「平泉の世紀」によると。
伝承とされているものの、「日本書紀」に七世紀半ば越国守安倍比羅夫が二百隻近い艦隊を率い日本海を北上、行く先々に郡を建て渡嶋(北海道)の蝦夷郡に及んだとの記述がある。
しかしこの安倍比羅夫は三年後の白村江の艦隊司令官で、おそらくこの艦隊がそうであり、これはその軍事演習であるとも考えられるそうです。
で、これは「天平の時代」によると。
実行はされなかったものの、唐の安史の乱のとき藤原仲麻呂は渤海国とともに新羅を挟撃する計画を立てている。
そしてその派遣将軍の中に敬福の名がみえる。
百済王氏が陸奥鎮守府将軍として活躍というのは、敬福いらいの慣例もあったのかもしれませんが、対新羅戦の軍事演習てとこも少しはありましたかね。
660年の百済滅亡後、百済王国重臣鬼室腹信(きしつふくしん)は日本に亡命。
そして日本にいた百済王義慈王の二王子のうち宝璋王を立てて国家回復をはかるも、のちに仲たがい?して彼は宝璋王に殺される。
そして宝璋王も白村江での大敗で唐の捕虜となり百済復興の夢は潰える。
このとき日本にいたもう一人の王子、禅広王の孫の敬福には強い思いがあっても。
白村江の敗北と、同時期高句麗が滅んだことにより、特に百済から王族から庶民にいたるまであらゆる人たちが日本に渡来した。
そして日本は唐・新羅連合軍の来襲をおそれ国防を強化、それにともない国家権力も強化。
同時に唐や没交渉に近かった新羅との文化交流にも積極的に乗り出す。
な流れでしょうか?
ちなみに唐との交流は白村江の敗戦の後、天智天皇の十年間がもっともさかんで、唐から六回、日本からは三回使節が使わされている。
新羅とも天智以降三代のあいだに、それ以前には皆無に近かった僧の往来が増えた。
この時代の小金銅仏や北九州での発掘された新羅瓦をもつ寺院、京都妙心寺の梵鐘などにその交流が今もうかがえるそうです。
さて、そして遣唐使の時代が本格的にはじまります。
遣唐使は絁(あしぎぬ)や綿、布などを、その身分によって規定の数量入唐費用として支給されたそうです。
入唐費用ですから、この支給品は旅装の品ではなく、(唐での生活費ということですかね?)唐土での私的交易のための対価だろうと。
で、同じ理由で各々私物を持ち込んだであろうが、船の積載量には限界があるためその量は制限されたであろうとのことです。
「空海の風景」に。
空海の時ではないが、第九次遣唐使は唐から絹を二十五疋と時服を毎年支給されていた。
しかしこれだけではとても食べていけない、というような記述がありました。
で、話をもどして、これとは別に唐滞在中のいろいろな謝礼、唐土内の旅行の費用などのための"土産"として砂金や日本産の貨物があったそうです。
あ、また読み間違い。
土産品の意味で"土物"でした。
で、この土物というのがこれまた身分によって各々支給されたのか(俺には)よくわかりませんが、土物として普遍的なのは砂金で、遣唐使は中国の市中で砂金を銅銭に交換したそうです。
その砂金は大宰府に貯蔵されていて、砂金と綿は重さの割に高価で船荷に適していたと。
が、最後の遣唐使(838)のとき、長安での外国人の交易は禁じられ、錦や絹、金なども禁制品になっていた。
大使一行は長安で私的交易ができなかったため、楚州までくると残りの人員がいた揚州に人を遣わしまとめて売買しようとした。
しかしそこでも勅断の品を買った、売ったとしてひと騒動がおこったそうです。
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