王朝時代末期、極楽疑わしくば宇治の平等院を敬え、と当時の人はいっていたそうなんです。
平等院こそ此土(しど)浄土、この世の浄土であると。
で、奥州藤原氏の本拠地平泉の無量光院はこの平等院を模して建てられている。(現存せず)
平泉文化は都の此土浄土をみちのくに再現した。
そして奥州は当時唯一と言っていい金の産地であり、実質的奥州支配を確立した藤原氏はそれを自由に使うことができた。
だから平泉の諸堂塔はすべて金色に輝いていた。
それは都にもないものだった。
それらは自らの富を誇示するというよりも(それもあったんでしょうが)、この時代に流行した浄土教文化の”皆金色”、黄金でこの世に浄土を再現するという意図で建立されたものだった。
"この世はすでに末法(まっぽう)の時代に入った"
末法。
釈迦入滅からあまりにも時が経過し、もう正しい教えが行われなくなった時代。
自然災害、戦乱、疫病、この世が禍に覆いつくされる時代。
最初は都の貴族だった。
この時代、平安末期、変革の時代、彼らはそのような考え、不安におそわれていた。
そう、この時代は来るべき変革がその姿をあらわしてきた時代だった。
しかしそれはまだはっきりとしたかたちに定まっていない。
この考えは貴族以外の人たちにも急速にひろまった。
そして、人々は魂の平安をもとめはじめる。
"こんな世はいやだ。釈迦や仏が住むという浄土、皆金色、そのすべてが黄金色に輝いているという浄土、すべての苦悩から解放されるという浄土、私はそこに往生(生まれ変わり)したい"
で、清衡以下の奥州藤原三代がミイラとして平泉の金色堂に葬られているのも、此土浄土、浄土をこの世に再現するという思想からくると。
法華経の功徳で此土浄土が実現したとき、ミイラとして眠っている自身が浄土に、したがってこの地上に、仏として生まれ変わると。
そういうことですかね?
そうなると平泉は浄土を現世に呼び寄せる呼び水として建設されたのかな?
ちなみにこの文章は高橋富雄さんの「奥州藤原氏」を参考にして書いています。
その中の一文で
「藤原氏は(略)地上極楽の実現を待つべく入定相に肉体をとどめ、永生を続けておいでなのである。あるいは(略)往生を終えた入定相にかくおわすのであるかもしれない」
高橋さんはこのように書かれています。
正直、その言葉の意味が難しくてよくわからないトコもありますが、高橋さんのこの表現のしかた、いいですよね。
で、話が一転、というか、ここに結び付けたかったわけですが。
"随分荒涼としているところじゃないか"
と僕がおもった浄土平なんですけどね。
ほら紅葉て、そりゃ紅もありますが、やっぱり黄金色じゃないですか。
ほんとうに秋には紅葉がきれいなところらしいんですよ、浄土平、磐梯吾妻スカイラインは。
たぶん"皆金色""此土浄土"て感じで。
それと浄土平の蓬莱山。
蓬莱山は徐福が不老不死の薬をもとめて旅立った目的地。
不老不死。
此土浄土、現世の浄土。
思想的に無関係かな?
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