「天平の時代」によると。
聖武天皇は自分同様藤原氏系の皇子への皇位継承を望んでいた。(聖武天皇の母は藤原不比等の娘)
しかしいない。
藤原系の皇子誕生まではと娘の安部内親王を異例の女性皇太子にするほどだった。
(基本的に中継ぎとして、みたいですが、当時は女性天皇は珍しくはなかったようです。
"異例"というのは、後述のように、息子がいるのに、という意味ではないかと。
もちろんこの文章は要約しています・2013/11/18)
当時、朝廷の実権を握っていた藤原不比等の四人の息子があいついで天然痘で死亡。
橘諸兄(たちばなのもろえ)が大納言になり、新興の藤原氏の勢力は後退をよぎなくされていた。
そんな中、聖武天皇の唯一の皇子で、大伴家持や橘諸兄など反藤原勢力の期待を一身に集めていた安積(あさか)親王が急死した。
これは暗殺の可能性があった。
痛み分けのような形で聖武天皇は譲位、娘で藤原系の安部皇太子が孝謙天皇として即位。
そして元号を天平勝宝と改めた。
この即位の前年、橘諸兄らを支援する反藤原勢力の最大の大物、聖武の姉、元正太上天皇がなくなっていた。
(痛み分け、と書いていますが、我が子を亡くした聖武天皇の気持ちはもちろんわかりません。
マリーアントワネットに関する別の文章で同様なことを書きましたが。
「この権力闘争の中では、我が子たちが幸せになるにはこれが一番いいのだ。」
娘を皇太子にしたとき、そのような思いが聖武天皇にはあったかも・2013/11/18)
そしてこの孝謙天皇即位のとき、参議だった藤原仲麻呂は中納言を飛ばし大納言となった。
兄の豊成は右大臣に、そして藤原氏からあと二人あらたに参議となった。
藤原氏の巻き返しが開始された。
しかし同時に橘諸兄の子の奈良麻呂も参議となり、朝廷での両勢力の対立はいよいよ激しくなった。
749年、聖武太上天皇の皇太后である光明皇太后のために紫微中台(しびちゅうだい)という官司が新たに設置され、その長官に仲麻呂が就任した。
この官司は実際には皇太后のためというよりも、立場が不安定な孝謙天皇を支えるためのもので、藤原氏と関係深い中衛大将への就任とあわせ、仲麻呂は藤原氏のトップにたった。
(中衛大将は、簡単に言えば聖武天皇治世中の728年に発足した天皇近衛軍、中衛府300人の長官)
さて、この頃は大仏建立や東大寺の造営などがあり、表面上は平穏な日々が続く。
「我が主、橘諸兄が反逆を考えている」
しかし755年、聖武太上天皇が重い病におかされていた時、そのような密告が彼の従者からもたらされた。
「彼はそのような人物ではない。」
聖武太上天皇はその密告を信ぜず握りつぶした。
が、これにより左大臣橘諸兄は辞職に追い込まれ、失脚を狙ったこの密告は結局は成功だった。
さて、ちょっと話はかわりますが、連想したので。(2013/11/19)
唐の則天武后の治世の末期。
彼女が寵愛している若い美貌の兄弟がいた。
当然、彼らは非常な権力を持つことになった。
「なんだあいつらはいい気になって。ちょっとこらしめてやるか」
則天武后の甥や姪がそう不満をいった。
それを聞いた兄弟は彼女にそれを伝えた。
すると彼女は自分の甥や姪を殺してしまった。
このあと、この兄弟の自儘はますますひどくなった。
当然、多くの人達は彼らに媚びへつらった。
しかし、彼らを露骨に無視、軽蔑する人々もいた。
当時の朝廷の中心人物たちがそうだった。
「なんだあいつらはいい気になって。ちょっとこらしめてやるか」
兄弟は則天武后に彼らへの不満をのべた。
「彼らは私が見込んだ人物だ。お前たちは政治のことに口をだすな」
しかし彼女はそれを一切とりあわなかった。
この後、玄宗皇帝治世の初期、唐は空前の隆盛期を迎える。
その中心となったのが則天武后によって見出されたこの人たちだった。
そして、この兄弟は則天武后の死の直前にころされた。
彼らはその病床にはり付き続けていた。
みたいな。
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