奥の細道、曇り空。
松尾芭蕉、曾良、白河の(故事としての)関を越え、阿武隈川を渡る。
左に会津根をあおぎ見つつ芭蕉の俳友等窮(とうきゅう)を訪ね須賀川に到着。
そこで"白河の関いかにこえつるや"と、等窮に問われ、一句。
風流の初やおくの田植うた
ん、会津根をあおぎ見つつって表現おかしいか?
二人がどんなコースを通ったのか今わからないけど、白河→須賀川で会津の山々だとそんなに近くはないよな。
ちなみにモトの文章は、"左に会津根高く、右に岩城、相馬、三春の庄"てな感じです。(奥の細道・山本健吉訳・解説)
"高く"だから、まあいいかな?
さて、二人は等窮の家を辞し、二本松より右にきれて黒塚の岩屋を見物したりしつつ、福島に一泊。
翌日、しのぶもぢ摺(ずり)の石をたずねて忍ぶの里を訪れ、一句。
早苗とる手もとや昔しのぶ擦
ちなみにこの句の最初の形は"五月乙女(さをとめ)にしかた望んしのぶ摺"、田植えをする女性を早乙女(五月乙女)というとか。
そうそう会津根高くといいますが、猪苗代盆地の海抜って500メートルこえているんですね。
つまり猪苗代湖は台上にあり、あそこがもう会津根か、それなら近いですね。
知らずにそこに立つととてもそんな実感はわきませんでしたが、調べて少しびっくりしました。
それじゃ猪苗代湖は山上湖と言ってもいいくらいですよね。
で、お隣の福島市で海抜60メートルくらいですか。
それだけで十分気候はちがいますよね。
ところで「日本の民話・福島篇(片平幸三編)」を読んでいると。
昔々、会津には磐梯山に腰掛けるような巨人の夫婦が住んでいた。
この夫婦は太陽の光をさえぎったり、猪苗代湖の水をふりとばしたり、散々悪さをし、会津の人たちを困らせていた。
ある日、貧しい身なりの旅の僧がやってきて、修法によりこの夫婦を壺の中に閉じ込め、磐梯山の頂上に埋めてしまった。
昔々、会津は何もない盆地だった。
ある日、貧しい身なりの旅の僧がやってきて、ある家の前で水を所望すると、その家の美女は"このへんは水不足だから"と、それを断った。
しばらくいくと、やや顔立ちのみにくい女が貴重な水を全部飲ませてくれた。
さて、次の日の朝、人々が起きてみると、盆地には一夜にして巨大な湖ができていた。
そして、断った美女の家は湖の中の孤島になって、水を全部飲ませてくれた女の家は湖のとても便利な場所になった。
そう、この貧しい身なりの旅の僧こそ、空海その人であった。
なんとなく西遊記な感じもしますし、なんとなくひどい(笑)気もしますが、以前書いた空海伝説のような昔話がいくつかのっていました。
やっぱり真言宗のひろがりとともに、このような伝説がひろく語られるようになったんですかね。
ちなみに最初の話は、空海とは(僕が読んだ本には)書いてありませんでした。
ところで芭蕉師匠。
平泉に行こうとして道に迷って石巻にいってしまったんですね。
思いがけず訪れた石巻の港の殷賑を極めたさまが奥の細道に描写されています。
で、その文中では平泉が"平和泉と心ざし"と表記されているんです。
平・和泉、なんでしょうけど、平和・泉な感じもいいですね。
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