とこよのくに)にたどり着く。

めでたしめでたし。

みたいな、でも、本当に、神道、仏教、道教、仲良くやってますね。



万葉集でも死者の霊魂は山やたかいところにおもむくということをうたう。
しかし残された"体"についての言及はない。
 
そこまで言っていいかわからないが(僕が・2013/11/15)、霊魂が離れたあとの体は当時の日本人にとってはもうただのものだったのかもしれない。
霊魂こそが重要だった。
 
納骨という習慣は十一、二世紀ごろから天皇や貴族が高野山に納骨するということからはじまり、それが庶民にひろがった。
これには高野聖が遺骨を高野山に納骨すれば浄土に往生できると説いたことが一役買っているだろう。


この納骨習慣というのが山中浄土と結びつき、やがて各地の霊山に納骨されるようになった。
その頃には、そうすることで山にのぼった霊魂が再び自らの体に出会えると信じられていた。
 
(山から天にのぼった、そう書いていいか、今わかりません・2013/11/16)
 
 
で、適当に書きますが、安倍貞任が一切経山に埋めたのは(伝説)、お経ではなく、自らの遺骨では。
あと、ともに戦い亡くなった多くの反乱兵士の遺骨とか。

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