Monday, 4 November 2013

存在することの危うさに最後の最後まで賭けるのだ



いうわけで



Ⅰ:井上靖著「後白河院」

「美」というものについて百万言ついやすより「美にあらざるもの」について百万言ついやしたほうが、より純粋に「美」というものを浮かび上がらせることができるのかもしれません。

が、なかなか難しいと。

最初に「美」と「美にあらざるもの」を正確に捉えなければいけないし、捉えたところで、表現したところで、それは見た目にはキャンバスを黒く塗りつぶしたトコにできた小さな小さな、ほんとに小さな、まるでビッグバン前の宇宙のような、塗り残しの白い点でしかなく、他者には気づいてもらえないかもしれない。
気づいても、単なる塗り残しと思われるかもしれない。

え~この「美」とは直接的な見た目の話ではないので、「美にあらざるもの」の中にこそ「美」は存在する、という価値の転倒はざっくり「美」に入れといてください。

と、まるで三島さんについてのような話ですが、これは井上靖さんの「後白河院」を読んでる途中経過の僕の個人的感想でした。


んで今先読み終わりました。

さて本稿での後白河院最後の証言者、九条兼実さんによる独白。
ここで九条さんにより、それまであまりにぼんやりとしてとらえどころの無い、まるで鵺のような存在の”後白河院”という王朝の黄昏期を生き抜いた(結果演出してしまった?)希代の政治家の人物像が、かなり明確に規定されています。すべての謎に答えがでています。「なるほどそうであったのか!」と僕が昭和のオッサンでしたら膝を打ちたいところです。

が、結局のところ、これもすべての謎に明確な答えが出ている感じが一見するだけで、それまでの証言者の人達と同じあくまで九条さんにとっての”後白河院”です。そう芥川龍之介さんの「藪の中」に黒澤さんが最後に答えを与え藪から出し「羅生門」としたのとはまったく別モンです。(「藪の中」の考え方、高橋克彦さんのエッセイからヒントをもらってます)

結局人の世はどこまでもとらえどころがなくあやふやなものかもしれないけど、だからこそ人は未来に希望を抱くことができるのかも。昔、布袋さんの本で読んだジャン・コクトーさんが言う『存在することの危うさに最後の最後まで賭ける』ことができるのかも。
もちろんそれは作者である井上さんの言葉なんだけど、作中で九条兼実さんがそうしたように"答えは自分で出せばいい”んだし。

でも「後白河院」を読んでない人には何が何やらな文章だね。




Ⅱ:キノコ

さて東宝特撮映画DVDコレクション第15号「マタンゴ」(昭和38年8月公開)ですよ。
とりあえず”買い”ですよ。これはおもろい。

若い男女、数人が乗ったヨットが遭難し不思議な無人島に漂着。
そして何か食料はないかと島をさまよい、辿り着いた反対側の海岸で朽ちた無人の船を発見。
この彼らより前に遭難したらしい、核実験の海洋汚染調査船らしい、そんな船の中でみた謎の巨大キノコとマタンゴの文字。
どうやらこのキノコには幻覚作用があり、しかも強い中毒性がある。
なによりこのキノコを食べ続けると自身が醜いキノコの化け物”マタンゴ”と化してしまう。

船の中で食料を発見したこともあり、最初は皆で協力してこの島からの脱出をはかるもことごとく上手くいかない。
そうこうしているうちに食料も底をつきはじめ、情欲も抑えがたく、徐々にお互いに対する疑心暗鬼が芽ばえ。
そして一人二人と禁断のキノコに手をのばし・・・みたいな。

で、このDVDジャケットにもなっている、当時の手書きのポスターをみると、付属ファイル内でも言及されていますが、マタンゴつうのは完全に”きのこ雲””原子雲”ですね。

もちろん直接的なつながりはまったくないですし、本当に失礼な連想かもしれませんが、僕は第五福竜丸の痛ましい事件が頭に浮びました。”マタンゴ”とは太平洋の核実験であり、雨季になると島中に生えてくる数え切れない、強い幻覚作用を持った中毒性のあるキノコはまさに”きのこ雲”、核兵器。

