Saturday, 23 November 2013

袋小路はすきですか?

僕はすきです
 
わくわくします
 




いうわけで



Ⅰ:十三夜

僕は自分が散歩する場所として、ゴチャゴチャ・グチャグチャした町並みが決して嫌いではありません。つうか大好きです。
散歩好きかつ迷い好きな僕は、迷路のような狭い道幅の町並みを発見すると、ジャングルの洞窟奥深くに潜む謎の巨大オオトカゲに挑む川口探検隊のような気分で、思わずフラフラっと入っていってしまいます。

で、さらに細い路地に入り込み、あれ?行き止まり?あれ?私有地?あれ?こんなトコ通った?などを何度か繰り返した結果、念願の「あれ?ここはドコだ?」ということになります。
困ったことにそっからが楽しいんですよねぇ。日暮れ時だったりすると特に。


ところで都内にも今だ残るゴチャゴチャした町並み。ある種混沌とした町並み。
ああいった町並みってのは戦災も免れたってことなんですかね?
空襲に遭う事も無く戦前の古い区画がそのまま残っているってことなのかな?

必ずしもそうでもないか?
戦後ある程度までは車の絶対数が少なかったろうから、復興ももとの狭い道幅のままで行われた場所も多いのかな?

あ、そういえば江東区京島近辺。
このへんは関東大震災でも東京大空襲でも焼け残ったと聞きました。
だから物凄く道も狭く、古い家も多く、ゴチャゴチャしてとても素敵な町です。
けっこう古い情報ですけど、最近は(当時)その辺の長屋に外国の方や若い芸術家の方達が越してきて住まわれてるって話がありました。

でも京島からちょっと離れた錦糸町や亀戸の東京大空襲での凄惨な戦禍を思うと、あの古い町並みは不思議な感じもします。

そこに運命の線引きはあったんでしょうか?

と、何時も軽々しくわかったようなことを書く自分が嫌だったりもするんですが、だからといってこの一文を消す勇気もないんです。


あれ?今夜は十三夜ですかね。




Ⅱ:水の都

夏目漱石さんの「硝子戸の中(うち)」って随筆集のエピソードの一つに、漱石さんがお兄さんから聞いた話として、漱石さんがまだ小さいころのお姉さん達の芝居観劇行があります。

当時の芝居小屋はみんな浅草の猿若町にあったそうです。←天保の改革の時、風俗取締りのため、市内各地の芝居小屋をここに集めたとか
名主の家柄だった漱石さんの家族が住んでいたのは江戸牛込馬場下横町。←高田馬場あたり

で、お姉さん達は朝早くには猿若町の芝居小屋に到着しようと、夜中のうちに起きて装いも艶やかに着飾り出発。
もちろん物騒だということで、常に下男の人が供について行ったそうです

さて、当時は電車も車もない時代です。
漱石さんは『電車も「俥(くるま)」もない時分』と書かれています。←人力車ですよね、時間はさらに転がりました

今、地図でざっと確認しても馬場下から浅草まで直線距離で7~8キロはあります。
こちとら、イイトコの箱入りお嬢様、どうやって行くのか?

まず彼女たちは神楽坂を抜け揚場に行き。←現在の飯田橋駅のあたりですかね
そこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗って、ゆっくりと御茶ノ水をぬけ柳橋へと漕がれて行ったそうです。←下男のお供は揚場まで


いえね、江戸の町はベネチアに負けず劣らずの水の都だったんだなぁ~て。
結構、人々の移動手段は江戸中を張り巡らせた水路を行く船だったと。

そういえば、あくまでフィクションの小説ではありますが「鬼平犯科帳」読んでるとそんな感じしますよね。

ちなみに漱石さんのお姉さんたちの観劇行。

夜半に(高田の)馬場下を出て、朝早くに浅草猿若町の芝居小屋に着き、幕間に贔屓の役者の楽屋を訪ねたりして一日を過ごし、また船に乗り大川から神田川へと漕ぎ出し、揚場まで向かえに出ていた下男と供に家に帰ってくるのはもう日を跨ぐころだったそうです。

