で、大仏にも山口県産?の銅が使用されていることは確実である。
つまり、かれらは銅鉱山開発の技術者集団ではなかったかと。
ならば百済系の百済王(くだらのこきし)氏、奥州で金を発見した陸奥守敬福の出身氏族である、が金産出の技術者集団ではなかったのか?てのは無理?
「帰化人と古代国家」を読むと。
鋳造は新羅・加羅方面から渡来したらしい秦(はた)氏と新羅人によって、その技術が日本に伝えられたといわれているそうです。
ただ、彼らは主に銅を加工し、鉄の鍛造は五世紀末に渡来した百済系の人たちによって行われていたみたいです。
ちなみに新羅人が新羅から渡来したのは当然ですが、秦の始皇帝の末裔と称した秦氏が新羅・加羅方面から渡来したと考えられるのは、中国の「北史」や「梁書」などに、新羅について"ここは秦人が住むところだから、わが国と言語風俗が似ている"という記述がある。
そして、それより以前の「魏志」にも"新羅の言葉はとなりの百済にではなく秦人に似ている"とあると。
そして、もちろん日本国内で、秦氏がいた地域と新羅系瓦の分布がかさなるそうです。
(中国の史書に出てくる秦人とは、もちろん、ではないかもしれないけど、中国最初の帝国を作った秦国に住んでいた人たちの末裔のことでしょう。
で、"加羅"をさくっと流してますが、加羅も羅がついてるから近い地域なのかな?みたいな。
今、よくわかりません・2013/11/23)
これは天平の世から少し時代が下り、七世紀はじめのことです。
「隋書」の中に隋の使節の渡航の経路として、"壱岐、対馬、竹斯(筑紫)、秦王国、十余国、海岸(難波)"と書かれていて、この秦王国とは周防国の同名異字であろう。
そしてこの史書の記事では、その秦王国に住んでいる人たちのことを"自分達と同じだ"と書いていて、これは「隋書新羅伝」の表現と重なると。
(と、書いていますが、現在、これが正しいかどうか自分で確認できません・2013/11/23)
ところで百済王氏。
この氏族は、上記の五世紀末に渡来したという百済系の人たちではない。
663年の百済滅亡時、日本にいた最後の百済王義慈王の二王子のうちの一人、禅広王が持統天皇に百済王の姓を賜ったことによる、そうです。
桓武帝など天皇家とのつながりも深く、敬福以外にもこの氏族からは陸奥鎮守府将軍としての活躍が目立つそうです。
今、「帰化人と古代国家」を抜き出しつつ読んでいます。
それによると、日本と朝鮮が”同源同祖”ということはない。
その理由はさまざまだろうけど、鮮烈な異文化を保持した人たちが自らの意思で日本に来て、新しい文化を日本にもたらした。
日本王権もそれを積極的に受容した。
そして長い年月をかけて、彼ら帰化人は私達日本人の祖先そのものになった。
なぜ渡来人と言わず帰化人と言うのかや、このあたりに関しましては詳しくは平野邦雄「帰化人と古代国家」を読んでいただければ。
で、"あ、そうか"と思ったのは、向こうから人がくるだけではなく、日本(倭)から百済などへの帰化も普通にあったわけですね。
倭人で百済の官位をもつ人も多いそうです。
で、七世紀末、隋や唐帝国の出現、新羅の統一、日本も古代国家を形成という段階に入り、安定した政府と外交関係を背景に、その交流は人々の移動・移住から外交使節団の往来に変わったのだろうと。
ただ、俺の読み間違い、要約するときの意味のとり違えなど普通にありえるので、くどいですが正確には原書を。
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