若き最澄は、法相宗や唯識宗など奈良の旧仏教は"教"ではなく"論"を中心とした破片ではないか?
そのような疑問をもっていた。
もっとも釈迦以降の仏教は膨大な破片群ともいえ、ときにそれら同士がぶつかり矛盾しあってる。
さらに旧仏教は解脱中心主義で、天才のみが悟りの域に達しうるという選別主義だった。
そして最澄はついに天台宗にいきつく。
万人が仏性(仏になりうる性質)をもつ
天台宗はそれら破片群を”救い”という思想で取捨選択して一大体系としたものだった。
この新仏教の出現は、奈良の仏教を一気に過去のものとした。
誰もが仏性をもつのなら、何を苦しんで修行をするか、当然、奈良の学僧の反発をうけた。
「空海の風景」によると
「最澄のいうことにも理がある。」
奈良の学僧も、ひそかにそう思うことがあったかもしれない。
だが彼らとしては、奈良仏教を見限っているという場所(のみ)で最澄と同じ立場にいる、独裁的性格が強い桓武帝の恩寵を武器に権力で自分達を押さえつける(と感じられる)最澄には態度を硬化せざるを得ない。
そしてここで悲喜劇がおこる。
実は桓武帝や朝廷の関心は天台の教えにはなかった。
それは最澄が、あくまでも(ついでとして)唐からその一部を持ち帰ったにすぎない、現世利益に験があるとうわさされていた密教に集中していた。
桓武帝は天台については何もふれず、密教をもたらしたがゆえに最澄を国師であるとし、奈良の長老たちに最澄から(洗礼のような?)灌頂を受けさせた。
また天台宗は奈良仏教と同じように国家が試験によって僧を得度させる枠を二人分得た。
その一人は天台課程、一人は(粗放なものでしかない)密教課程とした。
当然、最澄は権力を得るために時代の好奇に迎合した、と、奈良からはおもわれた。
そんな中、真言密教第八世法王空海が都にあらわれた。
が、それはまた別の話。
「街道をゆく」によると、です。
法相宗は時の権力者藤原冬嗣を立会人に最澄と論争をした。
最澄は弟子一人を連れて相手の陣地?にのりこみ、なみいる学僧を論破した。
宮中での各宗の学僧とも討論して勝ち、和気氏の立会いのもとの論戦にも勝った。
これは、やっぱり、頭の良し悪しよりも宗論の構造に無理があったのでは?
負けるべくして負けたと。
極端な例えですが、現在(現代も可)の常識(空気がいいかも)を互いに共有する中で、たとえIQ300の大天才だったとしても、天動説という立場を与えられて地動説をとなえる秀才と論争させられたらいかんともしがたいでしょうし、極端ですが。
で、奈良仏教が最後の切り札としたのが会津の徳一だった。
最澄と徳一の十二年におよぶ論争は文章でおこなわれた。
最澄は激しい論争を重ねてきたことにより、相手を自分の有利な場所に引き込む論争術に長じていた。
この論争はつねに最澄の優勢勝ちだった。
そしてこの勝ちがあったからこそ、日本仏教の中に衆生すべてが仏性をもつというプラティナを刻み入れたような伝統ができた。
で、「街道をゆく」の中で司馬遼太郎さんも。
"徳一について藤原仲麻呂の子といわれるがよくわからない、最澄の文章から弱冠(二十歳)で都をさったことだけはわかっている。"
"奈良から平安に移り変わる時期に、まだ夷(ひな)の気分を残す会津に日本最高の法相学者がいたという不思議さを誰も十分には説明できない。"
No comments:
Post a Comment