この直後、朝廷を誹謗し臣として礼を失したとして、橘氏と共に反藤原氏の有力な一角である大伴氏の重鎮が逮捕された。
彼はすぐに釈放されるも土佐に左遷され、のちにそのまま流刑となる。
そしてこの逮捕、左遷を機に、大伴氏内部の急進派は反仲麻呂の陰謀に突き進むようになる。
聖武太上天皇は遺言で、自分の祖父草壁皇子の兄弟である新田部親王の子、道祖(ふなど)王を皇太子に指名した。
これにより、文武・聖武と続いてきた草壁皇子を租とする皇統の流れは自分の娘、孝謙天皇で止まることになる。
しかし自らと同じ、壬申の乱の勝利者である天武天皇の血脈から後継者を選んだ。
(聖武天皇の祖父、草壁皇子は天武天皇の第一王子、新田部親王は天武天皇の第七皇子だった。
そして聖武天皇は文武天皇の息子だが、文武天皇は若くしてなくなり、その時聖武天皇はまだ幼少だった。
そのため、草壁皇子の妃であり文武天皇の母である元明天皇、その娘(文武天皇の兄妹)元正天皇が短い期間ではあるが女性天皇として即位した・2013/11/18)
しかし道祖王はその行状が皇太子にふさわしくないと、すぐに皇太子の座を追われた。
そして仲麻呂の亡き長男の妻と結婚し、その時仲麻呂の邸宅に住んでいた、同じ天武系の大炊(おおい)王が新たに皇太子に選ばれた。
(大炊王は舎人親王の第七王子。
舎人親王は天武天皇の第三王子・2013/11/18)
翌757年、仲麻呂は大本営的?な新設の紫微内相に就任し、国家の軍事権を握った。
彼はこれらの権力を背景に反仲麻呂派の勢力を降格や地方に追い粛清した。
これに対し反仲麻呂派はクーデターを計画するも、意思の統一もなく事前に露見、自白や密告で次々と逮捕された。
中心人物であった大伴古麻呂は拷問で殺され、不明だが橘奈良麻呂も獄中で殺された可能性が高い。
そのすぐ後、実際には難波にとどまったものの、仲麻呂の兄の豊成が息子の逮捕に連座して九州に左遷され、仲麻呂は祖父不比等をこえる独裁権力を手に入れた。
彼はたとえ身内でも、自分の上となる存在をゆるさないようになっていた。
そしてこの頃、藤原や君子(天皇)の姓を久須波良や吉美候に改めさせ、天皇・皇后の名と共に鎌足や不比等の名の使用が禁止された。
(藤原や君子(天皇)の姓。
当時、庶民には姓はなかったと思いますが、自分達藤原一族以外の藤原氏という意味でしょうか?
君子というのは、吉美候から考えて、天皇の姓、ではなく、君子という字面が天皇を連想するから駄目だ、ということでしょうね・2013/11/19)
そして758年、孝謙天皇が譲位、大炊皇太子が即位、淳仁天皇となった。
そして仲麻呂は恵美押勝(えみおしかつ)という姓名と強大な経済力を得た。
この後、並ぶもののいない権力を握った仲麻呂は版図拡大の東北政策を再開。
760年、仲麻呂はついに祖父不比等も固辞し続けた太政大臣の地位につき、その権勢は絶頂に達した。
しかし同じ年、天皇家の支柱であった光明皇太后(聖武天皇の后)がなくなり、これにより孝謙太上天皇と淳仁天皇の不和がしだいに表面化、仲麻呂の権力に微妙な影が密かに差しはじめていた。
761年、東国に対する近畿周辺の重要軍事拠点でもある三関(三カ国の関所)を主とする按察使が置かれ、仲麻呂の次男と女婿が任命された。
この時、次男が就任していた大和守は三男にかわり、平城京を管轄する左京右京両大夫(たいふ)も左右京尹(きょういん)として統合し、これも三男が兼任、仲麻呂は近畿周辺を身内でかためた。
同じ年、融和の機会をつくろうと思ったのか、仲麻呂は藤原氏の勢力圏の近江に保良宮(ほらのみや)を急ぎ完成させ、孝謙太上天皇と淳仁天皇の二人を迎え入れた。
しかし翌762年、孝謙が自分の病を治した(と思った)道鏡を寵愛しはじめた影響もあり、二人は決定的に決裂した。
(太政大臣は律令の最高位で定員一名。
適任者がいなければ欠員でよかったそうです。
徳川幕府の大老のような感じかも。
で、次に、左大臣、右大臣、定員両一名、ときますが、立場としては左大臣が上だそうです。
で、基本的にはこの左大臣が最高位だったみたいです。
そして大納言、一応定員は4名ですが、これは時代によって多少の変遷がある。
その下に中納言、これの定員も一時期8名と定められたことはあるが、一定はしなかったと。
ちなみに大納言は左右両大臣不在の時にかわって政務を執り行うことができたが、中納言にはその権限はなかったとか。
で、この下に参議、これも定員は一応8名ですが、やはり一定はしなかったと。
もともとはここまでの人を公卿とよんだようです。
天皇に近侍したのは中納言以上みたいですが、よくわかりません。
参議は、すくなくとも最初は、国政の審議にのみ参加していたと・2013/11/19)
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