Monday, 18 November 2013

⑫鎮魂

「栄原永遠男・天平の時代」によると。
 
反乱を起こし敗れた藤原仲麻呂。
この反乱の後、彼の家族もみな処刑されたが、六男の薩雄のみが若いときから仏教修行をしてきたとの理由で許された。
 
もし徳一が仲麻呂の子ならこの薩雄ですか?
で、もし徳一が仲麻呂の子なら、会津にいたのは征夷と関係ないですかね?
その時期は仲麻呂が口火を切ったともいえる三十八年戦争真っ最中ですし。

この戦争におけるすべての犠牲者の鎮魂のために遠く会津に赴いたと。
あるいは一時は太政大臣と位人臣を極めた仲麻呂の子らしく必勝・国家鎮護とか。
 
ん?これは都で十分か?
 
でも、法相宗にそんな思想があるのか知りませんが、この時期彼が会津にいたのは、たとえ仲麻呂の子でないとしても、なんとなく、双方の犠牲者の鎮魂のためな気がします。



で、どうも徳一と仲麻呂の六男薩雄は別人みたいです。
まあもともと"よくわからない"つうくらいなんだからそりゃそうですね。
 
さて、前九年の役の主要人物の一人、安倍貞任。
考えてみたら彼は徳一より二百年ちかく後世の人なんですよね。
つまり貞任が一切経山にお経を埋めた(伝説)ときにはすでに恵日寺は磐梯山麓にその威容を誇っていたと。
徳一のころ、この山はなんと呼ばれていたんだろう?
 


ところで「街道をゆく」で、ですが。
 
奈良仏教のうち、とくに法相宗は悟りを三種類に区別していたそうです。

一番低いのが声聞(しょうもん)で自分本位の悟り。
次が縁覚(えんがく)でこれは孤高でありすぎる。
最後が菩薩で、自ら悟りをひらいたうえで利他的に他人を救済して悟りをひらかせたり利益をあたえたりする。


で、空海は徳一の疑問書の返信に徳一菩薩と書いていて、司馬さんは空海らしい政治感覚のリップサービスだろうと。
 
でも、もし薩雄が徳一のかつての名前としたら、薩って最初薩摩かと思いましたが、菩薩の薩ってないですかね?と、最初書こうとしました、書いていますが。
でも当時、薩雄の薩も正式には薩という漢字ではなかったみたいです。

菩薩の薩は当時薩で固定だったのかな?
 


「名山の日本史」によると。
 
徳一開創と伝えられる寺が関東・東北に七十以上あり、その中でも恵日寺は平安中期以降(貞任が生きた時代ですか)、磐梯山がみえる範囲の農村、会津四郡を寺領とし、寺僧三百人、僧兵数千人を数えたそうです。
もちろん徳一が建立した(伝説)ころはもっと素朴だったでしょうが。


ちなみに四世紀ごろヤマトの軍勢が侵略してきたときに周囲の”化外の民”が抵抗しこもったという筑波山。
ここにも桓武朝のころ徳一が建立したという中禅寺があったそうです。
 
得一建立伽藍諸国多、奥州石梯山建立清水寺、会津大寺是也
 
(清水寺が恵日寺でしょうか?これが何からの引用だったか、今わかりません・2013/11/17) 
 
 
蝦夷、鎮兵、坂東からの徴兵。
う~ん、鎮魂はともかく、征夷との関係はやっぱりあるような。
ある種、督戦的な(笑)。



わりといつの時代も、侵略では、暴力と宗教はセットだろう、と思います。
 
しかしもし徳一が仲麻呂の子供ならば(ならば)。
 
父の権力闘争の果ての家族皆殺しを経験した徳一が、もちろんその時代の精神からは逃れられないとはいえ、その変わり目の前の精神に属していた人とはいえ、人びとの”救い”を祈ってもなんら不思議はない気がします。



そういえば(当初かな?)征夷のとき、征討軍と鎮撫軍の両軍を派遣していたそうなんです。
 
もちろん実際に蝦夷を攻めるとこには征討軍。
そこを攻めることで周囲の蝦夷が動揺しないようにとそこには鎮撫軍。
 
 
で、「蝦夷と東北戦争」によると。
 
709年、陸奥越後の蝦夷の野心がおさまらず良民を害するため、たぶん本音は前年に新設された出羽郡の安定をはかるため、越後に征越後蝦夷将軍、陸奥に陸奥鎮東将軍を派遣したと。
 
征と鎮。
征が暴力なら鎮は宗教?
あ、鎮魂てありますけど、征魂てないですよね。

もちろんたとえ話です。
でも征魂て何か語感が"brainwashed" (洗脳)。
 
やっぱり宗教だ(笑)。

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