Thursday, 14 November 2013

⑧夷

「蝦夷と東北戦争」によるとですね、少なくとも古代の蝦夷(えみし)は特定の人々のことをいうのではなく、自らをそう呼んだわけでもなく、あくまでヤマト側からみて、広大な日本東北部に住む、まだ”王化”されていないさまざまな”化外の民”のことを、一括して”蝦夷”と呼んだと。


そしてヤマトの朝廷の貴族は、蝦夷を蔑視しながらも"一を以って千に当たる"といわれた戦闘力には畏敬の念をいだいていたのかもしれない。
蘇我蝦夷、小野毛人(えみし)、佐伯今毛人など、蝦夷(毛人)という名もそのためであろう。

またヤマトに服した蝦夷。
彼らは俘囚(ふしゅう)と呼ばれ、俘軍として組織された。


ところで「蝦夷と東北戦争」の著者の鈴木拓也さんは参考にした引用元を本文の中で随時表記されています。
しかし、ここでは"「蝦夷と東北戦争」によると"で一括させてください。
といいますか、他も全部そうですね、しかも基本的に俺の身勝手要約です。
 
くわしく、正確に、は、それら原書?たとえば鈴木拓也著「蝦夷と東北戦争」を読んでいただければ。


さて、"「蝦夷と東北戦争」によると"です。

奈良時代くらいから、本来の部族的"蝦夷"、個別に自分達の支配下にある"俘囚"。
そしてそれら"蝦夷"の総称として、"夷俘(いふ)"。
そのような呼び名の使い分けがあったのではないだろうか。
 
(この文章は自分でもちょっとわかりづらいです、もちろん要約しています。
「本来の部族的蝦夷」、これは「まだ王化されていない蝦夷」、そういう意味だとおもいます。
あと、これも正確な区分けとは言えないでしょうが、大化の改新以降の日本の表記は"日本"で統一します・2013/11/13)



また、大化の改新以降の”化外の地”への進出は内地からの移民による郡の設置・版図拡大が主で、征夷、軍事行動はあくまで副次的なものだった。
移民に対する蝦夷の”抵抗”が予想される場合や、移民後の治安確保のために征夷がおこなわれた。

もちろん平和裏に城柵や郡が置かれた例も多い。

城柵は基本的に防御の外郭をもった役所であり、常に兵士に守られていた。
城柵には国司が派遣され城司とよばれ、蝦夷を含んだその地方を統率した。

(ぐだぐだですが、この「蝦夷を含んだ」の蝦夷は俘囚を指す。
そう言い切っていいか今ちょっとわかりません・2013/11/13)

 
日本国によるフロンティアへの"入植"は順調にすすんだ。
719年には、特定の国の守をして周囲数カ国を管轄させる按察使(あぜち)という制度がつくられた。

しかし翌20年、陸奥国でこの按察使が殺害され、史上初の蝦夷の大反乱が起きた。
これは蝦夷を力で押さえつけようとする大規模移民政策にたいしての抵抗の意思表示だった。


夷を以って夷を撃つは古の上計なり、賊を持って賊を伐つは軍国の利なり


この反乱の鎮圧には国家側の蝦夷(同上)の武力ももちいられた。
ただし、単純に利用された、そういうわけではない。
この乱のあと、功があった蝦夷、その通訳も勲位を受けている。
 
当然、反乱後の蝦夷への慰撫という意味もあったろう、と、思います。

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