(すでに傾きかけていたらしいですが)恵まれた家柄の人だからというエクスキューズはつくでしょうが、当時は随分ゆっくりとした時間が流れていたんですね。




Ⅲ:空

僕は子供の頃からおかしな空想癖がありましてね。

自分がいる場所やまわりの地形を見て、ここに篭城するとなるとどういう兵士の配置をすればいいか?とか延々と考えてしまうんです。
時代は三国志~戦国時代までっつう感じで。まあ1500年間くらいの幅ありますが。空間移動もなかなかですが。
あちら側は深い崖だから護りは堅いな、しかし油断はできない、あそこのトコには砦をつくって、街道を牽制しつつそちらへの配慮もさせる。問題は東側だな、なだらかな傾斜地でこれといった防御拠点になる場所がない。さてどうするか・・・みたいな。

特に学生時代、勉強についていけず、授業がもう何がなにやらわからず、しょうがないから窓の外を見つつ、延々とこんなことを考えていました。
だから僕の頭の中では学校のまわりは数々の戦いがあった激戦地です。

で、あるときその学校があるあたりには昔、本当に山城があったことを知るわけです。
まあ、わりとこういうケースはあるんですよね、(山)城跡に学校とか。
でも僕は阿呆ですからね、おお!俺の見る目は確かじゃないか!とさらに妄想に精進したわけです。




Ⅳ:ん~

九州生まれの僕だからかもしれませんが、「神田」と聞いて頭に浮ぶのはやっぱり神保町近辺。つうかそこが僕の中の「神田」、したがってJR神田駅に降り立ってもそこが「神田」だという実感はあまり湧きません。

ちなみにJR神田駅から僕の中の「神田」神保町までは直線距離で西に800メートルくらいですが、「神田」を訪れる時は大概地下鉄の神保町駅を使用するか、JRの水道橋駅からゆるゆると歩いて行きます。JR神田駅を使用することはまずありません。
そのことも僕の中でJR神田駅の存在を軽くし、そのイメージが「神田」と結びつかない要因なのかもしれません。

極端な話、僕の中では"水道橋駅の南"に「神田」のイメージが吸収されている気もします。


で、「神田」は現代の地名の神田だけでは捉え難いつうか。基本訪問者の余所者には皮膚感覚としては「神田」とは捉え難いトコもあるっつうか。ニコライ堂とかはやっぱり僕の中では「神田」つうより「御茶ノ水」だし。
もちろん、それもひっくるめて土地の人には「神田」なのかもしれないけど。
う~ん、これは「福岡」と「博多」の関係に近いのかなぁ。現代の地名を地図上で見てるだけでは永遠にわからない感覚というか。

でも、ニコライ堂は「御茶ノ水」だけど、そこから北へ聖橋を渡ってすぐの湯島聖堂のイメージは僕の中でも「神田」なんだよなぁ。
これは湯島聖堂のすぐ近くの神田明神の名前にひっぱられてなのかもしれませんが、実は僕の中では神田明神のイメージは何となく「上野」なんです。
ちなみにこれは、神田明神にはそちらから行く事が多いからではないかと。

ま、よくわかりまへんということで。


ちなみに(あくまで)僕の中でJR神田駅と「神田」の関係に近いものとしては、JR板橋駅と「板橋」があります。
新撰組局長近藤勇改め大久保大和さんが首をはねられた場所にある(といっていいでしょ?)JR板橋駅は確かに板橋ではありますが「板橋」か?と問われれば「ん~」となっちゃいます。




Ⅴ:不審者
 
まだ二十代のころ、浅草浅草寺の近くでバイトしてたころ。

深見千三郎さんやビートたけしさんがお住まいになってた浅草の「第二松倉荘」。
昼休みに一人でトボトボ歩いて訪ねていきました。
 
「浅草キッド」というたけしさんの浅草時代を書いた本にそこの住所がのってたので(新聞記事として)、たぶん、コンビニで買ったパンを食べながら、トボトボ歩いていきました。 
 
今みたいにネットが普及してる時代じゃないです。 
 
「たぶんここだろう、住所はここだし、建物のつくりが本の表現どおりだし」

で、しばらく、その前でボーとして、またトボトボ帰っていきました。




Ⅵ:あ

大滝詠一さんの「A LONG VACATION」の8,9曲目”恋するカレン”と”FUN×4”って続きものですよね。
カレンにふられた男目線の曲が”恋するカレン”
カレンとできちゃった男目線の曲が”FUN×4”

違うの?




おはよう。

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