Monday, 11 November 2013

なにかと勢いは大切です



いうわけで




Ⅰ:ワルキューレの騎行

芥川龍之介さんの「蜘蛛の糸」

話のスジは書かなくてもいいですよね。
僕はこの話を読む度に心に引っかかるトコがあります。
つうかお釈迦さんに問い質してみたいコトがあります。

お釈迦さん、あなた最後のオチ最初からわかってたでしょ?
わかってて天国の蓮の池深く、蜘蛛さんがたらした糸の先の先、地獄をのぞいていたでしょ?
それとも犍陀多さん(一応主人公)が後から後から登ってくる人たちを蹴落とそうとすることもなく、つつがなく地獄から亡者さん達が這い上がってきたら皆助けたんですか?
延々のぼってきますよ!
そんなもん、みんな逃げたいでしょ?
延々ですよ!

犍陀多さんが天国までのぼってきたら、「偉い!よく蹴落とさずに我慢した!感動した!」とそこでプッツンと糸切って、他の人たちは地獄へまっ逆さまですか?
そんな無慈悲な・・・

そう

「お釈迦さん、あなたドSでしょ!?」と思わずそう言いたくなります。



ただ、いくらなんちゃって仏教徒の僕とはいえ、そんなにお釈迦様にケチつけて大丈夫かい?とも思いますね。

しかし、この「蜘蛛の糸」、実はポール・ケーラスさんてアメリカの方の「カルマ」って作品が元ネタらしいから大丈夫。お釈迦様関係な~し。
ポール・ケーラスさんの「カルマ」→それを訳した鈴木大拙さんの「因果の小車」→芥川龍之介さんの「蜘蛛の糸」って流れみたいです。

・・・ん?ポール・ケーラスさんて東洋学者なの?なに?これ、やっぱりもともと仏教(東洋?)の思想をもとにしたお話なの?あれ?登場人物(か?)自体がほぼ一緒なの?お釈迦さまも登場?ん?


だがだ!


だいたい僕、「仏教(東洋?)」とかサクッと書いちゃったけど、ポール・ケーラスさんが「カルマ」を書いたのは19世紀後半?20世紀初頭?書かれた当時の西洋アカデミズムでの「東洋」の定義は?「東洋」の範囲は?もちろん今(現在)とは違うでしょ?そンな中でもいろいろ学者さんの中での対立軸はあったんでしょ?そもそもポール・ケーラスさん、ざっくりアメリカの東洋学者と書かれているけど原文(英語でしょ?)では東洋学者はどういう綴りなの?現在も東洋学者というものがアチラにあるのならその「東洋学者」と同じ綴りなの?当時としても「東洋」=「仏教」なわけもないよね?老荘思想などの混在も?もしや動物学者みたいなノリじゃないよね?それは穿ちすぎ?やっぱりポール・ケーラスさんの思考の重心は大陸にあったの?対露戦後?第一次大戦後?アーネスト・フェノロサさんのように、少なくとも一時期はその重心は日本にあったの?実際問題、「カルマ」が書かれた当時、アジアと日本の間に文化的「差異」はあったの?なかったの?あったならそれは「断絶」なの?「誤差」なの?そもそも今、僕思いっきり己の話の筋に都合良いように話を持っていってるんじゃないの?

え~と「カルマ」って言葉自体がサンスクリットの仏教用語?
綴りは違うけどスペイン語や英語にもあると?
でも語源はおんなじトコからでてるのかな?どうなのかな?

もしかしてこの「お話」(説話かな?)さらに原典があるんですかね?



人間、自分のあずかり知らぬトコでミソつけられるコトはよくある話ですが、ワーグナーさん、その死後にヒトラーさんに愛でられたのはやっぱりミソですかね?
ワーグナーさん的にもその思想に微妙な部分はあったみたいですが、だからこそなのかもしれませんが。
そこンとこは、当時の「神々の黄昏」的な(かどうかは知らんが)「ヨーロッパの落日」的な(かどうかも知らんが)社会的背景もいろいろ絡みあってるだろうし、これ以上話長くするのもなんなんで、はい、放り投げます。

ええ、もちろん僕のいいところですよ。




Ⅱ:蛾

以前、日本有数の通勤ラッシュ路線の沿線に住んでいたことがあります。
だから朝晩電車に乗ろうもんならもう戦いです、乗るのも乗ってるのも降りるのも。

あれはどうなんでしょ?
皆さん生活があるんだからもちろんしょうがないんだけど、もしちゃんとその路線利用者のここ何十年かの平均寿命調べたらエライことになるかも、だって移動式苦行の場ですからね、なんのカルマ落しやら、もちろん適当に書いてますが。