それと、漂着した彼らが島での住処とする難破した海洋汚染調査船。
いくら調べてもどこの船か国籍不明で、船内の部品は共産圏、自由圏、もちろん日本製も使われている。
劇中では「一種のスパイ船だろうね」と。

この船は”世界”ですね。結局そこに住むことになる漂着した男女は”人類”。
最初は皆協力して生き抜こうとするも、徐々に己の利己心を抑えきれず対立しエスカレート、そして強い快楽作用を持った、後から後から生えてくる禁断の核兵器に次々と手を出してしまう。

が、最後までそれに手を出す欲望を抑え続ける主人公(日本かな?)。
しかし、独りでその島を脱出後、自分もそれに手を出し、残った皆と同じ”マタンゴ”になり、恐怖の中の幻惑された平和を求めたほうが自分は幸せではなかったのかと苦悶する主人公。


そして・・・


みたいな。
発想としては安直でしょうが、観おわってすぐの僕の感想はこうなりました。
もちろん↑みたいな感想は鼻でフン!とはじき飛ばしてもらって、普通に観ても全然おもしろいです。
観た人それぞれがそれぞれの感想を持つだろう映画だと思います。機会がありましたら是非一度。

あと、やっぱり、いつ何時”熱戦”になってもおかしくない、そこにリアリティがある”冷戦”つうものは、核による平和は、当時の日本人の頭の上に重く覆いかぶさっていたんですかね。

う~ん、いろいろ脳で補完されて、僕の中でどんどん「三大怪獣 地球最大の決戦」(昭和39年12月公開)の「イデオロギーを超えて人はわかりあえる」というラストの到達点が高くなっていく...




Ⅲ:絶望は答えではない

僕が信頼する男性の方に、あくまで、今公開中で、しかも手軽に観れるの、という前提の上で「何かオススメの映画ない?」と聞いて教えてもらった「第九地区」、レイトショーで観てきました。

で観劇直後の感想です。


絶望は答えではない。

それはちょうど僕が「弦楽のためのアダージョが好き」に書いた、弦楽のためのアダージョが好きな理由、『汚泥にまみれた人の世の、深い絶望の底の底に、希望という小さな小さな松明が灯っている』と同じ感覚だと思います。(注:どこかにあるんですが、今この文章みつかりません・2013/11/03)

僕は映画のラスト近くまで、この映画はとことん人間のエゴを見せつける映画になるのかな?と思ってしまっていました。まあ、それは僕があまり映画を観なれていないからだと思います。(ほんとうに映画館でも、テレビでも、DVDでも、僕はたいして映画を観ないんです)

もしかしたら、これが日本やヨーロッパの映画だったらそんなオチもあるのかもしれませんが、これはハリウッド映画ですよね?そうだったら、そんなオチありえませんよね。
いや、でもいいラストだったと思います。

絶望は答えではない。




Ⅳ:残滓

東宝特撮映画DVDコレクション第16号「宇宙大戦争」(昭和34年12月公開)ですよ。

しかしこの映画はあれですかね?
もしかして国内向けと海外向けに2パターン編集で作られているんですかね?
何かいろんな人間関係がごった煮になってて、さすがに詰め込みすぎじゃないかな?とちょっと思っちゃったりもしちゃったんです。もちっと整理できたべと。

ただ、コチラ目線だけでなく、アチラ目線も存在するならわからん話ではないなと。
少なくとも存在する予定だったのならわからん話ではないなと。

まあそうでなくても、この頃の特撮映画(それ以外の映画は観てないんでわかりません)は自然に所謂”国際的”だな~と思いますが、これはたんに”占領”の残滓だったりもするんですかね。
だからその後、特撮映画から”国際的”さはどんどん薄れ、感覚として内向きに閉じていってる気もしますが、それは当然で、たんに日本社会から”占領・オキュパイドジャパン”の残り滓が消えていっただけだと(在日米軍の問題はここでもちだす話ではないですよ)。

