Wednesday, 6 November 2013

と、おもうんですけどね

Ⅰ:リスペクト

ずいぶん前の話ですが「トルストイは原文で読まないとその本当のよさはわからないよ」と言われた事があります。(注・訳文でも読んでおりませんが。「戦争と平和」のかなり早い段階で挫折しました。2013/11/03)

さてイビチャ・オシム著/長束恭行訳「日本人よ!」よりまたまた勝手に引用させていただいて

『私は「リスペクト」という言葉を多用している。日本語に訳せば、「尊重する」とか「尊敬する」という意味のようだが(略)私の言うリスペクトとは、「すべてを客観的に見通す」という意味である。すなわち、「客観的な価値を見極める」ということだ。』

・・・なるほど。

でも僕が使っている「リスペクト」はやっぱり「尊重する」とか「尊敬する」という意味ですね。
それに昔、身近でちょっとした感情的な揉め事(些細)があったときに外国の方が書いた英文のメールの内容がたしか「異なる人種間であっても、お互いを尊敬する心は大切で・・・」みたいな内容だったけど、確かRespectって単語使われてたし。ま、その原文を再現する能力は僕にはないんですけどね。

ただこのオシムさんの発言の前後も読んでみると、オシムさんが言われてるのは変な色眼鏡をかけず「客観的な価値を見極め」てこそ相手を「尊重」も「尊敬」もできるようになるのだということなのかな?結論は一緒だと。ただその言葉の"深度"が全然違うと。というか、やみくもな「尊重」や「尊敬」は本当に相手を”リスペクト”しているわけではない。それは・・・

おや?このまま日本人論に、というか怪しい方向に持っていけますな。
いやいや、危険危険、思いつきこじつけはよくない。我田引水はほどほどに。

で、ですね。

この本はたぶんオシムさんが話されるのを録音し、後で編集しつつ文章に起こしたものだと思うんですが、オシムさんは何語で話されたんでしょう?何ヶ国語か併用されたんでしょうかね?

『日本語に訳せば、「尊重する」とか「尊敬する」という意味のようだが・・・』

の「尊重」「尊敬」にはオシムさんは何の言語のどんな単語をどのような表現で使われたのでしょう?
当たり前ですが「Respect」という単語は使われてないでしょうし。

そこらヘンをオシムさんが実際に話された言葉で読むこと(聴くこと)ができれば、オシムさんが本当に言いたいことと受け手の僕等が読んで感じる事の誤差(その幅は人それぞれでしょうし、誤差がなくなることはないでしょう)が少なくなる気がしないでもないです。

もちろんオシムさんの話はあくまで「たとえば」で、翻訳者の方の仕事にケチをつける気はないです。

多様な民族の歴史・文化の違いによる言語での感情の表現の仕方の相違などもふまえての、日本語への翻訳というお仕事には敬意を持っています。

それに翻訳者の方がいないと現状日本はすぐに書物的というか情報の孤島になってしまいますしね。
すくなくとも僕はね。

とりあえず”I'll stand by you”を”私はあなたを支持します”と訳しているようじゃネット翻訳もまだまだですよ。
そこは”俺はずっとおまえのそばにいる”と情熱的に訳しなさい。←現実問題、こう訳せるのかね?ええ雰囲気で書いてます




Ⅱ:長崎の鐘

永井隆さんがお書きになった「長崎の鐘」を読む。
これは、医学博士でカトリック教徒だった永井隆さんの長崎での被爆体験記録です。
この著作のなかで永井さんは、神への信仰、他者への愛を基調としながらも、医学博士らしく(かな?)被爆前後のいろんな事実、思いをストレートに書かれています。
それは21世紀の今、時空を超えて永井さんの魂と向き合うこちらが少し戸惑うほど。

しかし正直うれしさもあります。
文章を読むよろこびかもしれません。

それは誤解を恐れずにいえば、僕の中にぼんやりとあった、変に神格化された永井隆さんじゃなく、僕等と同じ"人間永井隆さん"にお会いでき、会話を交わすことができたよろこびです。

でもやっぱり、ゆるぎない神への信仰があるからこそ、いろいろな思いを赤裸々に書けるものなのかな?
それとも単に当時の日本人(永井さん従軍経験もあるし)の気概なのかな?
そこはクリスマスもOK、元旦はやっぱり神社でしょ?な、なんちゃって仏教徒の僕にはとても推し量ることはできませんが・・・

よろしかったら皆さんも一度読んでみて下さい。図書館とかで普通に借りれると思うので。
頃も良し。読書の秋ですし。

もちろん想像力の翼をはばたかせた創作を読む楽しみも読書にはあると思います。
でも現実にはもう会う事がかなわない、僕達と同じように悩み、苦しみ多き人生を生き抜いた、そんな過去の人達の魂にお会いすることができるというよろこびも読書にはあると思うんです。


でもホントにちょっと読んだだけでも興味深いんです。


被爆直後、何が起こったのかわからず

「太陽が爆発したのではないか?」
「そういえば急に気温がさがったみたいだ」
「太陽が爆発したら世界はどうなるのか?」
「それで昼飯はどうする?」
「死なぬうちにわけてくおうや」
「ああ、太陽は大丈夫だったんだ」
「しかし昼飯はわけてくれよ」
「どこに爆弾落ちたんだろう?これだけ壊すにはこの部屋に命中してなければいけないが穴もあいていない」