これから日本は人口減少期に入りますが、そうすると通勤ラッシュつうもんは無くなっていくんでしょうかね?
それとも今よりももっと都会に人が集中するようになって、田舎の過疎化がより深刻になるんですかね?
日本人は明かるい光がお好き?
蛾じゃねえんだからと明るいトコが大好きな僕が心の中で言っときます。

人口の減少と機械化による必要人員の削減などの科学技術の進歩がうまい具合にリンクすれば、新しい社会モデルを創出できるのかもしれないけど、それは難しい、昭和の漫画の中の夢ですよね。

もちろんネオナチみたいなのもいりませんが、この問題はこれから顕在化してくるんでしょうね。




Ⅲ:日本

そういえば昔、新宿駅に到着する間際、ぎゅうぎゅう詰めの電車の中で、後からサラリーマンのオジサン(たぶん50代)におもいっきりゲ○をぶっかけられた事がありました。
さすがに僕も怒髪天をつき(ゲ○まみれ)、新宿駅で降りて直ぐ「何してんだこの野郎!!」と怒鳴ろうかと思ったら(ゲ○まみれ)、「すいません」と謝ってこられたその方のあまりの顔色の悪さに(二日酔いとかでは絶対に無い)、「もぅ、気をつけてくださいよぅ」となってしまいました(ゲ○まみれ)。

でも大丈夫だったのかな?
その後「とりあえず病院に行かれたらどうですか?」と言わなかった自分を悔いたぐらいでしたから・・・

もちろん僕もその後大変だったんですよ。
新宿駅のトイレの手洗い場で後髪に思いっきりついたゲ○を落とし、クリーニング屋さんにゲ○まみれの服を持っていき。
ああ、もちろんその方は「受け取ってください」とお金を出されたんです。
でも、ほんとうにそのあまりの顔色の悪さに思わず「いいですよ」と言ってしまいました(やっぱりゲ○まみれ)。

大丈夫だったのかな?




Ⅳ:サバイバル

僕は何かについて興味を持った時、なるべく自分とは考え方が違う、反対の人が書いた物を読むようにしてます。
似たような考えの人の文章を読んでると「そうだ!その通り!」と非常に心地よく、だから僕が昭和のオッサンなら思わず膝でも打ちたくなりますが、段々虚しくなってきます。その人が書いた文章の内容が虚しいというわけではありません。

でも、単なる罵詈雑言、あげ足取り、電波は論外ですが、自分とは違う視点での考え方のほうが、色々気づかされ教えられることが多いのは事実です。もちろん「この反対意見は読む価値がある」と自分で選択するときに、どうしても自分の視点というフィルターは通さざるを得ませんが。

ま、つうても現実に何か目的をもって集団行動する時は、さすがに考えが真逆はつらいですよね。
うろおぼえだけど、軍隊とかの小部隊でも優秀な独立した個人の集合体よりも、普通の人たちが全員で足りないところをおぎない協力する関係であればあるほど、戦場での全員の生存の確率が高いというデーターがあるんじゃなかったかな?遭難とかのサバイバルでのデーターだったかな?

どうだったかな?




Ⅴ:it's a man's man's man's world

源義経は実は平泉では死んでいない!
平泉で死んだのは義経の身代わりで、本人は海を渡り蒼き狼チンギス・ハーンとなったのだ!

流石に今、この話をまともに受け取る人はいないでしょう。
では平泉で死んだのは義経の身代わりってトコまで一緒で、義経主従がExodusしたのは大陸ではなく蝦夷地って話なら?

ま、ありえなくはないですよね。
だいたい僕は義経さんがあはれ自害なさるトコなんか見ていないし。
義経は平泉で絶対に死んだんだ!とは僕にはとても言えません。

が、やっぱり義経さんは平泉で死んだと思います。平泉で死んでいて欲しいです(失礼な言い草ですが)。
もし首尾よく義経さんご一行が平泉から脱出できていたとしても「それだけ」です。歴史からは消えています。
もちろん生きているってだけで素晴らしいことです。もし僕が当時の義経さんの立場で平泉にいたら何が何でも逃げ出すことを考えたでしょう。最後まであきらめませんよ僕は!
でも義経さんは自身の天才で歴史を変えた男です(その天才が最終的に身を滅ぼすモトになったのですが)。

