もちろん自分たちの正史も自らはつくらず、いつか天命あらたまり自分達を滅ぼすことになる誰かさんに任せると。
完全記憶たよりなんでちょいと不正確ですが、自らの滅亡も予め織り込みずみって考え方、凄いことかも。
まあ完結した正史をつくろうとしたら終わらんことには、ですかね。
それに資料は基本その王朝が作成したものを使うんでしょうし。
蜀の官僚でもあった陳寿が(一度官を退いたみたいですが)晋の官僚として「三国志」を書いたように、王朝は滅んでも官僚は引き続き次王朝に仕えて連続性はそれなりにあったとか?
現実問題、上から下まで総とっかえしてたら動くもんも動かん気もしますし。
なにげに官僚の保身の一環としてそういうルールを自らつくったとか(笑)
前王朝と同じ轍を踏まないためにも前王朝を知り尽くした我々の知識が必要ですよと。
もっとも「晋書」はずっと後世の唐の時代、「宋史」も元の後半に成立ですが。
さて、話は天平の世にもどります。
同じ信仰を持つ人々や、その人々が持ち寄る財物や労働奉仕を当時知識(智職)といったそうです。
聖武天皇が河内国を訪れた時、そこに住む渡来系の人たちを中心とした知識で造立された智職寺や毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を拝して深く感銘。
"そうだ、国の知識を結集して大仏を造立しよう"
聖武天皇はそう思いたったそうです。
ちなみにこれは岸俊男編「古代国家と日本」を読みつつです。
仏教渡来以前の信仰を基層信仰(神祇信仰)というそうです。
で、708年に秩父郡より初めて銅が献上された時、"これはわが国の神々のおかげだ"と、主に中央の貴族のみなさんでしょうが、口々にそう言っていた風向きが変わるのは、仲麻呂登場の契機ともなった?藤原四兄弟も亡くなった737年の天然痘の大流行とか。
そのときの詔に、"病気がものすごく流行っているから神に祈りを奉げ続けているけど、いまだに何もしてくれない"と、日本の神々に対する不満が露骨に表明されているそうです。
ただ、「古代国家と日本」の訳文?では”神仏に祈り祭れども”となっています。
日本の神々のみに不満を言っていたわけではないみたいです。
ま、この頃はまだ神仏の神に苦情の伝え先のアクセントがあるということなのかな?
続く740年、九州で藤原広嗣の乱発生、で鎮圧。
この時、伊勢大神宮に戦勝の祈願と(鎮圧後)その感謝を奉幣し、同時に諸国に観世音菩薩像一体と観世音経十巻を書写させていると。
さらに鎮圧前、持節大将軍大野東人をして宇佐八幡宮に祈らせているそうです。
このあたりで神仏がいよいよ拮抗してきた感じですか?
で、よくよく読んでみたら、"宇佐八幡宮に祈らせて"ではなく、"宇佐八幡神に祈らせて"と書いてありました。
で、この八幡神への祈願が反乱鎮圧に結びついたという認識が国家にもあり、翌年、宇佐八幡宮に(仏教の)経典が奉納され三重塔が作られたんですと。
神と仏の習合がはじまりましたか?
で、749年、初めて黄金が献上された時。
聖武天皇は造立中の大仏に三宝(仏・法・僧)のおかげで黄金がみつかったと喜びを伝え、さらに自分は三宝のしもべで、仏教こそ国家守護の大本であるという考えをしめしたそうです。
で、この大仏造立から、日本の神々は仏を護り従う存在だという神仏習合思想が本格的に広がりはじめるそうです。
ところで、「仏教民俗学」によると。
明治四十年、大仏殿修理のために数ヶ所穴を掘ったところ、そこからさまざまな遺宝が出てきた。
そしてそれら宝に混じって歯と骨の断片が発見された。
聖武天皇は葬儀は盛大であったものの、どのように葬られたのか実はよくわかっていない。
しかしその歯と骨はすぐに行方知れずとなった。
そうです。
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