長崎に落ちた爆弾が原子爆弾とわかり同僚の先生達と

「だれが完成させたのだろう。コンプトン?ローレンス?」
「アインシュタインも大きな役割を持っているにちがいない」
「米国の科学陣の勉強ぶりも想像されるが、たくさんの犠牲者が出ているにちがいない」
「犠牲者なくして科学の進歩はないさ」
「とにかく偉大な発明だねえ、この原子爆弾は」


日本の敗戦。患者さんから診て欲しいと迎えがきても

「国敗れて何の患者ぞや。今日は一億が泣いているのだ。一人や二人の患者の生死が問題になるものか。そんな患者を助けたところで、今さら日本が立ち上がるものじゃなし。断れ」


しかし、その使いの人が力なく帰っていく後姿をみて

「一人の尊い生命をこそ助けねばならぬ。国は敗れた。しかし傷者は生きている。戦争はすんだ。日本は滅んだ。しかし医学は存在している。私たちの仕事はこれからではないか」
「日本が個人の生命をあまりに簡単に粗末に取り扱ったから、こんなみじめな目にあったのではないか」
「個人の生命を尊重し、ここに私の立場をつくる一つの礎石があるのではあるまいか?」





Ⅲ:宇宙

僕の人生を新聞記事風に文章にすると、纏めて二行?頑張って三行?水増しして四行?
ざっくり無駄を切られて、結果一行?

う~ん、やっぱりそんなもんか?

でもその一行の中には、ビッグバン前の宇宙のように僕の人生がぎゅうぎゅうに詰まっているんだぞ!!
心して読むのだぞ!!
行間を読んで”ドガン”とビッグバンを起こし、ちっちゃいちっちゃい一行を果てしの無い、無限に広がる大宇宙に脳内変換して読むのだぞ!!
頼むのだぞ!!

ん?一行には行間は無い?

いえね。もちろんそんな文章は無いんですけどね。
ただ、さほど有名でない歴史上の人物だったり、無名の市井の人であったり、そんな人の生涯は記録としてもかなりコンパクトに書かれてたりしますが(それが当たり前でもありますが)、そんな文章ひとつひとつの中にもし入り込めるとしたら、それぞれに凄い宇宙が広がってるんだよなぁと思ったりしてね。

物凄く形式的に書かれた少ない文字数の中に果てしのない宇宙がある。

でも、この人達の思いは今どこで何してるんだろう?
ゆっくり休めているのかな?
過ぎた人達とはいえ、こそ、不用意に無責任に他人の思いに触るのは、その人たちの眠りを妨げることになるのかな?




Ⅳ:神在月

神無月・・・もともとは旧暦の十月の異称
October・・・もともとはラテン語でNo.8

どちらもずれててまあ大変
山や川や谷やそこらにお住まいの八百万の神様達の中にもうっかり者はいないかい?

さて台風きてますね。
どうですかね?もうそろそろラストオーダーでいいんじゃないですかね?

豊葦原端穂国の山も森も、そこにお住まいの八百万の神様達もそろそろ「もう飲めましぇ~ん」て感じじゃないの。
もうこの列島の豊かな自然をキープするには十分な水をお腹の中に溜め込んだんじゃない?
まだ飲み足りない?

それに出雲大社では神在月のお祭りは旧暦でやってるんでしょ?
だからこれは私見ですが、今月、十月が新暦で神無月だからといっても八百万の神様達はご自身のお住まいにちゃんといらっしゃるんじゃないかな。
そりゃ中にはうっかり者や新し物好きの変わり者の神さんいらっしゃるかもしれませんがね。
なにせこの国の神さん(こう呼びたい身近さです)は、いたる所、山、川、森、林、なんなら何気ない辻にも沼や淵にもいらっしゃったりするみたいですからね。

もちろん、うっかり八兵衛もコンドルのジョーも悪くないですよ。
が、ほとんどの神さんは地元にいらっしゃるでしょう。
ほら、昔の人?は頑固だから。

だから十月に結婚される方がいて、今月が神無月だからと言っても、神さんたちはちゃんと居て、結婚されるお二人を祝福されてると思います。
都会よりも自然豊かな場所の方が神さん達も大勢いて、沢山の祝福があると思います。




Ⅴ:さよなら大好きな人

ベルリンの壁が壊れて 冷戦が終わって
電脳世界は大発達 時代はグローバル、ボーダーレスときたもんだ

嘘つけ 壁は「在る」じゃないか 
見えなくなった分だけタチ悪いわ

は、どうでもよく

僕が尊敬する人の話。

この人は来日12年目のとある外国のお人。
来日当初は日本語全くできず、馬鹿にされ、差別され、区別され、それでも必死に独学で日本語を習得し、僕と知り合った頃にはもう日常会話は全然OK。箸も器用に使いこなし、納豆も大好き。「本当にガイジン?」と冗談を言うほど。

とは言ってもやはり独学。不備は彼方此方。話が可笑しなすれ違いになることもしばしば。

このお人、何故か花*花の"さよなら大好きな人"が大好き。
CDを聴きながら大声を出して歌う。
コレがまた怪しい日本語で「俺がカラオケで外国の曲歌う時もこんな感じなんだろうなぁ」と妙な感慨を持たされる。何だか恥ずかしく、面映い。

「もう、やめてよ。聴いてて変だよ。日本語になってないよ」

堪らずそう言っても、歌うのを止めてくれない。

「ボクさ、いつか自分の国へ帰ったあとにさ、この歌聴いたら泣いちゃうよ。絶対に泣いちゃうよ」

僕と二人きりのとき「日本人が嫌いだった」と言った人が、そういって歌うのを止めてくれない。




Ⅵ:君の名は

月と地球

四十五億五千万年の秘めた恋でいいではないか

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