もちろん豊臣秀頼さんが燃え盛る大阪城を脱出し鹿児島で余生をまっとうしていてもいい。
西郷隆盛さんが政府軍による鹿児島城山の重包囲の中から脱出しロシアに渡っていてもいい。

でもやっぱり英雄には英雄にふさわしい「死処」があると思います。


時代の勝者によって書かれた「正史」が常に正しいわけではなく、時代の敗者や民衆の伝承などによる「稗史」の中にも真実があるというのは、まったくそのとうりだと思います。
とくに中世までの「正史」なんて時の権力者の思いのままだったでしょうし。

でもある程度、通説(「正史」ではない)と言われてる物を知った上で、異説を楽しんだほうがいいかな?と僕は思います。
通説ってのは研究者の方たちがいろんな議論を尽された(学閥とかもそりゃいろいろあるんでしょうけど)上で通説と呼ばれるモンになった訳で。
また通説自体、日々の研究で変化し続けたりしてますし、新たな新発見で一気にひっくり返ることもあるんでしょうが。


それに「騙されるな!気をつけろ!」って大声で叫んでる当人が山師、詐欺師ってこと世の中じゃ普通にありますからね。
これは別に歴史話に限ったことじゃないですが。





Ⅵ:ロケットパーンチ!と叫んでみたい気もありました

これは秘中の秘なんですけどね。
極秘、極まりないんですけどね。

僕は小さい頃、「ムー」を楽しく読んでいました。←知らない人は自分でしらべよう
なんなら今でも楽しく読めるかもしれません。いや読めるでしょう。読んではいませんが。

そうなんです。
僕は異説、奇説、怪奇現象、心霊現象、超能力・・・大好物だったんです。
僕もバビルの塔に住んで三つのしもべに命令したいトコだったんです。
「超能力少年」と呼ばれてみたいトコだったんです。

ところでこれは以前書いた文ですが『僕は何かについて興味を持った時、なるべく自分とは考え方が違う、反対の人が書いた物を読むようにしてます』なんです。

僕は世の摩訶不思議が大好物です。これは一生涯なおりません。
だからこそ、それらを半笑いで否定する「世の常識」「歴史の通説」をちゃんと知らねばならないのです!!
孫子にいう「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」 なのです!!

ま、それはさておき「世の常識」「歴史の通説」を知る努力をして損はないと思います。
「歴史の通説」なんて成立までにどれだけの知性が投入されたことやら。

だから「歴史の通説」なんて成立までにどれだけの学閥による諍いがあったか、学閥内部での権力闘争、政治があったかってトコは今回は見ない方向で。




Ⅶ:未来の夢

今(20091102)となってはちと古い話だけど、小学館の学習雑誌「小学五年生」「六年生」休刊へですか。
これは昨今の不況のあおりもあるんだろうけど、僕が子供の頃みたいにクラスのみんなが読んでる(定期購読だったかな?)みたいなそんな時代じゃもうないんですかね。

でも時代の流れとはいえ、そこで漫画描いてる漫画家さんはどうなるんだろう?
そういえば「あさりちゃん」ってまだやってるの?

と思いちょっとネットで調べたら「あさりちゃん」やってますな。
で、設定ではあさりちゃん小学4年生と・・・セーフか?


携帯にしろネットにしろ「あんなこといいな。できたらいいな」と子供の頃想像していた「未来の夢」はどんどん実現していってますよね。ふとした折に過去を振り返ると随分便利になったもんだと実感します。
でもそれらは今の子供達には生まれた時からある、あって当たり前のモンなんですよね。
僕が夢想した「未来の夢」を当たり前のものとして捉える世代に接すると少し不思議な気もします。

でもそれは一緒か?
僕が子供の頃にも、かつての子供達の中で同じような想いを持った人はいたのかな?
今の子供達が、かつての子供達になった時も、将来の子供達に対して同じ想いを持つのかな?
何時からだろう?そういう想いをかつての子供達が持つようになったのは。

ま、他人がどう想うかなんてそんなん僕にはわからんから、あくまで自分がということで。
もし江戸時代に僕が生きていたとして、子供達にそういう想いを持つかな?
たぶん持たんよな?
最初期なら太平の世を生きれる子供達を羨ましく、幕末なら先が見えない時代を生きねばならぬ子供達を哀しく想うことはあるかもしれんけど、これは全く別の話だし。

高度成長期以降かな?
明治維新以降かな?
何時以降なら僕はそんな想いを持つかな?

が、「未来の夢」といっても実現してしまうとただの現実。
自分がかつて夢見ていたことを忘れちゃうこともしばしば。

No comments:

Post a Comment