Tuesday, 12 November 2013

⑥そういえば、猪苗代から郡山に向かう時、山道をけっこうくだったような

僕が読んでいる奥の細道の解説を書いている山本さんは、昭和十八年刊行の雑誌の中で、曾良に止められて実行はしなかったものの。

"蝦夷が千島の見ゆるあたりまでも"

そう芭蕉が蝦夷地に思いをはせたのは、義経伝説の「御曹司島わたり」の跡をたどってみたいという思いがあったのかもしれない、とお書きになってますね。

そしてこれは山本さんが昭和五十年代にお書きになった文章かな?

柳田国男さんの「東北文学の研究」によると、東北地方を歩いた念仏聖をかいして、義経伝説が深く、具体的造形を持って庶民の中に浸透し、そして「義経記」がうまれた。

と、お書きになられています。 
では、たぶん日本中にあるだろう空海伝説も、やっぱり念仏聖な高野聖をかいしてですかね?



さて、芭蕉曾良の旅の空です。

芭蕉一行も福島をたち、鯖野という場所で、義経の太刀や弁慶の笈(おい)を宝物とする寺で茶を乞い、一句。

笈も太刀も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)

ま、そうはいっても、これは奥の細道ではよくあることみたいですが、二人は義経所縁の石碑を参っただけで実際は宝物を見ていず、句も後につくったもので、最初の句は、"弁慶が笈をもかざれ紙幟"だったそうです。



で、また「福島の昔話」を読みつつ。
 
昔々、信夫郡(伊達の辺り?)平沢村に炭焼藤太という男が住んでいた。
ある日、藤太は買い物に行ったが、その途中にある池の鴨にお金を投げつけ、そして何も買わないで帰ってきた。
京から来た妻がびっくりすると、藤太はこういった。

「裏山をほると金なんかいくらでもでてくる。おしくない。」

この藤太、義経を奥州に連れてきた金売吉次の子であったとか。

 

昔々、弁慶に父を討たれ、復讐のために鎌倉から奥州にきた力自慢の兄弟がいた。
しかし弁慶は平泉ですでに死んでいた。
 
兄弟は鎌倉に帰る気にもなれず、磐梯山で盗賊になり暴れまくった。
しかし後に改心、神?に教えてもらった温泉で宿屋をはじめると、その温泉宿はとても繁盛した。

そしてこの兄弟が作ったといい伝えられている句が。

このところ黄金千杯埋めずおく、屋敷の里のみえるところに
 
 

昔々、倉吉という若者が磐梯山の御鏡沼で不思議な美女に頼まれごとをした。
倉吉がその願いをかなえると、毎日米三粒をあたえると金貨を生むという馬をお礼にもらった。

それから倉吉は毎日馬に米三粒をあたえ、金貨を得、裕福になった。
しかし欲が深くなり、一度に沢山の米粒をあたえると馬はいなくなってしまった。
そして倉吉の家も身もほろびた。

 
 
昔々、伊達の高子に熊坂という長者が住んでいた。
奉公人の三吉というのが、いつもずぶぬれで、へとへとになって彼の屋敷に帰ってくる。
熊坂が不思議に思い、三吉にわけをきいてみると。
 
「実は沼の中に黄金が輝いている、しかしどうしてもとることができない。」
 
二人で調べた結果、これは山の黄金が沼に反射しているのだ。
そこで山を掘ってみるとおびただしい黄金が 



昔々、ほんとに昔、天平の世、奈良の都で国家をあげて大仏を作っていた時。
大仏に使用する鍍金(めっき)が足りなくなり、さしもの大業も頓挫しそうになった。
実は当時、金は日本にはないといわれていて、輸入にたよっていた。 
 
そのとき、日本にはないとされた黄金が奥州で産出されたと報告があり、金九百両が急使でとどけられた。
これにより大仏を完成させることができたとか。

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