あと画面の中の人口密度もなかなかどうしてでしたね。なにか演劇を観ている気もしました。

一人のスパイを無茶苦茶大勢の人で追いかけるシーンとか、ここは笑うトコなのだろうか、真剣にドキドキせねばならないトコなのだろうか、と、コチラの感性が試されるシーンも非常に多かった気もします。僕は笑いましたが。
これはあれですかね。この映画の公開当時はまだそんなに怪獣映画が作られているわけではないですが、”怪獣の襲撃から逃げ惑う大勢の人々”なシーンの変形版ですかね。逃げる→追いかけるで、お約束としてのエキストラさん大量投入みたいな。

と、ネガティブなことばかり書きましたが、実はこの映画の”映像”は好きです。非常に好きです。実写シーンも特撮シーンも好きです。実写の構図も好きです。いろんなデザインも好きです。センスも好きです。なんかもう好きです。





本編が終わった後に入っていた次回の「フランケンシュタイン対地底怪獣」(昭和40年8月公開)の予告篇ですよ。
いやいや、この作品の続編でもある「サンダ対ガイラ」(昭和41年7月公開)のサンダさんやガイラさんを初めて見た時もちょっと思ったけど、このフランケンシュタインさん、完全にただのオッサンじゃないですか。

『痩せた巨大な裸のオッサン大暴れの巻』じゃないですか。

やっぱり「ウルトラマン」はいきなり生まれたわけではないんですね。
いろいろな試行錯誤の結果、永遠のヒーローは誕生したんですね。

いやいやいや、いいですよ、嫌いじゃないですよ、これは楽しみですよ、攻めますね。好感がもてますよ。

それに目を無茶苦茶ほそ~お~くして見れば、このフランケンシュタインさん、Ziggy Stardust Tourの頃のDavid Bowieさんに見えないこともないような気がしないでもないような気がするような感じもしちゃう感じですからね。




Ⅴ:痩せた巨大な裸のオッサン大暴れの巻

「フランケンシュタイン対地底怪獣」(昭和40年8月8日公開)どすな。

付属のファイル(一応こっちが主でDVDは従つう建前なのかもしれませんが)には『西洋モンスターと怪獣を対決させた怪獣映画の野心作登場!!』と書いてありますが、たしかに野心作でした。
ただ、やっぱりこれはまだ怪獣映画に新しい流れを作る試行錯誤中の作品で、成功作とはとても言えないと思います。

でも、この映画の前作が前年12月公開の「三大怪獣 地球最大の決戦」ですか?
かなりしつこく言ってますが、やっぱり作り手の皆さんの中にも「地球最大の決戦」で「ゴジラ」(昭和29年公開)以来の怪獣映画の一連の流れに一応の決着をみたって意識があったのでしょうか?
だからこそ今までと違う新しい怪獣映画の可能性も模索してみようと。

ちなみに僕が今まで観た東宝特撮映画17作の中では、やっぱり「地球最大の決戦」のラストが一番好きです。
こないだ観に行った「第九地区」のラストにも実は相通じるものを個人的には感じました。
ま、前者でのキングギドラさんの役割を後者では人間がやってましたが。

あと、やっぱりこの作品の続編でもある「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」(昭和41年公開)でのサンダさんとガイラさんの見た目がある程度怪獣臭くなっているのは、やっぱりこの映画での反省があったんですかね?
偉い人から何か言われたとか?
「さすがにたんなる裸のオッサンでは絵的にまずいだろう」みたいな。

が、プレ・ウルトラマンとして、完全に人型?の巨人と怪獣の格闘シーンは興味深く観れました。
ウルトラマンのように、格闘シーンにある程度のパターンが出来ているわけではないので、そこにスマートさはなく、かなり泥臭いものではありましたが、そこがとても新鮮でいい感じでした。

それに、やっぱり、原爆投下前の広島市のミニチュアとか「ハッ」てしますよね。

ん?でも東宝特撮映画が”原爆”を強く意識させるのはもしかして本作までですかね?
新しい可能性の模索には、そこんとこも入っていたとか?




Ⅵ:窓の外は雨

スピーカのボリュームを凄~く絞って、James Taylorを聴く。
思えば昔は「わからんヤツ」と思われるのが怖くて、「これ、いいよね~」ということがままあった。
音楽、映画、小説・・・いろいろ。

今、自然にJames Taylorの優しい音に心をあずけられる。

「年とるのも悪くないかな?」と思えるこんな朝。

窓の外は荒れ気味だけど。

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